経済界の表紙を飾る古葉竹識監督
本屋へ立ち寄って新刊本等を見ていたら、
表紙に古葉竹識監督の写真が掲載されていた「経済界」の本が目に入ってきた。
写真の横に「表紙の人 東京国際大学硬式野球部監督 古葉竹識」と説明書きがあった。
古葉竹識氏には、2年前から金子教育団本部の要請で野球部監督の話があった。
当時プロ野球リーグの札幌アンビシャス監督を務めていたため、プロ退団後2年間は学生指導ができないという学生野球協定により、2月の正式就任まで待ったいきさつがあった。
古葉監督就任の効果はとても大きい。
広島カープを3度日本一にした実績のある人が、なぜ大学野球の監督として新天地に転じたのか。
その話題性もあり、マスコミ(テレビ・新聞等)は取材を重ねてきた。
テレビの「スポーツうぐるす」で特集されたときに、江川卓キャスターは、古葉竹識氏のことを「選手を育成することの上手い人である」と評価していた。
野球部の練習会を開催したところ、120名の高校生が集まった。
中には、おじいさんやおばあさん、両親などと一緒に参加していた者もいたようだ。
そのうちのほとんどが受験をし、入学した。
野球部には80名の新一年生が入部して、総勢150名の大所帯となった。
広島カープで活躍した津田恒美投手は32歳で早世した。
その一人息子の大毅くんは、古葉竹識監督就任の情報を得て、九州の大学から東京国際大学へ編入学してきた。
親子二代に亘り古葉監督の指導を受けることとなった。
練習では、とても厳しく部員を見守り、指導している。
「やる気のない者はやめていい。本当に野球をやりたい者が残っていく」と言うので部員達も必死に練習に取組んでいる。
自分がどうしたらチームに貢献できるかということを常に考えて行動するように指導している。
試合でベンチ入りできる選手は限られている。
多くの部員の中から選ばれた精鋭たちはチーム力を高めていく。
東京新大学リーグの強豪である創価大学や流通経済大学を倒して優勝してほしい。
神宮球場の大学選手権大会に出場すれば、大学の関係者や卒業生の多くが応援に集まることだろう。
東京国際大学は、国際交流を積極的に取り入れている。
スポーツを通した取り組みもとても重要であり、大学で野球を教えるのもその延長である。と古葉監督は言う。
「私が教えることで最も重きを置くべきことは、野球を通して培った人間形成は勝ち負けより重要なことです」とまとめていた。
(5月29日記 池内和彦)
本屋へ立ち寄って新刊本等を見ていたら、
表紙に古葉竹識監督の写真が掲載されていた「経済界」の本が目に入ってきた。
写真の横に「表紙の人 東京国際大学硬式野球部監督 古葉竹識」と説明書きがあった。
古葉竹識氏には、2年前から金子教育団本部の要請で野球部監督の話があった。
当時プロ野球リーグの札幌アンビシャス監督を務めていたため、プロ退団後2年間は学生指導ができないという学生野球協定により、2月の正式就任まで待ったいきさつがあった。
古葉監督就任の効果はとても大きい。
広島カープを3度日本一にした実績のある人が、なぜ大学野球の監督として新天地に転じたのか。
その話題性もあり、マスコミ(テレビ・新聞等)は取材を重ねてきた。
テレビの「スポーツうぐるす」で特集されたときに、江川卓キャスターは、古葉竹識氏のことを「選手を育成することの上手い人である」と評価していた。
野球部の練習会を開催したところ、120名の高校生が集まった。
中には、おじいさんやおばあさん、両親などと一緒に参加していた者もいたようだ。
そのうちのほとんどが受験をし、入学した。
野球部には80名の新一年生が入部して、総勢150名の大所帯となった。
広島カープで活躍した津田恒美投手は32歳で早世した。
その一人息子の大毅くんは、古葉竹識監督就任の情報を得て、九州の大学から東京国際大学へ編入学してきた。
親子二代に亘り古葉監督の指導を受けることとなった。
練習では、とても厳しく部員を見守り、指導している。
「やる気のない者はやめていい。本当に野球をやりたい者が残っていく」と言うので部員達も必死に練習に取組んでいる。
自分がどうしたらチームに貢献できるかということを常に考えて行動するように指導している。
試合でベンチ入りできる選手は限られている。
多くの部員の中から選ばれた精鋭たちはチーム力を高めていく。
東京新大学リーグの強豪である創価大学や流通経済大学を倒して優勝してほしい。
神宮球場の大学選手権大会に出場すれば、大学の関係者や卒業生の多くが応援に集まることだろう。
東京国際大学は、国際交流を積極的に取り入れている。
スポーツを通した取り組みもとても重要であり、大学で野球を教えるのもその延長である。と古葉監督は言う。
「私が教えることで最も重きを置くべきことは、野球を通して培った人間形成は勝ち負けより重要なことです」とまとめていた。
(5月29日記 池内和彦)