1月1日のヒルティ先生の言葉の中には
元旦早々に「病気」の話が出てくる~
病気は、それが正しく理解され
善用されるならば、心の純化に
到達する、てっとりばい方法である
その前の文章には「品性の純金」という
文章がある
品性の純金は、ただ強度の、しかも
度重なる精錬によってのみ得られる
ものだということを、はっきり
悟るに違いない。
この「度重なる精錬」というのが病気ということ
なんでしょうねえ~
11月27日にも「病気」の文章がある
静寂な時間 -神からの贈り物ー
神は静かな時間、静寂な刻が必要とみると
「病気」を通じてそれを贈られる
本当に、そうだと私は思うようになりました
ヒルティ先生のこの「病気」という言葉が
わたしの心に「深く」染み入るのです
胃潰瘍の手術、脳梗塞の手術、ガン摘出の手術
その間の入院生活で感じることは「病気」に
ならないと分からなことがたくさんあると思う
すべてを「受け止める」、これしかない私ということ
「頭」ではなく「体」でもなく、どう表現していいのか
私の「心」の底の底の深か~~いところにある
「一点」のところに届いた・響いたことなんです
「永遠の今」とか「これが見納め」とか「さらっぴんの朝」
とか「南無阿弥陀仏」「ハレルヤ~~~~」とか
「何を見てもありがたい」「なんて楽しいことか!」
こんなことを思うようになった
これは、私の「つぶやき」ですね~~
だから、これまで頭のどこかで馬鹿にしていた
「他力本願」の浄土真宗、我が家は浄土真宗なんですよ・・・
「自分の力」ではなく「他人にお任せ」
ただ「南無阿弥陀仏」を唱えるだけでいい
そんな、馬鹿な・軟弱なことなんてねえ~~
私は、おばあちゃんからよく教えられていた
小学校の時も中学・高校・大学、そして社会人に
なっても、そう思って暮らしていたんです
そう、正確に言えば「満69歳の2月」までの私はね
その「他力本願」がそのまま分かるようになった
だから「自力作善」というのはとても楽しい作業
「歎異抄」の中に、親鸞という人は???と
疑問符を打つことをよく言っておられる
「親鸞、一人がためなり」これなぞは代表的なもの
私はこれを受けて、こんな言葉が私に湧いた
神(イエス・キリスト、阿弥陀さま)の
仕業(しわざ)は 一瞬
受け止めるは
親鸞 一人がためなり
この親鸞聖人の「親鸞 一人がためなり」というのは
親鸞聖人の「宣言」だと思う
この宣言は、お釈迦様の「天上天下唯我独尊」と
同じものだと思うようになった
親鸞聖人が、大地に立ち、両手を大きく広げ
「天」に向かって聳え立っている姿が見えてくる
大きな親鸞聖人、おんぼろの黒染めを身に纏う
親鸞聖人の大きな背中が目の前に見える~~~
令和2年、正月のわたしの「つぶやき」でしたねぇ~
こんなことを書くつもりはなかったんですが・・・
指が勝手に動き出してしまいましてねえ~~~
不思議です、こんなことを書くつもりは
本当になかったことなんですよ!!