気軽に茶道をしてます。

日々のお稽古とともに、できるだけ手作りのお菓子で
お茶を楽しんでいる様子や、四季折々の変化もお伝えします。

本能寺の鬼瓦は

2016-02-03 16:01:58 | 散策
先日京都にお邪魔した折、昼過ぎに着くので、
お昼ご飯をスマホで検索し 後幸町通りのお店へ、
捜しますが、そこは普通の町屋で工事中、残念。
そぐ近くに良く似た京町屋のお店がありました。
前に京野菜が置かれている「ここら屋」京都本店さん
「ここら」は京言葉の「ここらへん」からで、
ご近所という意味ですが、奈良でも結構使います。

外国からの方が多くお見えで、2階へ上がられました。
ここまでインバウンドの影響が

ほうじ茶がポットで、すぐ出てきました。
ランチはワンプレート(980円)では、こんなものですね。
ぶらぶらと、寺町通りを上がります。
こんなところに『本能寺』が、
由来は「本門八品相応能弘之寺」の言葉より
当初は本応寺、そして本能寺にと変わり、
また現在能という字を能に替えておられるのは、
五度も火災に遭い匕(火)を嫌い能の字にされたそうです。
実はこの場所は、日曜日1/31の大河ドラマで暗示されていた
「本能寺の変」の場所ではありません。
そこは四条西洞院の蛸薬師です。

当時の本能寺は、宮中に近くて、
守るのにも堅固な場所にあったそうです。
本能寺の変により焼け落ち、出土した鬼瓦は、
今の鬼瓦と比べ、非常に雅な印象をうけますね。
元本能寺現本堂
現在のお寺は、秀吉によりここへ移されており、
総門の横から、日蓮さんが

本堂では、綿掛けを掛けられた日蓮さんにご挨拶を

そして信長公墓から「火伏のいちょう」を見ながら
思い出したことがあります。
信長の謀とも言われる浄土宗と日蓮宗(法華宗)の間の法論
安土宗論(1557年)にて、敗北したため、
布教の道が閉ざされてしまい、衰退した時期があります。
しかし、信長は宗論後も本能寺を始めとした法華宗の寺に
宿泊しており、不正をしていない傍証ではないでしょうか。
豊臣秀吉の時代になり、安土宗論が再検討され、
秀吉から布教を許す旨がかかれた手紙が出され、
それを京都中に知らせるため、扁額にしたお寺
頂妙寺』が、鴨川を挟んで仁王門通りにあることです。
京都国立近代美術館へ向かう通り道に建っており、
俵屋宗達筆の牛図(重文)でも有名なお寺です。
山門から
仁王門では通常、金剛力士像ですが、運慶作と伝えられている
多聞天(向かって左)と持国天(向かって(右)がおられます。
仁王門
そして門の真ん中に、『扁額』があります。

奥の本堂前に日蓮さまのやや固いお顔とともに、

白梅が咲き始めておりました。

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