不定形な文字が空を這う路地裏

渇いた夢


歪んだ燭台の中の左手の小指の先端の骨はすでに黄色く、そこでどれだけの時間が流れたのか見当もつかなかった、一匹の大きめの蟻が意味ありげにそのそばに留まり、しきりに触角を揺らしていた、石で作られた建物は湿気を溜め込んでいてお世辞にも居心地がいいとは言えなかった、窓枠ごと朽ちて落ちてしまったがら空きの窓からは放置された庭園が見えた、ヨーロッパによくあるような迷路めいた庭、その一番奥にはタージ・マハールのように温室が設けられていた、すべてが荒れて色褪せていた、植物人間を見ているみたいだ、そこに在るすべてが死んだために生き続けていた、以前は噴水であったのだろう空っぽの池は凝った彫刻のついた石で囲われ、その中心には見開かれたまま白く澱んだ眼球のように水を吹き上げるためのノズルが取り残されていた、生きものだけが死を語るわけではない、死んで骨になる人間とは違い、建造物は運命の時まで延々と死に続ける、そして俺はずっとそんなものを眺め続けている、日本がまだ羽振りがよかった時代、どこかの社長が金にものを言わせて作った別荘とのことだった、動機としては悪趣味だったが、徹底された模倣としてはなかなかの出来だと言わざるを得ない、三階へと向かう階段にはペーパーバックが落ちていた、恐るべき子供たち、とタイトルが記されていた、失われた窓の空間には似つかわしくない細やかなガラス片が踊り場に散らばっていた、建物は壊れ始めてからの方がずっといろいろな言葉を聞かせてくれる、三階には鹿鳴館を思わせる内装の部屋があり、ソファーが円を描くように中心に向かって七つ並んでいた、長く降り積もった埃のせいですべてが酷くぼやけて見えた、巨大なオーディオ・システムのターンテーブルに乗せられたレコードのラベルは判別不可能なほどに剥げていた、もうすぐ西日に変わるだろう午後の陽射しが窓から忍び込んでいた、この時間の太陽がすべてを焼いてしまったのかもしれない、以前は分厚いカーテンで覆われていたのだろう、キャビネットに並んでいるレコードはどれもポップ・ソング以前の代物だった、ちゃんとしたオーケストラが、ちゃんとした感情を表現するために切磋琢磨していた時代の遺物だ、スピーカーはゴーレムのように沈黙していた、またいつか通電する日を待っているのか、それとももうすべてを諦めているのか、その佇まいから察するのは不可能だった、三階にはもうひとつ部屋があると聞いていた、ただその入口がどこなのかわからないという話で、なんとも釈然としなかった、建物の外観を思い返してみると、確かに三階にもうひとつ部屋があるべきだという気がした、もしも三階がこの部屋のみなら、外観は上部が少し痩せた形になっていなければならない、ではその部屋の入口はどこだろうか、この部屋から行くのか、それとも廊下のどこかからか、窓の外の景色からこの部屋のだいたいの位置関係を掴み、おそらく踊り場のどこかに扉が隠されているだろうと推測した、踊り場の壁に扉と、部屋へ上る階段が隠されている、部屋にあたると思われる位置には窓はないはずだったが、天窓などがあるのなら下から見上げてもわからない、その可能性は大いにあるだろう、隠し扉は簡単に見つかった、花の無い花瓶を置いてある小さなテーブルをどけ、そこの壁に手をついてすこし力を入れてみると難なく横にスライドさせることが出来た、案の定そこには上へと向かう階段があった、人ひとり歩くのが精いっぱいの狭い通路だった、ライトを用意し、階段を上ると十段ほどで扉に行き着いた、扉には鍵が掛かっていなかった、手前に開くとそこにあったのは無数の頭蓋骨だった、様々な真っ黒い眼窩がこちらを見ていた、あるものは正面から見据え、またあるものは多少の興味がある、という感じで、横目で眺めていた、素人目でどうこういうことは出来ないが、おそらく本物だろうという気がした、と同時に、これが部屋全部に詰まっているわけではないだろうと思った、頭蓋骨の壁の後ろ側から、締め切られていた部屋が持つ特有の空気が流れ出してきていた、この向こうには空間があるのだ、頭蓋骨の壁に蹴りを入れると簡単に崩れた、積み上げられていただけで固定はされていなかったのだ、あらわになった部屋の真ん中に椅子が一脚あり、そこには赤いワンピースを着た少女のミイラが一体腰かけていた、天井にはやはり天窓があり、少女にスポットを浴びせ続けていた、部屋の中をぐるりと歩いてみたが、その他にはなにも残されていなかった、俺は少女を見た、彼女を封じ込めるためだけに作られた部屋なのだろう、でもその理由を確かめるための材料はなにもなかった、すべてをそのままにして出て行くことにした、頭蓋骨をもう一度入口に積み上げようとしてみたが上手くいかなかった、御免よ、と俺は少女に詫びた、少女は微かに頷いたように見えた、踊り場に出るまでずっと、彼女の視線を背中に感じていた、建物の外に出る頃には夕焼けが始まろうとしていた、逆光にシルエットを浮かび上がらせる別荘は静かにその役目を遂行しつづけていたのだった。


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