hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

落合周辺の坂道(2)

2016-01-11 05:00:00 | 日記

『東京の坂・江戸の坂』その64。前回に続き、落合周辺の坂道を回る。久七坂を下り、新目白通りを行き、次の交差点の先を右に曲がるとすぐに『西坂』の標識がある。


坂はその先にあるが昔の字本村の西側にあるため、この名前がついたらしい。この坂道もくねくねと登る急坂である。

また、坂を下り、新目白通りに沿って歩く。次の角を右に曲がるとまた坂の標識。『霞坂』の名前の由来は坂の下が一面の田んぼで春霞の立つ田園風景が美しかったから付いたものだが、今の情景からは想像も付かない。


さらに新目白通りを歩くと右にくの字に曲がるように緩い坂があるが、これが『市郎兵衞坂』、名前の由来ははっきりしないが、この辺りでは珍しく緩やかな坂でしばらく行くとまた新目白通りに戻る。



道の反対側に渡り、山手通りと新目白通りの間の斜めに行く。すると二股になり、これを左に行くと道が狭くなり、車は通れなくなるが、その先は急に下り坂になる。この坂道が『見晴坂』、昔はこの坂道の頂上からは富士山も望めたらしい。今も新宿の高層ビル群が正面に見え、眺めはなかなか良い。


見晴坂は急坂であり、車も往生するようであるが、坂の下には妙正寺川が流れている。坂を下り、右に中井方向を目指すが、次の角にまた坂の標識。これが『六天坂』で坂の上には第六天の祠があったのでついた名前らしい。


因みに『第六天』神社とは第六天魔王(他化自在天)を祀る神社であり、仏教を信奉している魔王のことで背の高さは2里、寿命は人間の1600才を1日として16000歳の長寿。他人の楽しみ事を自由自在に自分の楽しみにする法力を持つ、なんて書かれているが、関東東北にはこれを祀る神社や祠が多いらしい。
ここからしばらく商店街を歩くと中井駅に到着する。

非常列車停止ボタン

2016-01-10 05:00:24 | 日記

非常通報機(ボタン)と非常ドア解放装置、これらは地下鉄の車両には必ず付いているものだが、電車遅延の際に『電車内で急病人が発生』『電車内の確認』などで非常ボタンが押されため、遅延しており申し訳ございません、というアナウンスは聞く機会も多い。

また、子供がいたずらでボタンを押したとか、乗客同士のケンカが発生したために非常ボタンが押され困ったもんだ、といったネットへの投稿も多い。しかし、実際に目の前でこのボタンを押すところを目撃することは滅多にない。

小生は通勤でいつものように1月5日東京メトロ半蔵門線渋谷駅発午前7時準急久喜行に乗車した。まだ、お正月モードも残っており、人も少なく、表参道駅を越えると大半の人が席に座る状態だった。小生は最も前のドアの近く、すぐ後ろが非常ボタンのある席に偶然座っていた。

特に変わったこともない風景を一変させたのは九段下駅に到着した際。ガタッという音がして左斜め前の端の席に座っていた筈の人が座席から崩れ落ちたのだ。あわてて隣の男性が頭を打たないように支えた。ちょうど駅に停車中で間も無くドアが閉まろうとした時であったが、倒れた男性の隣に座っていた人が小生の方に歩み寄ってきて何の躊躇なく非常ボタンを押した。すると予想以上の大きな音がして、同時に車掌から何があったのか問い合わせがあった。その男性は落ち着いて状況を説明、倒れた男性はなんとか意識はあるが頭を抱えていること、ホームに運び、壁に凭れるように座っていること、駅員に至急来てもらいたいことなどである。そして、倒れた男性の所に行き、駅員に引き渡すまで寄り添い、引き渡すと元の席に座り何もなかったように新聞を読み始めた。会社員風の彼の素性は分からないが、小生ではこのような手際の良い対応はできないなあと感心した。

非常通報機の導入は2001年にJR新大久保駅で発生した乗客転落事故が契機で、まずはホームに非常ボタンがつけられ、今は列車にも取り付けられている。しかし、小生など中々押す勇気がないが、こうやって使うんだという模範を見せられたような気がした。

東陽町駅(1)

2016-01-09 05:00:20 | 日記

『metroに乗って』その31。今回は東京メトロ東西線東陽町駅、1967年に東西線が開通した際の終点で東西線が開通した際に小生はこの町の名前を初めて知った。駅の場所は四つ目通りと永代通りの交差点の下にあり、近くには江東区役所などがある。


地上に出て四つ目通りを北に向かうとすぐ左側に深川高校が見えてくる。深川高校は旧東京市立一女の系譜があり、卒業生には五月みどりや三遊亭円楽(6代目)もいる。

少し行くと右側に江東区役所、その前には洪水の際の水の高さを示すオブジェがある。これを見るといかに伊勢湾台風が凄かったのかがよく分かる。


その先には横十間川親水公園と井住橋跡がある。横十間川は川とはなっているが実は運河で、江戸城から見て東西に流れているため、『江戸城から見て横方向に流れる十間幅の川』から名前が付いた。流れは細いが、川沿いに進むと四つ目通りの喧騒が嘘のような静けさがある。



元に戻り、葛西橋通りを超えると次は仙台堀川にぶつかる。この川は先ほどの横十間川より川幅があり、こちらも親水公園となっている。川のそばまで降りて豊住橋をくぐり反対側に歩いてみる。



川のほとりにはススキの穂が揺れ、鴨たちが泳ぐまさにサンクチュアリーになっている。その先にプールのような施設があるが、これが豊住釣り場で誰でも道具を持って来れば無料でへラブナ釣りができるらしい。また、釣れた人は1匹に限り持ち帰ることもできる。ただ、午後3時までのため、釣り場には誰1人おらず、寂しく噴水が水を噴き上げていた。


(以下、次回)

西武園駅~西武遊園地駅、多摩湖線などを巡る

2016-01-08 05:00:57 | 日記

鉄道シリーズ その125。前回の続きで西武園駅から。駅を降りると目の前に西武園競輪場、ほとんどの乗客はまっすぐ歩いて行く。その奥にはゴルフ場もあるようだ。

小生は西武遊園地駅を目指して左の方に向かうが、最初は平坦な道が徐々に上り坂になり、周りにはジョギングをする人が増えてくる。勾配はともかく長い上り坂にやや辟易。

しばらく歩くと右前方には遊園地、特に観覧車、さらに夏のみ稼働すると思われるウォータースライダーなどが見えてくる。


しかし、遊園地までには結構距離があり、有料駐車場を越えて15分くらい歩き、遊園地入口、そして左に折れてようやく西武遊園地駅に到着する。


駅は遊園地の入り口の反対側、少し階段を降りたあたりにあるが、約50年ぶりだが、地形は変わっていなかった。当時は多摩湖駅と称していた。

多摩湖線の歴史だが、1930年に多摩湖鉄道が萩山~村山貯水池(仮)を開通、その後、西武鉄道村山線(現在、新宿線、西武園線)との立体交差問題を解決、1936年に村山貯水池駅まで延伸、全線を開通させた。その後、1940年に多摩湖鉄道は西武鉄道に吸収合併され、1941年に村山貯水池駅を狭山公園駅に改称。戦後、1951年には多摩湖駅、さらに1961年には0.4キロ延伸させて現在の場所を終点とした。また、現在の名前には1979年に改称された。


西武遊園地駅はかつておとぎ電車と言った山口線の乗り換え駅でもあり、駅の反対側には西武球場前駅行きのホームがある。

多摩湖線は基本的には国分寺~西武遊園地の直通運転をしている。丁度ホームには折り返しの新101系車両が4両編成で入線してきてガラガラのまま出て行く。

西武園線と異なり、多摩湖線は高架になっているため、周囲の眺望がよい。最初は雑木林も散見されるが、武蔵大和駅周辺は住宅がびっしり。さらに八坂でも多数の乗客が乗り込んでくるため、もう席に座れず、立つ乗客も出る始末。乗り換えの萩山ではさらに人が乗り込む。やはり、4両ではなかなか乗客が捌けないほど住民が増加しているようだ。

今回は萩山で下車して新宿方面に向かったが、国分寺線、多摩湖線、西武園線の由来からくる複雑な経路とその距離感が理解できた旅であった。

落合周辺の坂道(1)

2016-01-07 05:00:12 | 日記

『東京の坂・江戸の坂』その63。今回は落合周辺の坂道を2回にわたり歩いてみる。西武新宿線下落合駅で下車、新目白通りに出て、高田馬場方向に歩く。

しばらく行くと左側に氷川神社、創建ははっきりしないが第5代孝昭天皇(紀元前5世紀)創建と言われる歴史のある神社である。


この神社にお参りして一本裏の道を歩くと左側に坂道を発見。


これが『相馬坂』で坂の右側にはおとめ山公園。おとめ山とは『お止め山』つまり将軍家お鷹場として一般人の立ち入りを禁止していた場所で明治になり相馬家が買って屋敷を立てたため、この坂が相馬坂となった。おとめ山公園は木々が生い茂る東京では珍しく静かな公園である。

このきつい相馬坂を登り、落合第六小学校を左に曲がる。道が少し細くなり、左側にまた下る坂、これが『七曲り坂』。名前の通りくねくねと曲がった坂で古くからある坂道。江戸時代は細い坂であったが、明治時代に車が通れるようになり、交易に使われたようである。



七曲り坂を下まで降りて右に曲がり、新目白通りを歩く。この辺りの坂は台地に上る急坂だが、特徴としては皆道が曲がりくねっている。次の角を右に上がっていく坂が『久七坂』である。江戸時代には農家はほぼ坂の上にあり、田んぼが川沿いにあったので田んぼの往復のために使われた。因みに『久七』はこの辺りに住んでいた住民の名前らしい。



このあたりの坂巡りは冬でも汗を掻くほどである。
(以下、次回)

人形町田酔~人形町グルメ

2016-01-06 05:00:38 | グルメ

今年最初の飲み会は人形町からスタート。今日のお店は『田酔』、ランチには何度となく伺うお店で昼は日替わりの魚料理に卵焼きととっておきのご飯と味噌汁、さらに香の物がついて1000円。ご飯は魚沼産コシヒカリらしいのだが、炊き方が良いのか、とにかく美味い。そんな店だから夜も悪いはずがない。

今日は後輩のAさんと半年ぶりの飲み会。まずはビールで乾杯、突き出しは青海苔の乗った茶碗蒸し。


次に名物のお通し盛り合わせ、今日は赤ナマコの酢の物、ポルチーニ茸入り牛肉のしぐれ煮、花豆の甘煮、柿と大根の膾、白子の煮物、姫サザエ、筑前煮、サツマイモのフライ小豆餡のソース、数の子の粕漬けと小皿が沢山並び楽しい。



早速、酒に移り、まずは鳳凰美田(栃木県)とサラッとしたところからスタート。正月らしく甘いつまみが多いが、実は日本酒にはよく合う。さらに日高見(宮城県)のキレの良い辛口も呑んでしまう。

注文はゴマサバ、ポルチーニ茸入りのカニクリームコロッケ、卵焼きを選択。まずはゴマサバが登場、サバは薄切りで青ネギと刻み海苔が振られていて味付けがいい。酒も少しコクのある王禄(島根県)を注文、鯖に負けない旨味を感じながら呑む。

ポルチーニ茸入りカニクリームコロッケは先ほどのしぐれ煮同様、日本酒・ワイン・ビール・焼酎と何にも合わせられるつまみ。

さらに最後は名物の卵焼き、出汁がたっぷり。ロ万(福島県)を注文する。

今日は挨拶回りの歩き疲れもあり、この辺でお開き。本当はもう一軒を目指したが入れなかったという落ちでした。やはり、ご飯は食べたほうが良かったな。また、次回。


人形町田酔
中央区日本橋人形町1ー7ー6 HSビル2階
0356458588

幸寿司(立食そば)~高田馬場ランチグルメ

2016-01-05 05:00:02 | グルメ

本当に久しぶりの立食いソバシリーズである。しかし、店の看板には『江戸前 幸寿司』と書いてあるが、その下には立食そばの暖簾と不思議なお店。場所はJR山手線高田馬場駅を降りてすぐの所にこの店はある。実は昼は立食いソバ店、夜はカウンターだけの寿司屋になるのである。

入店すると目の前に『大盛り無料』の張り紙がある。カウンターがL字になり、せいぜい入って10人くらいのお店である。店に入るといらっしゃいと声がかかり、メニューを見る。一番高いのが『天玉そば』の430円、何故か『たぬ玉そば』も430円、『山菜そば』が400円と続く。あまり考えず、『天ぷらそば』390円を注文。カバンを置こうとカウンターを見ると何故か2つ荷物が入るところがあるが、幅が薄く諦めて下に置こうとすると、店のおばさんが引っかけるところがあるからとわざわざ吊るしてくれる。

そばは蒸し麺でやや太め、温めて丼にいれ、揚げ置きのかき揚げを乗せ、麺汁を掛けてネギを入れ出してくれる。代金は券売機でなく、手渡し。一昔ならどこにでもあった風情があり、特に目新しいものでもないが、何故かホッとする。

そのとおり、昔からの立食いそばだが、関東風の割にはあまり麺汁は濃くなく、そばも悪くない。夜からのメニューなのか、寿司のネタが壁に掛けてあるが、口コミを読むと夜は席が出来て先ほどのカウンターの向こうのガラスのショーケースに魚を並べ、握った寿司を置くらしい。

わずか5、6分だが、昔ながらの昭和が漂う立食いそば屋の匂いを嗅ぐことができた。そういえば学生時代に稲門ビアホールもこの裏あたりにあり、早稲田祭の片付けの後に来た場所である。日中は親父さんが甲斐甲斐しく客が食べた丼を引いて、洗っていた。夜も良さげな店である。

幸寿司
新宿区高田馬場2ー19ー6
0332095955

カレンダーをじっくり眺めてみる

2016-01-04 05:00:12 | 日記

カレンダーをしみじみ見るのは1年のうち、年末年始の時期と夏休みの計画をする7月くらいである。特にこの時期はゴールデンウィークの曜日の並びと祝日が何回土曜日と重なるかといったポイントが気になるのだが。

小生が以前から気になっていたのが、『正月休みの日の並び(日数)』と『GWの休みの日の並び』の関係である。というのは数年前まで金融機関に勤めていたので年末は大晦日と三が日しか正月休みがなかった。そのため、より強く感じたのかもしれないが、正月休みとGWの3連休の並びがどちらもいい年はない気がしていた。

今回はこれを検証してみたい。まず、来年だが(2016年は閏年)元旦が金曜日、三が日は土、日である。一方、GWの5月3、4、5日は火、水、木曜日であり、5月の3連休の曜日は正月三が日とは重ならない。

2017年(通常年)を見てみると2月以降は1日早くなるため、正月休みは日、月、火曜日、5月の連休は水、木、金曜日となる。つまり、通常年も正月休みまたはGWに土日が入ると反対側には土日が入らないことになる。

さらに祝日(年により日にちの変わる春分、秋分の日を除く)を曜日別にプロットすると面白い。通常年は元旦が日曜日の場合は祝日が木、金、土曜日が各3に対し、日、月、火曜日はなく(正月2、3日を除く)、水曜日が1日と偏りがある。さらに閏年の場合、元旦が水曜日の年は正月三が日を含めても祝日が土曜日になることはない。逆に土日に祝日が当たる年がやたら多い年も納得がいく。(例えば2017年)

まあ、この法則は7日で1週間が回っているのだから当たり前といえば当たり前だが、改めて調べてみるとなぜか面白い。

第52回全国大学ラグビーボール選手権準決勝

2016-01-03 05:00:06 | 日記

第52回全国大学ラグビーボール選手権準決勝を正月2日の秩父宮ラグビー場に観戦に行く。いつも、カードが決まる前に切符を買うため、どういう組み合わせになるかは予選終了までわからない。

今回は第1試合が明治vs東海、明治は同率ながら対抗戦1位、東海はリーグ戦1位の好カードである。2日は朝こそ寒かったが、徐々に太陽が雲から顔を出し、12時にラグビー場到着時からやや暑いくらい。昨年来のラグビー人気を引きずっているのか、入りもいい。

試合は前半は完全な明治ペース、両ウイング紀伊と成田が相手のディフェンスを振り切り綺麗なトライが2本続くなど3トライ(2ゴール)、一方、東海もやはりウイングの足で石井が1トライを取り、19ー7と明治リード。しかし、試合早々明治の守りの要であるFB田村が怪我で退場したのが気になった。

後半は東海はSH湯本が密集から上手く抜け出し6分にトライ、ゴールも決まり19ー14とし、さらにFLロバーツ、さらにNo8タタフを入れて追いかける。明治も何回かチャンスは作るが、ゴール前でハンドリングミスや反則でチャンスを潰す。そしてタタフに28分にトライを取られ逆転。2点差だったが、そのあとまたもや35分にタタフにトライを取られ19ー28で東海が競り勝った。やはり、メンバー交代が大きく勝負を左右した。

第1試合が終わると急に多くの人が席を立つ。第2試合は帝京vs大東文化の試合。少し見劣りのする大東文化が帝京の粗い攻撃の間を縫ってトライを取るが、攻められるとお互いにすぐに点の入る大味な試合。帝京はディフェンスに難があるが、失点より多くの点を個人の強さと速さで奪うそのもののような試合で68ー33となった。なにしろ両軍合計で15トライ101点となったが、やはり帝京は強い。結果、帝京ー東海の決勝となるが、帝京の優位性は否定できないだろう。

第1試合の明治ファンからの応援の声の大きさが印象的な試合であった。ただ、今年は出場ならなかった慶應も何とか来年は正月に見たい、これが小生の切なる願いである。

西武国分寺線

2016-01-02 05:00:01 | 日記

鉄道シリーズその124。今回は西武鉄道国分寺線等を取り上げる。西武鉄道を語る上では国分寺線を見逃すわけにはいかない。西武鉄道の前身である武蔵野鉄道が設立したのが1912年のこと、1915年には池袋~飯能間が開通した。

しかし、国分寺線を開業させた川越鉄道は1892年創立され、1894年に国分寺~久米川(仮駅・現東村山)が開業、1895年には国分寺~川越の全線が開通している。つまり、現在の西武新宿線は西武新宿~本川越間だが、かつては国分寺~川越(現在の本川越)で運転していたものであり、その名残が今も本川越までの直通運転として残っている。

ここで少し西武鉄道の話をするが、堤康次郎が創業したのは沿線開発を目的に起こした箱根土地という会社で多摩湖鉄道(国分寺~萩山、現在の多摩湖線)を1928年に開通させたもので1934年に武蔵野鉄道(池袋線など)、1943年に旧西武鉄道(新宿線、国分寺線)を傘下に入れて今の形となった。当時はその後東京都に売却した杉並線(新宿~荻窪、都電14系統)も保有していた。この線は1921年に西武軌道という会社が開通させたものだが、この『西武』を引き継いで現在の社名にしているのである。

つまり、西武鉄道グループの中で最も古い線が国分寺線であり、堤康次郎が開通させたのが多摩湖線、両方とも国分寺が始発というのも面白い。
国分寺駅に着くとJRから西武に直接乗り換えることもできるようになっていて、手前が国分寺線、奥が多摩湖線でホームの高さが違う。国分寺線のホームに降りると本川越行の6両編成の2000系車両が待っている。国分寺線自体は東村山までだが、西武園や本川越行もある。


国分寺駅を出るとしばらく中央線と並走し、右手に緩やかに曲がって行く。この辺りはまだ住宅地が広がり、恋ヶ窪、鷹の台と停車して行く。

小川は比較的大きな駅で拝島線への乗換駅である。その先で同じ国分寺発の多摩湖線と交差する(多摩湖線が高架)が、ここには駅はないのが異なる鉄道会社が経営していた名残である。東村山駅ではしばらく停車、反対ホームには西武園線の車両が待っている。競輪場に行くスポーツ紙に赤鉛筆という独特な風体のおじさんたちが乗り換える。


小生も西武園行きに乗ることにした。西武園駅、西武球場前駅、西武遊園地駅は近接はしているが、それぞれに東村山(西武新宿線)、萩山(西武拝島線)、西所沢(西武池袋線)とそれぞれ違う方向から来る。これもかつて違う会社が経営していたことによるものだが、とにかく分かりにくい。ちなみに西武園駅は西武園競輪場やゴルフ場は近いが、西武遊園地には15分くらいかかる。折角なので、小生も西武遊園地駅まで歩くことにする。(以下次回)