hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

日本橋室町

2015-02-18 05:00:26 | 日記

日本橋町巡りシリーズ その15。日本橋が付く地名、言い換えると旧日本橋区の日本橋がつく町は現在全部で19。このシリーズは今回15番目であるが、残る町はあと5つ、日本橋、東日本橋、日本橋富沢町、日本橋人形町そして今回取り上げる日本橋室町である。

日本橋室町は日本橋本石町と日本橋本町に挟まれ、昔からこの辺りの地名で町の境界にも変化がない。名前の由来は2つあり、一つは京都の室町のように商家が集まっていたからとするもの、もう一つが『土蔵』つまり『室』が集まっていたからとする説がある。


日本橋室町1、2丁目は日本橋三越がかなりの部分を占めており、いわば三井の街である。今の三越は高さが高い新館と歴史を感じさせる本館に分かれている。そして最寄りの駅は三越前と振るっている。


また、その向かい側にはかつて日本橋に河岸があった名残として海産物、特に鰹節を扱う店がにんべんを始め軒を並べている。


室町3丁目は10軒店と呼ばれた商家が立ち並んでいた場所で、古くから雛人形 を商う店が点在した。今は一角が三井不動産が中心となった再開発の途上でビルももぬけの殻である。

室町4丁目は江戸時代には長崎屋というオランダ宿があって海外文化を江戸にもたらす唯一の窓の役割を果たした。



この辺りには小さな商店と家屋が点在、飲食店には今も昔ながらの老舗の店、特に室町砂場(そば)、お多幸(おでん)、玉ゐ(あなご)など美味い店が多い。



最近の室町は三井不動産が運営するCOREDO室町が3棟も立ち、人通りも増えてきており、老舗を大切にしながらも新たな日本橋室町が形成されつつある。とはいうものの、まあ、街を歩くとやはり三井の街であることは今も昔も変わらないようである。

武蔵一宮 氷川神社

2015-02-17 05:00:42 | 日記

古刹ではないが。埼玉県では最も由緒のある氷川神社にお参りに行く。何しろ今はさいたま市の中に含まれたが、合併前は埼玉県最大の都市(県庁所在地は浦和)である大宮の名前の起源である神社でもあるからである。

参道は大宮駅から続く旧中山道(大宮区吉敷町)から2km続き、入口に一の鳥居、図書館辺りに二の鳥居と並ぶ。旧16号線辺りからは両側に車道、真ん中を大きな杉などの並木のある歩道がまっすぐ延びている。

この神社はその歴史に色々な説があるが、少なくとも治承4年に源頼朝が社殿の再建を命じた記録があり、由緒としては第五代孝昭天皇の御代と言われているため、2000年以上前と考えられる。また、氷川信仰とはそもそもスサノオに対する神道信仰で、この神社には須佐之男命・稲田姫命・大己貴命の3柱が主祭神で、関東に多くある氷川神社の総代、また初詣客も県内1位である。

参道の途中の駐車場に車を入れ、しばらく参道を歩くと三の鳥居が登場、さらに両側には池があり、橋を通る。すると朱塗りの楼門があらわれ、中に入ると真ん中に舞殿、その奥に本殿を構えている。真ん中に舞殿があるのはなかなか変わった造りである。


この日も寒かったが、初詣の賑わいにひと段落ついたためか、赤ちゃんのお宮参りの一行にたくさん会うことができた。それにしても境内には宗像神社、石上神社、住吉神社、松尾神社、御岳神社、稲荷神社など多くの境内神社があり、ここに来るだけで多くの神様にお参りできる便利な神社である。

余談だが、参道に売っている団子やの醤油団子は美味かった。

大宮盆栽美術館

2015-02-16 05:00:01 | 日記

趣味は人よりは多い積もり、鉄道・寺社・切手・映画・酒、特に日本酒・地図・坂道・バスなどと挙げるとキリがないが、55歳も過ぎてさらに少し枯れた趣味に憧れをもつようになってきた。新たな趣味として気になるのが盆栽。きょうは車を飛ばして大宮盆栽美術館まで足を伸ばしてみる。

家を出たのが10時20分、高井戸ランプから首都高4号線・中央環状・5号線・埼玉線と乗り継ぎ新都心西ICで降りるとそれほど遠くない。腹ごしらえをした後、カーナビに導かれて美術館到着は12時過ぎ。駐車場も広々、2時間までは駐車料金も掛からない。館内に入ると大きな白梅の盆栽が迎えてくれる。その見事さには目を奪われる。

入場料を支払って中に入ると色々な盆栽の特色、名前、手入れの仕方などが事細かく説明されている。例えば盆栽のどこに目をつけるべきかという点では根張りの重要性、みきの立ち上がり、ジン・シャリ、枝ぶりなどを説明されていて勉強になる。


その先には座敷が設えられていて掛け軸などと共に飾り方を学ぶようになっている。それにしても盆栽に使われる木は松柏と言って松と真柏が基本でそれ以外は雑木ということを知った。

外に出ると撮影が可能なスポットがあり、満開に咲いた白梅、五葉松や黒松の立派な姿、ケヤキの枝ぶりなど見るもの一つずつに関心した。

その後、美術館を出て盆栽村を見て歩く。全部で6ヶ所の盆栽の店が点在。盆栽を即売はしているが、価格も付いていない物も多い。欲しいなあと思う一方でなかなか育てられないかなとも感じ、少し盆栽の勉強をしたくなった1日であった。

古奈屋~丸の内ランチグルメ

2015-02-15 05:00:55 | グルメ

先日、久々にトップスのカレーを食べたら、急に古奈屋のカレーうどんが食べたい衝動に駆られた。

ネットで調べるとCOREDO日本橋の店が無くなっており、店が減っている。近くにはoazoの5階しかないということで早速行ってみた。

12時を過ぎると大変と11時50分に入店、すぐ案内される。メニューにはカレー以外のうどんもあるが、やはり殆どの人がカレーうどんを注文する。小生も丸の内ランチと迷ったあげく、冬限定のかき揚げ入りカレーうどん(1480円)を注文する。周りではランチが人気、というのも天丼と小カレーうどんがついて1280円とお得なかんじだからだ。

注文して8分、カレーうどんが到着。うどんとかき揚げが別盛り、さらにデザートのコーヒーゼリーも付いている。揚げたてのかき揚げはイカ・エビ・タコとタマネギ、三つ葉入りでかなりのボリューム。

ちぎってはうどんに入れて食べるが、クリーミーな出汁が美味い。しばらく食べて辛いスパイスを2杯投入すると見事に辛く変身。


身体もポカポカしてくる。あっと言う間に完食。やはりここのカレーうどんは美味いなあと見ると丼の底に『ありがとう』と書かれている、天下一品のようだが、ここなら毎日来たいくらいである。


コーヒーゼリーもなかなかいい味、ご馳走さまでした。


古奈屋oazo丸の内店
千代田区丸の内1ー6ー4丸の内oazo5階
0352205500


城の図案の切手(第1回)

2015-02-14 05:00:44 | 日記

切手シリーズ その44。建物の切手はこのブログでは国会議事堂などは取り上げたが、調べてみると『城』の切手が断然に多い。それは1989年に発売地域を限定した企画の切手販売が始まってからのものが多い。ふるさと切手の題材としては各地の著名な祭りや観光地、特産物などが取り上げられ、その代表格が城ではないかと思う。(郵政民営化以降は支社毎のふるさと切手の発行は取りやめ、ふるさとをテーマにした切手を全国販売するように変更した。)その種類があまりに多いため、2回に分けてレポートする。

まず、城で最初に日本切手になったものはどの城であろうか。即答できるならばかなりの切手マニアであろう。遡ること約90年、1926年に関東大震災に臨時で作られた震災切手に変わり通常切手として『風景切手』3種が発行されたが、2銭富士山、6銭陽明門、そして10銭が名古屋城の図案である。この切手は途中で刷色が赤に変更されたが、昭和切手が発行された1937年頃まで作られた。


最近ではふるさと切手の東海郵政局第1回目の切手として1989年8月に62円切手が発行されている。

では、最も回数多く発行された城の切手はどこだと思われるか?皇居もあるので江戸城と答えたくなるが、実は姫路城である。国宝であり、その美しさ、完全に残されていることなども理由になっているかもしれない。

姫路城の切手が最初に発行されたのは1951年3月、第一次動植物国宝図案シリーズの14円切手として発行、同時に小型シートも発行されている。さらに円単位になり、刷色が変更され1956年9月に発行された。

次に切手となったのが、1964年6月姫路城修理完成記念の10円記念切手。通常切手とはサイズは似ているが、図案は大きく異なる。

4回目は1969年7月第一次国宝シリーズ第6集の15円切手として発行された。第一次では城は姫路城のみ。第二次では1977年8月に松本城、第三次では1987年7月に犬山城の切手が発行されている。(冒頭の100円切手は松本城)

5回目は1994年12月に第一次世界遺産シリーズ第1集の80円切手として2種類発行され、1枚は城の写真、もう一枚は高橋正身画『姫路城』である。


6回目はふるさと切手で郡山・彦根・和歌山・大阪城とともに2007年6月に発行されている。
1回シリーズで5枚の切手がふるさと切手で発行されるケースはあるが、これだけ度々切手の図案として登場した城はない。

第2回は北から南まで切手となった城を調べてみたい。

小日向の坂道(1)

2015-02-13 05:00:27 | 日記

『江戸の坂・東京の坂』その25。今回は東京メトロ丸ノ内線茗荷谷駅で降りて小日向の坂を歩き、有楽町線江戸川橋駅を目指したが、それを2回に分けてレポートする。

茗荷谷駅は四ツ谷駅、後楽園駅などとともに数少ない地下鉄の地上駅。駅前の教育ビルも無くなり、すっかり昔の名残が無くなっている。駅前に残る紫山堂という薬局だけがあった。この駅はかつては東京教育大学、今も御茶ノ水女子大、拓殖大学、跡見学園、貞静学園など教育機関が周りに多くいつも学生だらけであることは変わらないが。


駅を降りて春日通りに背を向けて左方向に行くと拓殖大学正門に向かう道に出るが、その緩やかなだらだら坂が『茗荷坂』、降り切った所にある深光寺には滝沢馬琴の墓もある。


『茗荷坂』は元は茗荷谷から小日向に登る坂を言ったが、今は茗荷谷駅から下る坂を指している。なお、曙橋の茗荷坂とは由来が随分と異なる。


深光寺の前をまっすぐ行き、丸ノ内線の下をくぐり左に向かうと『釈迦坂』になる。細く湾曲した坂だが、横にある徳雲寺に釈迦像があり、それが見えることからその名前が付いた。



少し戻り、春日通りに向かう勾配がきついが、車の量が多い坂が『藤坂』、この名前は1650年将軍家光が鷹狩りの際に帰り道この(坂の下の)寺に立ち寄り、庭一面に藤があるのを見て、これこそ藤寺と言ったことから藤寺と呼ばれるようになり、そこから坂の名前になった。また、坂から富士山が見えたから富士坂、坂の下が湿地で河童がいたので禿坂とも呼ばれた。


丸ノ内線を超えて、釈迦坂の反対に向かうと湾曲した坂になるが、これが『蛙坂』と呼ばれる。江戸の書物には坂の東側が湿地で坂の上には切支丹屋敷を護衛する武士の七軒屋敷があった。湿地のため、蛙合戦があり、その名がついたと言われる。

その先には切支丹屋敷跡の石碑が残されている。その先を地下鉄丸ノ内線ガードに向かい下る坂が『切支丹坂』と呼ばれている。


切支丹屋敷とは島原の乱から5年後に筑前にイタリア人宣教師ら10人が漂着、江戸に送られ、始めは小伝馬町牢に入れられたが、その後この地に牢や番屋を作り、収容した施設。その後も外国人宣教師が渡来すると収容し、1792年まで続いた。新井白石が西洋記聞に宣教師らから聞いた世界情勢をまとめている。

次の庚申坂からは次回レポートする。

カレーショップトップス~赤坂ランチグルメ

2015-02-12 05:00:21 | グルメ

小生が時々無性に食べたくなるのはカツ丼とカレーライス、冷やし中華の3つのメニュー。今回のランチは自分の中ではカレーの名店、『赤坂トップス』に行く。

元々は1964年アメリカンスタイルレストランとしてTBS会館内に開業。チェックのテーブルクロスでモダンな店。その後、長くトップス&サクソンという店名で営業していた。トップスは自由が丘トップスというチョコレートケーキで一世を風靡した店。サクソンは少し高級感のあるカレーショップであったが、赤坂サカスの再開発の際に赤坂Bizタワー地下一階にやや軽めのカレーショップとして開店した。

ここのカレーは欧風カレーというべき上品なもので、付け合せに名物トマトサラダとビシソワーズを頼むのがいい。今回はポークカレー(スパイスホット1080円)とトマトサラダ(432円)を注文。

注文すると2分でカレー、サラダが出てくる。カレーはご飯の量もやや上品だが、味はそれほどスパイスが効いている訳ではなく、昔の味を忠実に再現している。ただ、かつては付け合わせに甘酢ショウガ、福神漬、ラッキョウ、チーズ、レーズンなどが小さな銀の丸皿に重ねて出てきたのに、今はピクルスだけというのは寂しい。

サラダはざく切りのよく冷えたトマトにみじん切りのオニオン、和風ドレッシングがかかっている。今でこそ和風ドレッシングは市民権を得ているが昔はとにかく新しかった。これはトマトが苦手の小生でも美味いと思う。

かつて六本木のロアビルや新宿のミロードにも店があり、気楽に行けたが、今はこの店と銀座、池袋、大宮のみとなってしまった。

久しぶりに食べると量は少しもの足りない気がするが、やはり老舗。この味を求めて行きたくなる店である。次はリニューアルオープンした銀座店にでもゆっくり行きたいものだ。

カレーショップトップスTBS店
港区赤坂5ー3ー1赤坂BizタワーB1
0355748533

2015.3.14ダイヤ改正

2015-02-11 05:00:50 | 日記

鉄道シリーズ その90。3月14日のダイヤ改正の目玉は北陸新幹線の長野~金沢への延伸でこのニュースはCMも含めて大々的に報じられているが、この他にも大きく変わる。

まず、普段の生活に大きく影響がありそうなのが、『上野東京ライン』の開業である。従来は東北本線(宇都宮線)、高崎線、常磐線は上野が終点、東海道本線は東京が始発であったが、相互乗り入れが始まるというもの。今までも『湘南日光』号などの観光列車が東京駅を通過駅として運行されたことはあったし、現に横須賀線は地下ホームながら千葉方面から横須賀線に直通運転をしてはいるが、上野駅や東京駅を通過駅とするケースが大幅に増える。

例えば『高崎→伊東』『宇都宮→小田原』『高萩→品川』といった新たな直通運転が始まり、さらに常磐線特急(ひたち、ときわ)のかなりの部分が品川始発となり、東京駅にも停車するようになる。つまり、益々上野駅の始発駅としての影は益々薄くなるとも言えよう。

他にも(1)武蔵野・京葉・南武・横浜の各線も通勤電車を増発することで増加する利用客の利便を図る、(2)埼京線の日中の運転本数を増加させるといった改良がなされ、さらに(3)日中の快速運転を行う京浜東北線の停車駅には神田を加え、さらに土日には御徒町も加えるという変化もある。

その反面、(4)房総方面の特急は利用客の減少から本数を大幅に減らし、さらに内房線経由で1日4本は館山まで走っていた『さざなみ』は全て君津止まりに短縮、総武線の『あやめ』(東京~佐原)は定期列車を廃止し、臨時のみにするといった大きな改正がなされる。

また、こちらはよく報道されているが、(5)数少ないブルートレインの『北斗星』が北海道新幹線開業への調査のため、定期運転を中止するといった寂しい話もある。

いつものことだが、例えば越後湯沢駅や上野駅、直江津駅などはその存在が薄くなり、ほくほく線は今後は存立基盤さえ脅かされる。

一方で新開業の上越妙高(現、脇野田)のように新潟から北陸新幹線のアクセス特急が開設されたり、品川のように利便性が高まるなど悲喜こもごもである。

溜池山王周辺の坂

2015-02-10 05:00:18 | 日記

『江戸の坂・東京の坂』その24。今回は溜池山王駅付近の坂を歩く。東京メトロ銀座線虎ノ門駅からスタート。桜田通りの虎ノ門3丁目の信号を右手に曲がると旧財務省印刷局が見えてくるが、その手前を左に曲がる。すると緩い坂になるが、これが『江戸見坂』。江戸時代にはこの坂の頂上から江戸全体が見渡せたことからこの名前が付いた。


さらにアメリカ大使館に向かい歩くと緩い坂になるが、これが『汐見坂』。汐見坂は坂の頂上から海が見える坂に付けられたものが多いが、この坂は如何にも低い気がする。なお南側に松平大和守の屋敷があったため、大和坂とも呼ばれた。


坂を登り切ると左前にアメリカ大使館に向かう坂が現れるが、これが『榎坂』。但し、イスラム国のおかげでこれ以上先に進めず、さらに写真撮影もダメと言われて、なんでダメかよく分からず不愉快。

やむなく汐見坂の頂上を左に曲がるが、これが霊南坂。坂の名前は高輪の東禅寺がこのあたりに『嶺南庵』として庵を作った。その名前は開山の嶺南和尚の名を取ったものでその横を通る坂のため、嶺南坂と呼ばれていたが、いつの間にか『嶺』が『霊』になったもの。


坂の右手はずっと米国大使館のため、警察官がうろうろ、坂の写真撮影も憚られる状況。坂を登り切ると左手にホテルオークラ別館、その先を右に曲がると『三谷坂(さんやさか)』という短い坂になる。

そして、その先を霊南坂教会を越えて右にカーブする坂が『鼓坂』。この坂の由来はいろいろと調べたがわからない。

さらにANAホテルに沿って道はカーブするが、その先が『桜坂』、これは明治中期に作られた道で坂の下に戦災に合うまでは大きな桜の木があったため、この名前がついた。



しかし、それにしてもたかだか坂の写真や坂の目印の案内板ぬき写真を撮るのに警察官に妨害されなければならないとは、全く残念な坂巡りとなった。

他県を走った都バス

2015-02-09 05:00:30 | 日記

バスシリーズ その4。当たり前の話だが、都営バスは東京都交通局が運営している。しかし、60~70年代頃には周辺の市町村まで都県境を超えて都バスが運行されていた事実がある。それを今回は県別に調べてみた。

まず、神奈川県だが、115系統川崎駅~東京駅八重洲口が走っていた。今も東急バスの路線で川崎駅西口~五反田駅、京急バスの路線で羽田空港~川崎駅など都県境を越える路線は残っているが、都バスは1965年8月に廃止され、同日で東京駅八重洲口~(首都高速)~羽田空港に路線変更された。しかし、バスはモノレールに勝てなかったのか、それとも渋滞に苦しめられたのか、1970年にはこの路線は僅か5年で廃止され、その後、羽田空港には都バスは乗り入れていない。

次に埼玉県だが、105系統浦和駅~東京駅北口~築地5丁目という24.6kmにも渡る長い路線が1966年まで存在した。その後都電41系統の代替バスとなり、蕨操車場~東京駅北口となり、1988年には廃止されたが、これだけの長い路線が存在した。(国際興業バスと共同運行路線)他にも118系統・川口駅~浅草雷門、116系統・川口駅~上野広小路、106系統・草加車庫~東京駅北口なども存在した。


千葉県は107系統・市川駅~東京駅北口、29系統・浦安終点~錦糸町駅といった路線があった。特に最後の29系統は現在も亀29系統としてなぎさニュータウン~亀戸駅と経路が変更はされたが、今も残っている。


その後、1985年には都営地下鉄新宿線が千葉県市川市本八幡駅まで開通し、都営交通が他県に乗り入れる際に論議となったが、実はそれ以前にもっと多くの都バスが他県に乗り入れていたのんびりした時代があったことはあまり知られていない。