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『江戸の坂・東京の坂』その25。今回は東京メトロ丸ノ内線茗荷谷駅で降りて小日向の坂を歩き、有楽町線江戸川橋駅を目指したが、それを2回に分けてレポートする。
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茗荷谷駅は四ツ谷駅、後楽園駅などとともに数少ない地下鉄の地上駅。駅前の教育ビルも無くなり、すっかり昔の名残が無くなっている。駅前に残る紫山堂という薬局だけがあった。この駅はかつては東京教育大学、今も御茶ノ水女子大、拓殖大学、跡見学園、貞静学園など教育機関が周りに多くいつも学生だらけであることは変わらないが。
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駅を降りて春日通りに背を向けて左方向に行くと拓殖大学正門に向かう道に出るが、その緩やかなだらだら坂が『茗荷坂』、降り切った所にある深光寺には滝沢馬琴の墓もある。
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『茗荷坂』は元は茗荷谷から小日向に登る坂を言ったが、今は茗荷谷駅から下る坂を指している。なお、曙橋の茗荷坂とは由来が随分と異なる。
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深光寺の前をまっすぐ行き、丸ノ内線の下をくぐり左に向かうと『釈迦坂』になる。細く湾曲した坂だが、横にある徳雲寺に釈迦像があり、それが見えることからその名前が付いた。
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少し戻り、春日通りに向かう勾配がきついが、車の量が多い坂が『藤坂』、この名前は1650年将軍家光が鷹狩りの際に帰り道この(坂の下の)寺に立ち寄り、庭一面に藤があるのを見て、これこそ藤寺と言ったことから藤寺と呼ばれるようになり、そこから坂の名前になった。また、坂から富士山が見えたから富士坂、坂の下が湿地で河童がいたので禿坂とも呼ばれた。
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丸ノ内線を超えて、釈迦坂の反対に向かうと湾曲した坂になるが、これが『蛙坂』と呼ばれる。江戸の書物には坂の東側が湿地で坂の上には切支丹屋敷を護衛する武士の七軒屋敷があった。湿地のため、蛙合戦があり、その名がついたと言われる。
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その先には切支丹屋敷跡の石碑が残されている。その先を地下鉄丸ノ内線ガードに向かい下る坂が『切支丹坂』と呼ばれている。
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切支丹屋敷とは島原の乱から5年後に筑前にイタリア人宣教師ら10人が漂着、江戸に送られ、始めは小伝馬町牢に入れられたが、その後この地に牢や番屋を作り、収容した施設。その後も外国人宣教師が渡来すると収容し、1792年まで続いた。新井白石が西洋記聞に宣教師らから聞いた世界情勢をまとめている。
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次の庚申坂からは次回レポートする。