『江戸の坂・東京の坂』その23。今回は目黒駅付近の坂。目黒駅の周辺は高台になっており、言わば坂の頂上にある。因みに目黒駅は目黒区ではなく、品川区にあることはご存知であろうか。
目黒駅西口を降りて山手線恵比寿方向にしばらく歩くと富士見坂に到着。かなり急な坂で前も見通しが良い。この坂は大正時代に出来た比較的新しい坂でかつては坂の途中から富士山や品川の海が見える絶景ポイントであったようだ。
今はビルの建設が進み富士山は拝めないが、近くの坂からは今も富士山が見えるそうである。
少し戻って目黒駅を右折すると有名な『権之助坂』である。この坂は江戸時代に開かれた坂で地元の名主、菅沼権之助の偉業に因みに付けられたと言われる。菅沼が義民と称えられるのは当時急坂の行人坂しかなかったため、荷車や馬などの通行が大変であったが、これを解消すべく緩い坂を新たに付けた。しかし、幕府に無断で道を付けたとして刑死したとする説と年貢に苦しむ農民を救わんと勝手に年貢を軽減したため刑死したとも言われている。坂の途中には権之助坂商店街があり、ラーメン店を始め数多くの店があり、栄えている。
また、戻り今度は急坂の行人坂を降りる。この坂の名前の由来は寛永年間に出羽国湯殿山の行人・大海法師がこの辺りに大日如来堂を建立して修業を始め、周辺にいた不良の輩を一掃したため、徳川家康から大円寺の寺号が与えられた。この寺には行人が多く住み着くようになったため、行人坂と呼ばれている。しかし、行人坂という名前は番町にもあり、結構江戸には同じ名前の坂があったことがよくわかる。坂の途中にある大円寺には大黒天が祀られ、また行人坂の火災で亡くなった人の供養のため、500羅漢像がある。
坂を下りると目黒雅叙園、1931年に同名の料亭を開業したのが嚆矢。一旦、創業家の会社は倒産し、外資が買収、今はワタベウェディングが運営、施設は森トラストが所有している。
元の目黒通りに戻り、まっすぐ行くと大鳥神社前に到着。ここが金比羅坂の底になり、緩やかな坂が多摩大学付属高校方向に伸びる。坂の名前の由来は坂の西側にかつてあった金比羅権現社、しかし、明治に廃寺になってしまった。
1907年には目黒競馬場ができ、1932年に府中市に移るまで活況を呈した。
大鳥神社は806年に創建されたと言われる目黒区最古の神社。今も11月に行われる酉の市で賑わう。
とにかく、目黒駅付近の坂は勾配が急なものが多く、富士見坂などは勾配15度の表示すらある。この坂を登ったり下りたりはとても夏には難しいなあと実感した。