個人的に、歴史が好き。
郷土歴史の本を読みあさって頭でっかちになって、それからガサガサと現地に踏み込む。
と、いいたいところだが、現在は8:2くらいの割合で本の読みあさりに偏っている。
将来、自分の時間が持てるようになってきたら、ぜひ郷土歴史家になりたい。
いやべつに肩書きなんかいらないです。『郷土歴史』という謎解きが楽しいだけ。
さて、このごろ、「鹿除け土手」というものを調べている。
あいにく「現地に踏み込む」という作業が乏しくて、十分な説明が出来ないが、かいつまんで言うと。
山地と平地の境、つまり耕作域と森林域との境に土手を設けて、その上に杉を植えたもの。
仙台在住のひとならば「太白区の国道286号線沿いの土手」を想像するだろう。
ところが鹿除け土手なるものは青葉区にも宮城野区にも存在する。そもそも目的によってはどこでも作ったであろう。
「目的」と書いたが、これがなかなかクセものだ。
「鹿除け土手」の目的として挙げられるのは大体以下のようなもの。
1) 山地のケモノに農作物を荒らされるのを防ぐため(鹿、イノシシ)
2) お殿様が狩を楽しむ狩場からケモノが平地へ逃げていかないようにするため
3) 杉林を保護し、城下の建築資材を確保するため。
4) 実は「土手」は「防塁」のことで、侵略者を食い止めるための前線基地。
「東奥老士夜話」という書物には、もしも江戸幕府が仙台を討伐しようとしたならならば、どうやって迎え討つべきかを説いているという。4)のような説はきっとその延長線上だったのではないか。
僕が『郷土歴史』なんかを『謎解き』と解釈しちゃうのは、こういう話しがときどき出てくるから。
(しかしまぁ、対『幕府』なんて想定をしているのは薩摩・長州藩だけかと思っていたけど、仙台もこんなこと考えていたんだねぇ。やっぱ外様大名だからかなぁ。)
な、ことを考えていて、ふと、気になったことがある。
こういう土手、って防災の意味もあったのではないだろうか。
土砂災害、特に大雨による災害の時には何らかの役に立たないのだろうか。
土手のてんぺんに杉を植えたのは、きっと土手を根で堅めるためだろう。
ところでそれは、山からの災害だけを考えているのだろうか?
偶然ではあるが、土手の近くには大きな川が流れている。
川で怖いのは二つある。
一つは大雨による増水。
もう一つは、津波による海水の溯上。
大雨についてはあながち笑い話ではないのではないか。
現在では河川の遊水域を十分にとるような設計なので(要所に砂防ダムがあるし)危険度はかなり低いが、江戸時代はそうではあるまい。河川が増水し、氾濫してきたからこそ仙台平野にや肥沃な洪積層が展開している。その洪積層が高地に接する線上に、鹿除土手はあるのだ。
いっぽう津波の溯上は、過去に記録がないから今のところ非現実的かな。それでも1611年に仙台藩は大地震と津波を経験している(慶長三陸津波。ちょうど400年前!)。政宗公は被害報告のために仙台から駿府へ参府しているくらいだ(ビスカイノの日記より)。大津波の記憶はむしろ政宗公の時代のほうが鮮明だったのかもしれない。
そのとき、小さな打ち波が根岸の集落にも来たのかもしれない。
そもそも「仙台」という街割をなぜ河川の中流部に設けたのか。
下流のほうが広大なんだから用地も確保しやすいし、水の便だってよかっただろうに。
今までは防衛的な意味合いがあったとされている。(対上杉説、対幕府説など)
しかし、実は津波の被害も考慮に入っていたのではないだろうか。
1611年の津波では千人を超える犠牲者を出した。海の恐ろしさはだれもが感じていたのではないか。
仙台を開府した人々が、何を考えて町割りをしていたのか、災害の観点からも研究が進むと、もっといろいろなことがわかってくるのではないだろうか。
郷土歴史の本を読みあさって頭でっかちになって、それからガサガサと現地に踏み込む。
と、いいたいところだが、現在は8:2くらいの割合で本の読みあさりに偏っている。
将来、自分の時間が持てるようになってきたら、ぜひ郷土歴史家になりたい。
いやべつに肩書きなんかいらないです。『郷土歴史』という謎解きが楽しいだけ。
さて、このごろ、「鹿除け土手」というものを調べている。
あいにく「現地に踏み込む」という作業が乏しくて、十分な説明が出来ないが、かいつまんで言うと。
山地と平地の境、つまり耕作域と森林域との境に土手を設けて、その上に杉を植えたもの。
仙台在住のひとならば「太白区の国道286号線沿いの土手」を想像するだろう。
ところが鹿除け土手なるものは青葉区にも宮城野区にも存在する。そもそも目的によってはどこでも作ったであろう。
「目的」と書いたが、これがなかなかクセものだ。
「鹿除け土手」の目的として挙げられるのは大体以下のようなもの。
1) 山地のケモノに農作物を荒らされるのを防ぐため(鹿、イノシシ)
2) お殿様が狩を楽しむ狩場からケモノが平地へ逃げていかないようにするため
3) 杉林を保護し、城下の建築資材を確保するため。
4) 実は「土手」は「防塁」のことで、侵略者を食い止めるための前線基地。
「東奥老士夜話」という書物には、もしも江戸幕府が仙台を討伐しようとしたならならば、どうやって迎え討つべきかを説いているという。4)のような説はきっとその延長線上だったのではないか。
僕が『郷土歴史』なんかを『謎解き』と解釈しちゃうのは、こういう話しがときどき出てくるから。
(しかしまぁ、対『幕府』なんて想定をしているのは薩摩・長州藩だけかと思っていたけど、仙台もこんなこと考えていたんだねぇ。やっぱ外様大名だからかなぁ。)
な、ことを考えていて、ふと、気になったことがある。
こういう土手、って防災の意味もあったのではないだろうか。
土砂災害、特に大雨による災害の時には何らかの役に立たないのだろうか。
土手のてんぺんに杉を植えたのは、きっと土手を根で堅めるためだろう。
ところでそれは、山からの災害だけを考えているのだろうか?
偶然ではあるが、土手の近くには大きな川が流れている。
川で怖いのは二つある。
一つは大雨による増水。
もう一つは、津波による海水の溯上。
大雨についてはあながち笑い話ではないのではないか。
現在では河川の遊水域を十分にとるような設計なので(要所に砂防ダムがあるし)危険度はかなり低いが、江戸時代はそうではあるまい。河川が増水し、氾濫してきたからこそ仙台平野にや肥沃な洪積層が展開している。その洪積層が高地に接する線上に、鹿除土手はあるのだ。
いっぽう津波の溯上は、過去に記録がないから今のところ非現実的かな。それでも1611年に仙台藩は大地震と津波を経験している(慶長三陸津波。ちょうど400年前!)。政宗公は被害報告のために仙台から駿府へ参府しているくらいだ(ビスカイノの日記より)。大津波の記憶はむしろ政宗公の時代のほうが鮮明だったのかもしれない。
そのとき、小さな打ち波が根岸の集落にも来たのかもしれない。
そもそも「仙台」という街割をなぜ河川の中流部に設けたのか。
下流のほうが広大なんだから用地も確保しやすいし、水の便だってよかっただろうに。
今までは防衛的な意味合いがあったとされている。(対上杉説、対幕府説など)
しかし、実は津波の被害も考慮に入っていたのではないだろうか。
1611年の津波では千人を超える犠牲者を出した。海の恐ろしさはだれもが感じていたのではないか。
仙台を開府した人々が、何を考えて町割りをしていたのか、災害の観点からも研究が進むと、もっといろいろなことがわかってくるのではないだろうか。