かわたれどきの頁繰り

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【書評】 『河津聖恵詩集(現代詩文庫183)』(思潮社、2006年)

2013年03月18日 | 読書

         

 たとえば、この本の感想を語るとすれば、「夢」と「旅」の詩人であるとか、時として「夢の旅」の詩人である、などと始めればよいのだろう。そんなふうに思いながらこの詩集を読み進めていた。
 しかし、それはそれとして、じつはそういう評言とは関係のないイメージが次第に纏わりついてくるのである。少し困惑するような言葉が思い浮かぶ。そのような言葉で評して良いものか、逡巡してしまうのだ。
 それは「セカイ系」という評言である。コミックやアニメ作品のある分野を表していて、『エヴァンゲリオン』以降だと思うが、サブカルの世界でよく使われている(らしい)。私がこの言葉を見知ったのは、たぶん、大塚英司や東浩紀、宇野常寛の評論のどれかであったと思う。

 主人公である少年(たいがい気弱であるらしい)と恋人(らしい)少女という二人だけの小さな関係が、いきなり世界の危機に直面していくというのが基本的なストーリーというのだが、じつは私はこの分野の作品についてはほとんど知識を持たない。上記の評者たちの言から推測するに、その重要な特徴は、世界(宇宙)全体の危機のようなことが語られるが、私たちを取り巻く社会そのものは語られないことにある。
 若年層を対象とするアニメやコミックの分野で七面倒くさい社会領域の事柄を捨象してしまって、宇宙・世界の危機に向き合って闘うというファンタジーにしてしまおうというのはそれなりに商業的には意味があるのだろうと思う。ポストモダンの思想がつとに指摘するように、現在を生きる人々が、すでに現実(社会領域)はシミュラークルとしてしか存在しないと考え、それを受容しているという状況が「セカイ系」の意味を保証しているのかもしれない。

 しかし、「セカイ系」を、世界に直接向き合う自己(自己意識)、世界と自己存在の関係を表現するものと拡大して考えれば、それは芸術表現の基本のひとつであると言ってもいいのではないか。むしろ、とくに絵画や音楽の分野では、社会領域にまつわる諸々を盛り込もうとして俗悪な失敗をしている例は結構多いはずだ。文学においても世界を見通せないことを社会性のような衣でごまかす作品が多いのではないか、とすら私は思っている。

 だからここでは、「セカイ系」について一般的に了解されている意味とは多少違うかもしれないが、積極的な肯定性において使いたいと思う。「セカイ」ではなく「世界」ということである(であれば、「セカイ系」という評言をあえて用いなくてもよいということか)。

 この詩集の最初の詩は、第1詩集である〈姉の筆端〉に収められた「秋のタンポポ」で、「ターナーは雲ばかり描いた/ということにしよう」というフレーズで始まり、次のような詩句が描かれる。

絵はさわるとみんな冷たい
冷たい私のあなうらより
もっと冷たい人や鳥や太陽
私は知っている
私をくるむこの男の頭からも
零時を回れば
しんだ星々がでるのだ
              「秋のタンポポ」部分 (p. 8)

 第1詩集には、ほかにもフィニー、カンディンスキー、ゴッホなどの画家の名前が出てくる。その後の詩集でも、ポール・デルヴォーアンドリュー・ワイエスという画家の名前が出てくる。詩人は、世界を風景として(絵画的要素を大切にして)描くことを心定めて詩の世界に踏み込んだのではなかろうか。そのような印象を持ったのである。そして、当然のように、世界の風景を辿るために「旅」を必要としたのではなかろうか。あるいはまた、世界を見る自在性を獲得するために「夢の旅」に踏み入ったのだと考えてよいのではないかと思う。

 まずは、いくつか「世界・宇宙」を拾い上げてみよう。

やがて、まちの夜の織く抽象的な指(冷た
いネオン製の)がしめるしぐさで近づき、こわばり、う
なだれ、そこに摑むあらゆるものを落とし、(しんだ蝗、
蟻、えのころ草、星の唾液)最後のものを味わう私は、
夢の湿気を含みおおきくなる掌につつまれて眠り、歴史
から官能的にはじかれて、夢のさらに奥へ。
                       「吐息」部分 (p. 21-2)

某月某日バグダッド 死者は数百
魚がいつのまにか水をおのずから光らせて消えるように
小さな真珠の泡のざわめく空白にみたされ
私たちはふたたび 仄白い人のすがたで地上のザラメをかんじとる
世界はのこされたのに 世界そのものであった
数百の味わうオレンジの味が消えた
ひとりの深い夢のバス停で泣いていた光るほど黄色いシャツの
どんないきものでもある私が消えた
                       「grazia…」部分 (p. 100)

三月は夢の瑪瑙の中を人と歩きだす
私だけが記憶することなく憶えていた
世界から忘れられた小さな人
もしかしたら人というもののもっとも美しい破片だろうか
この世界に人というものが失せたとしても
小さくいとおしいとだけわかる他者が
誰にも残されているのだろう
                       「瑪瑙の人」部分 (p. 101-2)

あるいは 果てとは世界の美しい合わせ目で
喪われたもののために
幻の雪を降らせつづけるのだろう
水銀灯 約束の場所 国境 頁の凍った詩集
真綿に包まれてゆく世界の小道具
死者はない
宇宙の風に吹かれる前髪から溶けて
かれらこそがこの白さの濃度をあげるのだから
やがて、吹きあげるようにさえして
                       「schneeblind」部分 (p. 108-9)

 けっして世界の風景を絵画のように叙述しようとしているわけではないが、かといって世界の風景に主情を重ねて色づけているようには感じられない。確かにその世界に「私」は関わっているのだが、もっぱら「見ること」に専念する存在としてそこにいるように思われるのだ。

わたしは眠っている。
…………
雨は夜のガラスの上で吃り
柔らかいかぎざきをつくり
すべての色をあつめ
一つ一つが美しい曲線の終わり
一つ一つがわたしを渴かせる終わり
それを見ている。
眠っているはずの目が見ている。
夢のなかへ「見ること」はつづいてゆく。
「見ること」がすべてで
(いつだって、すべてで)
…………
                   「夏の終わり 9」部分 (p. 58)

〈みる〉というのは、行為ではなく現象なのだ。わたし
にとってもっとも本質的な気象なのだ。わたしは淡々し
い裸体。夜へとむかう雲。または灰の欲望。なにものこ
したくなどない。くずれてみよう、もっとくずれてみよ
う。
                   「Front」部分 (p. 72)

それがわかるのは
わたしが"よこたわる人"だからだ
                   「シークレット・ガーデン」部分 (p. 89)

わたしはみているのだろうか
それともみえないというかなしみなのか
みたいというよろこびか
空にむかいときおり不思議な穴のようになる視野
かすかに藻のようにうごく
心のうごめきの感触だけがわかる
                   「今わたしはなにかをわすれてゆく」部分 (p. 91-2)

 必要であれば横たわり、時には眠ることによって世界を見るのだ。世界に働きかけるのではない。働きかけることができるのは世界ではない。「セカイ系」が捨象した社会領域ならば働きかけることもできるだろうが、世界の実景は見ることによってしか立ち現れない。

 世界を見るひとつの確実な方法は、「旅」に出ることである。もちろん、「夢の旅」であってもかまわない。したがって、当然のように旅に関わる詩が多く収録されている。

ガス灯の淡いひかりが夢のタブレットの
ようにまつわる髮と瞳から、おまえにひそむ甘美な眠り
の匂いを嗅ぎあてて(あの匂いは裸体そのものにひそん
でいたものだ)、男たちが後を追うこともあったが(デル
ボーの絵画のような、裸で階段をのぼる青い闇の中の夜
光の背中をわたしも追っていた。おまえの夢、おまえの
異国の中で)、奇妙なことにおまえのもとへいたる階段や
踊り場は追跡者にとっては生きるもので、枯れたキンポ
ウゲやヒナギクの花冠を落としたり、光に照らされる白
い雨をふらせてみたり、ときには終着駅か始発駅か黄色
いバターのような窓の機関車を止まらせたりして、かれ
らの意図をまるで思い出のような赤や青の明滅に変えて
ゆくのだった。
                      「花火の部屋」部分 (p. 39-40)

通過する駅という駅に
緑の蔦の火花をふきあげる切符。
であわなかつたおおぜいがわたしたちに負けたとしんじ
踏み去っていったのだから
わたしたちはわたしたちにもあらず、ふたたび。
(あれはひかりの千ピース)
(夏だ
 夏のふしぎなせんそうは終わらない)
                      「ひかりあれ、」部分 (p. 45)

高速で高架を通過する(白く泡立つ駅名、)
中世の法服に似た踝まで長い衣服を着た女たちが
夢のように半透明に立っているプラットホ—ム
デルボーの女たちのように大きな魚の目
どんな懲罰に耐えているのか、あるいはどんな快楽に?
                    「アリア、この夜の裸体のために」部分 (p. 68)

駅はカテドラル。みあげれば高い穹窿状の天井の闇か
ら、またアナウンスのこだまは意味を失った透明な雪と
なって返ってくる。言葉の塵たちがふうわりとふりだし
ら、またアナウンスのこだまは意味を失った透明な雪と
なって返ってくる。言葉の塵たちがふうわりとふりだし
た。静かな恩寵ともききまごう、異国の言葉の残響。そ
れを吸われるようにしてあびていると、会いたかった人
たちが名も顔もなく思いだされてくる。行き先や出発時
刻や番線をつげているはずのアナウンスの、意味や発音
から揺らめいて抜けでてゆく陰影は、たましいのように
なつかしい。
                       「駅はカテドラル」部分 (p. 76)

 これらの詩編に二度も登場するデルヴォー(デルボー)の絵を重ね合わせると、詩人が見ているもの、見ようとしているものが少し理解できるのではないか。

 
ポール・デルヴォー 《トンネル》 1978年、油彩・カンバス、150×250cm、ポール・デルヴォー財団 [1]

 たとえば、《トンネル》 というデルヴォーの絵を「駅はカテドラル」に重ねてみよう。デルヴォー自身が、「……観賞に堪える作品にするために必要なことが数多くあります。詩的性質の強さに応じた色づかいであること、主題が具体的であること、文学的(時に陥ってしまう恐ろしい危険です)でないこと、そして全体が建築的に構成されていること、すなわち、全ての要素が調和的な相互関係を保っていることです」 [2] と述べているように、文学性(社会領域における物語性)を拒否して、美の世界はそれ自体として描かれなければならない。
 《トンネル》 の女性たちは生活や社会状況に繫がるような表情や感情を顕わさず、ひたすら美術空間(世界)を構成する美的事物のようですらある。それは詩人が世界をそれ自体として見つめることと同義であろう。

 詩は主情的(叙情的)であることによって、受容されやすさを獲得することがある。私もまた叙情性豊かな詩を好むが、叙情性を時として安易な感情移入を呼び込もうとする通俗的でチープな感傷と取り違えている詩が多いことも確かだ。
 だからこそ、この詩集の詩人のように、世界を見つめることに専念するということは、きっと詩を書くという行いのきわめて正しいベースではないかと思う。

 そうであればこそ、言葉によって切り取られた風景の中に浮かび上がる「二人」がごく自然に、感傷的ではない美しさと勁さで語られるのだと思う。

デッキの手すりに凭れ
一人は横顔をふかく外の方へ翳らせている
みえないそここそが本当の夜であるのだろう
藻類の姿のまま言葉が生まれては消えている場処
心と呼ぶのも違う
そこでいつか名づけられない者として出逢うところ
二人とは
一人の心のない夜が器のように一人の心を呼ぶことだ
手と手はひとつの淡いものにつつまれて乗った
ふれることにだけ欲望というもののないことをしった
湾岸の光のエッジは
いまだふれえないくちびるのふるえをふるえている
(あそこで眠っていた、眠っている、眠るだろう)
ランドマークタワーの灯を水の中の砂糖のようにみつめている目
                       「夜が夜を憶えているように」部分 (p. 81-2)

 

[1] 『ポール・デルヴォー展 ―夢をめぐる旅―』(図録)(「ポール・デルヴォー展 -夢をめぐる旅-」実行委員会、2012年) p. 60。
[2] 「ポール・デルヴォーの言葉「作品が生まれるまで」」、同上、p. 9。