大混雑の東京都美術館での「マウリッツハイス美術館展」は、昼過ぎまでかかって見終えた。上野の山を下って遅い昼食、ふたたび山を登り(エレベーターを使ったが)、西洋美術館に向かう。じつのところ、「ベルリン国立美術館展」は明日の予定にしていたのだが、二つの展覧会の対比に少しばかり惹かれての予定変更である。
ポスターがあからさまに主張するように、「マウリッツハイス美術館展」の目玉はフェルメールの《真珠の耳飾りの少女》であり、「ベルリン国立美術館展」のそれは同じくフェルメールの《真珠の首飾りの少女》である。「耳」と「首」の勝負なのである。日本人のフェルメール好きはどれほどのものか、想像するのが難しい。
私もフェルメール好きではあるけれど、あまり煽られないように、できるだけフェルメールに力点を置かないように気を遣って観たし、観るつもりである。
アンドレア・デッラ・ロッビア《聖母子、通称アレッキアの聖母》、15世紀後半、彩釉テラコッタ、
63×58×9.5 cm、ベルリン国立美術館彫刻コレクション [1]。
ベルリン国立美術館展の展示は、15世紀の宗教絵画、彫刻から始まる。当然のように聖母子像が多く、その彫刻が3つ並んでいる。そのうちの一つ、アンドレア・デッラ・ロッビアの《聖母子、通称アレッキアの聖母》のマリアの表情の美しさに足が止まる。
そのすぐ後に聖母子像の絵があって、そのマリアも美しい。西洋絵画には圧倒的な数で聖母子像が描かれていて、それを観る機会も多い。しかし、今日のようにこんなにもマリアの美しさが気になったことはなかったように思う。
ベルナルディーノ・オイントゥリッキオ《聖母子と聖ヒエロムニムス》、1490年頃、
テンペラ・板(カンヴァスに移替え)、49.5×38 cm、ベルリン国立絵画館[2]。
鑑賞の基準が、マリアが美人かどうかなんて、どういう審級なんだ。そんなことをうだうだ考えながら会場を進んで行くと、「わぁ、きれい」という女性の声がする。また、美人の登場である。その女性ではなく、その人の前の婦人の胸像が、である。グレゴリオ・ディ・ロレンツォ・ディ・ヤコポ・ディ・ミーノの《女性の肖像》の繊細な感じが美しい。
この胸部肖像は、おそらくこの展覧会のもうひとつの目玉らしく、図録には前後左右から撮した写真が併せて5枚も収録されているという特別扱いである。
グレゴリオ・ディ・ロレンツォ・ディ・ヤコポ・ディ・ミーノ《女性の肖像》、1470年頃、
ストゥッコ、50.5×47×22 cm、ベルリン国立美術館彫刻コレクション [3]。
《女性の肖像》についての作品解説を見ておこう。
1460年代および1470年代におけるグレゴリオの様式は、デジデリオやミーノ・ダ・フィエーゾレ(1429-1484)の作品と非常に結びつきが強く、彼の理想美はこうした彫刻家に由来する。引き伸ばされた首、強い正面性、眉・鼻・口の明快な輪郭が特徴の整った横顔にそれは顕著である。………こうした胸像は、美しい肉体に宿る有徳の魂、すなわち外見と内面の美しさの関連性をめぐるルネサンス期の主題をよく示している。つまり、こうした形式の肖像は像主の女性の純潔と貞節を讃えているのである。 [4]
「16世紀:マニエリスムの身体」という彫刻を主とする展示がある。「マニエリスム」も、じつは私にとって分かるようでいて判然としない美術概念である。「ああ、そういうことか」と言葉で理解したつもりにはなるのだが、具体的な作品で「マニエリスム的要素」を峻別できない。そうして、いつのまにか「マニエリスムってなんだ」とすっかり戻ってしまうのである。
アレッサンドロ・ヴィットリア《アポロ》、1550年頃、ブロンズ、高さ28.9 cm、
ベルリン国立美術館彫刻コレクション [5]。
アレッサンドロ・ヴィットリアの《アポロ》には、確かにマニエリスムの特徴である「長く延びた人体と、手足の長いプロポーション、そしてさまざまな方向へのねじれや回転を含んだ動きやポーズ」 [6] が顕されている。またまた、作品解説による勉強である。
この「抒情的で繊細なアポロ像」(ヴァイラウフ)を、ブラーニシヒは「ヴイットリアのマニエリスムによる規範」と称した。「マニエリスム時代の“フォルツァート(強制力)”、つまり人物表現を決定的に支配する、様式観念におけるぎこちない形態、装飾的な輪郭線は、ここでは様式主義という言葉とともにその最良の体言者として私たちに立ち現われている」。
………
ベルリンのアポロ像は、その長く伸ばされた、ほっそりとした手足や小さい頭部表現によって、16世紀中頃にヴェネツィア芸術で理想と見なされ、また当時享受された芸術理論において理想的美と広く説かれた、マニエリスム的人物タイプを表わしているのである。 [7]
いずれ、同じような作品を前にして「マニエリスムってどんなだ」と悩むことになるとしても、一応今日のところは少しだけ「マニエリスム」が分かった、ということにしておく。
ヤーコブ・ファン・ロイスダール《滝》、1670-1680年頃、油彩・カンヴァス、
69×53 cm、ベルリン国立絵画館[8]。
「17世紀:絵画の黄金時代」の展示では、ベラスケスやジョルダーノの人物画、ルーベンスの歴史(風景)画などビッグネームが並ぶ。しかし、ここではロイスダールの風景画を挙げておこう。《滝》である。マウリッツハイス美術館展にもロイスダールの風景画が数点展示されていた。日頃、ロイスダールは良いと言いつのっているのに、ホッペマの風景画に気をとられてしまって、なんとなく気がかりだったのである。
ヤン・ステーンもまたマウリッツハイス美術館展で展示されていた。いつものように、物語性がわんさと詰め込まれた風俗画である。カードプレーヤーの喧嘩の様子ではなく、その場所に集う人々の姿形、庭前の様子など、見ていて楽しい。
ヤン・ステーン《喧嘩するカードプレーヤー》、1664-1665年頃、油彩・カンヴァス、
90×119 cm、ベルリン国立絵画館[9]。
ロイスダールの風景画やヤン・ステーンの風俗画は、いろんな美術館で見かけるような気がする。いつもモティーフは同じなので、取り立ててこの一点というものもないけれど、見慣れたというかよく眼に馴染んでいる。
これは余計なことだけれども、ロイスダールを初めて観たのはウイーンかどこかヨーロッパの美術館で、そのときRuisdaelを「ルイスデール」と読んで、ずっとそう思い込んでいた。
フェデリコ・バロッチ《《キリストの割礼》のための祈る天使と手の習作》、
1581-1590年頃、黒色天然石・赤色天然石・白墨・青染紙、
285×221 mm、ベルリン国立素描版画館[10]。
最後に、大量の素描が展示されていた。その中の一点、フェデリコ・バロッチの《《キリストの割礼》のための祈る天使と手の習作》は、どこか廊下の壁かなんかに飾れたら素敵だろうと思える作品である。なにより、天使以前の天使というのがいい。
祈りの手は別として、手だけの素描というのは特別な雰囲気がある。物語を秘めた深い表情があるようでいて、限定的な物語はけっして示されない。存在論的な表情とでもいうのだろうか。ごく最近、アンドリュー・ワイエスの手だけの素描を見たときもまったく同じ感慨だった。
美術展を1日に二つも見るというのは、意外にきつい。足に来る。
[1] 『ベルリン国立美術館展』(以下、図録)(国立西洋美術館/TBSテレビ、2012年)p. 51。
[2] 図録、p. 53。
[3] 図録、p. 101。
[4] シュテファン・ヴェッペルマン(友岡真秀訳)「《女性の肖像》作品解説」図録、p. 100。
[5] 図録、p. 125。
[6] 図録、p. 119。
[7] フォルカー・クラーン(深田麻理亜訳)「《アポロ》作品解説」図録、p. 124。
[8] 図録、p. 167。
[9] 図録、p. 169。
[10] 図録、p. 289。