私が初めてジュディス・バトラーの著作を読んだのは、スラヴォイ・ジジェクの何冊かを読んだ後、その流れで選んだジジェクとバトラーにエルネスト・ラクラウを加えた3人による『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』(竹村和子、村山敏勝訳、青土社、2002年)である。
ラカンの流れを汲む饒舌なジジェク、グラムシ、アルチュセールに続く現代左翼のラクラウに対して、クイアの理論家としてヘーゲルとフーコーを携えて論戦を挑むバトラーを読んだのである。3人のそれぞれの言説がすんなりと理解できたわけではないが、バトラーの文章にどこかハンナ・アーレントを思わせる誠実さのようなものを感じた。
それで、『ジェンダー・トラブル』、『触発する言葉』、『生のあやうさ』と読み進めて、本書に至った。
この本は、ある程度までは二〇〇四年にヴェルソ社から出版された『生のあやうさ』につづくものであり、とりわけ、特定の生がそもそも生きているものとして捉えられていない場合、それらの生が傷ついたり失われたりしたことも感知されえない、という主張をひきついでいる。 [1]
『生のあやうさ』も『戦争の枠組』も、9・11以降のアメリカ合州国が生みだす罪科のもろもろに向き合おうという哲学的意志に基づいている。合州国は、「自らをグローバルな共同体の一員として定義する機会を失いつつあること、その代わりにアメリカではナショナリズム言説が力を得て、監視メカニズムが強化され、憲法で保障された権利が停止状態になり、あからさまなものであれ暗黙のものであれ、検閲が蔓延することになってしまった」 [2] のであり、国を覆う言論の状況は次のように述べられている。
あのような出来事のあと、おおやけに発言をしてきた知識人たちが、正義の原則に基づく自らの公的債務に迷いを覚え、ジャーナリストたちも真相究明というジャーナリズムの伝統に背を向けてしまった。アメリカ合衆国の国境が侵犯され、看過できない脆弱性が暴露されたこと、人命におそるべき被害がもたらされたこと、それらは恐怖と悲嘆を引き起こし、今でもそのような状態が続いている。 [3]
当時、アメリカ合州国への攻撃の「理由」を理解しようとした人は、攻撃した者を「免責」していると一様に見なされた。たとえば『ニューヨーク・タイムズ』の社説は「平和好き(ピースニクス)」――六〇年代の枠組みに根ざしたナイーヴで懐古的な政治活動家を指して使われた言葉――と、「拒否好き(レヒューズニクス)」――ソヴィエト式の検閲と統制に従うことを拒否し、その結果としてしばしば職を失った者たち――にかけて、「大目に見る好きもの(エクスキューズニクス)」という単語を使って非難した。 [4]
「九月一一日にはどんな口実もありえない」という叫びが、こうしたテロ行為を可能にした世界を作るのにアメリカ合州国の外交政策がどう手助けしてきたかについての真摯な公的議論をすべて押し殺してしまった。このことをもっとも如実に示す例が、よりバランスのとれた国際紛争の報道の試みが放棄され、アメリカ合州国の軍事政策に対するアルンダティ・ロイやノーム・チョムスキーのような重要な批判が、アメリカの主要新聞から軒並み追放されてしまったことだ。(……)きわめて深刻なことに、異議申し立てを現代アメリカ合州国の民主主義的文化の重要な価値と見なす考え方そのものが疑われるようになったのである。 [5]
「反セム主義」と批判することで裏返しの反イスラムであることを強要するような状況(そのような言論封殺によってイスラエルを擁護することにユダヤ系アメリカ人である彼女は反対する)も含め、『生のあやうさ』ではそうした言論の危機的状況を分析、批判しているが、そのなかでバトラーらしく、ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクの「白色のオトコが茶色のオトコの手から茶色のオンナを救おうとする」という言葉を引いて、反イスラムに組み込まれるフェミニズムの文化帝国主義について厳しく批判している [6]。
アメリカ合州国の国家として振る舞いを分析、批判するに際して、バトラーはミシェル・フーコーの「生政治」と「主権」概念やジョルジョ・アガンベンの「主権の例外化」「例外状態」 [7] 概念を援用している。バトラーは明示してはいないけれども、この理路は、アメリカ合州国の国家的振る舞いがファシズム、全体主義国家のそれとして分析できることを示唆している。明らかに人間の生を「嘆きうる生」、「嘆くに値しない生」と2分することに拠ってしかなしえない戦争、殺戮、虐待が語られる。
そして、『生のあやうさ』の主題は、グアンタナモ基地に拘束されている囚人(厳密には裁判を受ける権利がないので法律上の囚人ではない。また、国際法の適用も受けないため「捕虜」でもない)や、アフガニスタンやパレスチナで殺害される人々の「生のあやうさ」に論を進めるのだが、その基底にある思想はレヴィナスに強い示唆を受けていて、それは『戦争の枠組』にも脈々と流れている。
エマニュエル・レヴィナスの考えによれば、倫理とは生の脆さ(プレカリアスネス)に対する危惧に依存している。それは他者の脆弱な生のあり方の認知から始まる。レヴィナスは「顔」に注目し、それが生の脆さと暴力の禁止をともに伝える形象であるとする。攻撃性は非暴力の倫理では根絶できない。レヴィナスはこのことを私たちに理解させようとする。倫理的闘争にとって人間の攻撃性こそが絶えざる主題なのだ。攻撃が押さえ込もうとする恐怖と不安、これらを考察することで、レヴィナスは倫理とはまさに恐怖や不安が殺人的行為にいたらないように抑えておく闘いにほかならないと言う。レヴィナスの議論は神学的で、神を源泉とする倫理的要求をたがいに突きつける人間の対面を引きだそうとする。 [8]
身体は、社会的、政治的に分節化された力にさらされるのである。程度の差はあれ実存主義的な概念である「あやうさ(プレキャリアスネス)」は、こうして、より明確に政治的な観念である「不安定存在(プレカリティー)」と結びつけられることになる。そして、わたしの見るところ、不安定性が格差をともなって割り当てられているということこそが、身体の存在論の再考と、進歩的あるいは左翼的な政治との双方にとって、出発点となるのだ。アイデンティティーのカテゴリ—を乗り越え、横断しつづけていくようなかたちで。 [9]
『戦争の枠組』がもっとも強い関心で取りあげているのは、イラクのアブグレイブ刑務所における捕虜の拷問(性的陵辱)である。その様子が写真によって暴露されたときの合州国における国家としての反応は絶望的なものであったが、またそれは世論の変化を喚起した。
アブグレイブの写真が最初に合衆国において公開されたとき、保守的なテレビ評論家たちは、これらの写真を見せるのは米国の国益に反する、と論じたのだった。わたしたちは、合衆国の人員の犯した拷問行為の生々しい証拠など、手にしないはずだった。合衆国が国際的に承認されている人権を侵害したことなど、知ることはないはずだったのだ。これらの写真を見せるのは反米的だし、その写真から、戦争がどのように遂行されているのかについての情報を探り出すのは、反米的なのである。保守派の政治評論家のビル・オライリ—は、これらの写真は合衆国についての否定的なイメ—ジをつくりだすのだと、そして、わたしたちには肯定的なイメージを擁護する義務があるのだと、考えていた。ドナルド・ラムズフェルドも以たようなことを主張し、これらの写真を見せるのは反米的であるとほのめかしていた。もちろん、アメリカ国民には自国の軍隊の活動について知る権利があるかもしれないことも、国民が完全な証拠にもとづいて戦争についての判断をくだす権利が参加と討議という民主的統の一部をなすことも、二人ともまったく考えてはいなかったのである。とすると、いったい何が本当に言われていたのか? わたしには、この時にイメージの力を制限しようとした人々は、情動の力、憤りの力を制限しようとしていたのだと思える。そのような力が、世論をイラクでの戦争に反対する方向に変えてしまうだろうということを、彼らは十分すぎるほど知っていたのだし、たしかに世論は変わったのだ。 [10]
捕虜に対する性的陵辱を駆動する精神は、本質的には反イスラムとしての人種差別に拠っている。陵辱しつつ誇らしげに写真にポーズを取る兵士、陵辱のシーンを撮影することになんのためらいもない撮影者、その精神性を分析しつつ、キリスト教西欧世界に深く浸透している反イスラムの思想に基づくことを明らかにする。イスラムは教えとして、同性愛を戒めている。そして、それを知ったうえでのアメリカ人兵士のホモフォビアが重なっていく陵辱プロセスが語られる。
反イスラム精神は、じつは「リベラリズム」とか「市民的自由」だとか、あるいは「フェミニズム」だとか「同性愛への寛容」だとか、近代を経つつ西欧が獲得した進歩的思想と同期している、または、それをも根拠にしている。というのが、慧眼のバトラー、クイアの理論家としてのバトラーの主張である。
たとえばオランダでは、新しく移民の申請をする者は、二人の男性がキスをしている写真を見せられる。そして、その写真が不快かどうか、個人の自由を表現していると理解されるものかどうか、ゲイの人々の自由な表現の権利を尊重する民主国家で生きるつもりがあるかどうか、報告するように求められるのだ。この方針に賛成する人々は、同性愛を受け入れることは、近代性を受け入れることと同じだ、と主張する。このような場合に、近代性がいかに性的な自由と結びつけて定義されているか、そしていかにとりわけゲイの性的な自由が、前近代的と考えられている立場と対照的な、文化的に先進的な立場の例として理解されているかが、わかる。どうやらオランダ政府は、近代的と推定される階級の人々のための特別の取り決めをしたようで、そこにはこのテストを免除される次の集団が含まれている。つまり、EU諸国の国民、年に四万五千ユーロ以上を稼ぐ亡命希望者と技能労働者、そして、合衆国、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、日本、スイスの各国民――これらの国では、ホモフオビアが見当たらないか、そうでなければ、ここでは、目覚ましい所得水準を持ち込むことが、ホモフォビアを持ち込む危険に優先しているのである。 [11]
この試験は寛容をためす手段なのだろうか、それとも、寛容どころか実際は宗教的少数派への攻撃をあらわしているのだろうか?この攻撃は、オランダに入るためには伝統的な信仰や慣習をすベて捨てされと宗教的少数派に要求する、国家によるより広範な強制的な取り組みの一環なのだろうか? このテストは、わたしの自由を擁護するリベラルなものであり、わたしはそれを嬉しく思うべきなのだろうか? それとも、ここではわたしの自由は強制の道具として使われているのだろうか――みずからを支える暴力を問うことなく、ヨーロッパを白く純粋で「世俗的な」ものにしておこうとする、強制の道具として? [12]
リベラルな自由はいまや、覇権的な文化、「近代性」と呼ばれ、増大していく自由という特定の進歩的な説明に頼った文化に依存したものだと、理解されているのだ。無批判な「文化」の領域がリベラルな自由の前提条件として機能しており、それが今度は、文化的、宗教的な憎悪や棄却のさまざまな形態を是認する、文化的な基礎となっているのだ。 [13]
一方、ゲイやレズビアンによる子育ては子供の健全な成長を阻害するというフランスでの言説も紹介される。子育てには父親が必須だと考える父系主義は国家主義と結びついて、ヨーロッパ社会における移民コミュニティにおける家族構成(家父長制と婚姻という家族の基礎の維持に失敗している、と見なされている)に対する攻撃に向かう。それは右翼ばかりでなく、左翼もまた同じ論理に立っている、という。
これはごく常識的だが、「反同性愛」、「家父長制」、「父権主義」という非進歩的な思想もまた国家主義を通じて反イスラムに向かうのである。
私たちは「リベラル」であること、「自由」を尊重すること、「性的マイノリティ」の権利を尊重すること、そうやって我が身に深く近代性を宿したつもりになっているが、それが「国家」または「国家意識」を通すことで、「あやうい生」たちへ突きつける刃の思想となりうる、またはすでにそうなってしまっている、ということを心に刻まなければならない、ということである。
最後の章で、バトラーは「非暴力の要求」として暴力論を展開する。ふたたび、レヴィナスが顔を出す。
レヴィナスにとって暴力とは、顔を通じて伝達される他者の生のあやうさと出会った主体が感じるかもしれない、一つの「誘惑」である。顔が、殺害の誘惑であると同時にその禁止であるのは、このためだ。そこから「顔」を守るべき殺人の衝動がなければ、「顔」には何の意味もない。そしてどうやら、「顔」が無防備であるというまさにそのことが、禁止されている攻撃性をかき立てるのだ。レヴィナスは顔と邂逅した主体にとってのある種のアンビヴァレンスを明確にしている。すなわち、殺す欲望と、殺さないという倫理的必要とである。 [14]
非暴力の命令が意味をなすためには、まず、まさにこの、知覚的な生を通じて作用している格差――図式的で理論化されていない不平等主義――の可能性を、克服しなくてはならない。非暴力の命令が無意味なものとなるのを避けようとするならば、この命令は、生きうるもの、嘆かれうるものとみなされる生とそうでない生とに格差を設ける規範についての批判的な介入と、結びつかなくてはならない。生が嘆かれうるものである(前未来において理解される)という条件のもとにおいてのみ、非暴力の要求は、認識に関する不平等主義の諸形態との共謀を避けることができる。暴力をふるう欲望は、こうして、暴力をふるい返される不安に常にともなわれることになる。その場における普在的な行為者のすべてが、等しく、傷つきやすい存在だからである。 [15]
非暴力は「寛容」によって獲得されるような言説があるが、ことはそれほど簡単ではない。ジャック・デリダが主張する無条件の「歓待」の可能性はどうか。あるいはまた、ネグリ&ハートが言う「マルチチュードの革命」に期待できるのだろうか。難しい課題ではある、その実現の道筋が、私にはよく見えていないのだ。
[1] ジュディス・バトラー(清水晶子訳)『戦争の枠組 生はいつ嘆きうるものであるのか』(以下、「戦争の枠組」)(筑摩書房、2012年)p. 9。
[2] ジュディス・バトラー(本橋哲也訳)『生のあやうさ 哀悼と暴力の政治学』(以下、「生のあやうさ」)(以文社、2007年)p. 3。
[3] 「生のあやうさ」 p. 3。
[4] 「生のあやうさ」 p. 6。
[5] 「生のあやうさ」 p. 22。
[6] 「生のあやうさ」 p. 83。
[7] ジョルジュ・アガンベン(高桑和巳訳)『ホモ・サケル』(以文社、2003年)。
[8] 「生のあやうさ」 p. 13。
[9] 「戦争の枠組」 p. 11-2。
[10] 「戦争の枠組」 p. 56-7。
[11] 「戦争の枠組」 p. 135。
[12] 「戦争の枠組」 p. 137。
[13] 「戦争の枠組」 p. 139。
[14] 「戦争の枠組」 p. 208。
[15] 「戦争の枠組」 p. 216-7。