かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【私事・些事】 〈その人〉

2020年05月19日 | 私事・些事

【2011/9/3】

 〈その人〉について思い出せることは極端に少ない。私が4,5才の頃の静止画のような断片的なイメージが少しあるだけだ。

〔エピソード 1〕

 私は4才くらい。膝のうえで〈その人〉に抱かれている私は、カンカラ(缶詰の空き缶)を手にしている。目の前では、5,6人の男たちが花札に興じながら、金のやりとりをしている。私を膝に乗せていた〈その人〉は花札には加わっていなかったと思う。
 どのようなタイミングなのか理解できなかったけれど、ときどき〈その人〉のところに金が差し出される。〈その人〉は紙幣は自分でしまい、硬貨を私の持っているカンカラに入れてくれる。
 私はカンカラの中にしだいに増えていく硬貨を楽しみに、長いこと〈その人〉の膝の上で抱かれていたような気がする。それでも、夜が更け、眠くなって部屋を出ると、待ち構えていた母がカンカラごと金を没収する。

 その頃、〈その人〉は近隣の男たちを集めて、小規模な博打場を開いていたということであった。戦後5,6年の東北の農村の多くは貧しく、出稼ぎに行く人も多かった。夜汽車で東京に出て行く前に、この小さな賭博場に引っかかり、なけなしの汽車賃や一張羅まではぎ取られる人もいたというのだ。そんな人に、はぎ取られた服と汽車賃をこっそり手渡すのが母の必須の仕事だったという。ほとんどの場合、そんな人の妻や子供を母はよく知っており、どんな暮らしをしているのかもよく知っていて、見ていられなかったのだ、と後に母が言っていた。

〔エピソード 2〕

 季節はよくわからない。母も兄たちも姉たちも留守で、私一人が(たぶん、母を待ちわびて)居間でぼんやりしているとき、〈その人〉は帰ってきたのである。
 「ほれ、おみやげ。」
といって、新聞紙で無造作に包まれたものを手渡された。開くと、刃渡り30cmほどの短刀であった。柄の部分を入れれば、40cmをこえる短刀は、4才か、5才の私には大きすぎる重いおもちゃで、言葉もなく困惑していた記憶がある。
 どこかの駅でチンピラと揉め、そいつから取り上げた、という意味のことを〈その人〉は幼い私に言った。

 母が帰宅すると、その短刀はすぐに取り上げられた。だが、短刀は捨てられることなく、台所の隅の半坪ほどの炭置き場のなかで炭割り道具として長いこと我が家で使われていた。

〔エピソード 3〕

 ある朝、出勤時間をとっくに過ぎているのに、次兄がまだ家にいて荷物をまとめている。荷物には、下着のようなものもあったけれども、菓子類のようなものもいくつかあって、私は次兄から離れられないのであった。
 めずらしく背広にネクタイの次兄は、「これから北海道の叔父さんに飛行機で送るのだから、お前にはやれない」と言う。お昼過ぎにはその飛行機が家の上を北のほうに飛んでいくから、と言い置いて家を出て行った。憲兵だったという叔父(母の弟)が少し前に我が家に訪れ、背の高い叔父に初めて会った私は、北海道に住んでいる叔父についての話をしきりに聞きたがっていたということだ。
 昼過ぎ、しばらくは空を眺めていたが、飛行機は見つけられず、日は暮れ、暗くなって次兄が帰宅した。そして朝の話のつづきは家族の誰も口にしないのであった。

 その頃、〈その人〉は、炭鉱か工事現場かの「たこ部屋」に人を世話する仕事をして警察に捕まり、留置場に入っていたというのだ。その日、次兄は〈その人〉に面会と差し入れに行ったのだということがわかったのは、小学5,6年になった私がその時の話をしたとき、三兄がこっそり教えてくれたことによる。

〔エピソード 4〕

 私は〈その人〉に叱られた記憶がない。
 その頃、長兄は中学教師に、次兄は町役場に勤めるようになっていた。兄や姉たちと〈その人〉の関係がどんな風だったか、私にはまったくわからない。

 我が家の囲炉裏には、足をおろせるように15cm幅の板が炉の四辺、灰の上に置かれていた。ある日、〈その人〉はその板を取り上げて、次兄を何度も叩くのだった。家に入れる金が少ないというのが、打擲の理由だったようだ。
 その後、次兄は町役場の宿直室に泊まり込み、家に帰ってこなくなった。中学2年か3年だった次姉が、中学校へ行くとき、毎朝遠回りをして食事を次兄に届けるのが日課になった。その姉についていき、役場の玄関で次兄と会って、一人で家に帰ってきたということもあった。町役場と我が家のあいだは1本道で、幼い私にも何でもない道だったのである。

 その後まもなくして、〈その人〉は家を出て行った。もともと留守がちの人だったので、家を出て行ったという事件の印象は全くない。

〔エピソード 5〕

 これは私の記憶による話ではない。母が幼い私に繰り返し聞かせてくれたことである。

 母は私を連れて、隣町のある家を訪ねた。そこには、家を出た〈その人〉が女の人と暮らしていた。母が何をしようとしてその家に行ったかは、話さない。母がいつも話そうとしたのは、その家に入ったとき、私が
  「どうして玄関に敷居がないの。」
と母に尋ねた、ということだけである。

 戦後間もない東北の農村には、玄関に敷居のない家がまだあったのである。農村の中でもとりわけ貧しい場合である。ある同級生の家の玄関には敷居がなく、莚が戸の代わりにぶらさがっていた。私の記憶のなかにあるのは、この一軒だけだ。

 母はなぜこの話を幼い私に聞かせたがったのだろう。家を捨てた〈その人〉が、我が家より貧しそうな見栄えの家で暮らすことをはからずも私が指摘したことで溜飲を下げていたのであろうか。あるいはまた、その家に住む女の人に対してであったろうか。

 母と私がその家を尋ねてまもなく、〈その人〉はその家の女の人といっしょに東北の農村からも出て行ってしまった。母に連れられていったその日が、〈その人〉を見た最後ということになる。
  
〔その後〕

 〈その人〉が私たちの周囲から消えてしまったあと、私たちは平穏に暮らした。少なくとも私の生活は、母、そして年の離れた三人の兄と二人の姉のなかで、ただ一人の子供として、甘え、甘やかされて過ごす日々だったのである。母や兄姉たちがどんな思いでいたのか、知る由もなかった幼い私にとって、貧しかったが、不幸なんかではなかった。
 兄や姉たちには叱られた記憶がない。せいぜいからかわれたくらいで、その典型は「お前は川流れだ」というものである。私一人だけ年が離れているのは川を流れてきたのを拾ったからだ、という。兄や姉たちが口をそろえて言いつのり、私もそうなのだと納得したりもしたが、まったく平気だった。不幸でもなんでもない「川流れ」、それを嫌だとは思わなかったのである。可愛がられている、という実感のほうがはるかに強かったのだと思う。

 〈その人〉はとうに私の中から消えていた。記憶にないあの日が最後の完全無欠の別れであった。そのはずだった。

〔その後のエピソード 1〕

 19才、大学二年として仙台で暮らしていた私が、夏休みで帰省すると、少し前に、〈その人〉が田舎に突然現れたということであった。〈その人〉がいた頃に住んでいた家はすでに取り壊されて跡形もなかったはずである。兄姉たちはすべて結婚し、独立していて、母は次兄夫婦と暮らしていた。
 次兄の家を探し当てて現れた〈その人〉と、母や兄たちがどんな話をしたのかはわからない。誰も話そうとしないのである。いま暮らしている住所を書き残して〈その人〉はふたたび消えてしまったというのである。母は、帰省した私にその住所をこっそりと教えてくれた。

 その年の12月、暮れも押し詰まったころ、その住所(東京都昭島市)に出かけてみた。工事現場の飯場のような大きな家だった。40代、50代の男の人たちが大勢いた。
 〈その人〉が私の顔を知らないのは当然であったが、自己紹介をしたはずの私への反応も、ぼんやりしたものだったような気がする。心当たりがなかったのではないか、と思う。初めて会った大柄な男の人が相手をしてくれ、小さな部屋でいっしょに酒を飲んだが、〈その人〉は一度も顔を出さなかった。
 そのおじさんが私のマフラーを気に入ったらしいので、次の朝、別れしなにそのマフラーをプレゼントしてその家を出た。そのとき、〈その人〉と顔を合わせて挨拶をしたのかどうか、まったく覚えていない。

 私のなかには〈その人〉がいないように、〈その人〉のなかにも私はいないのだ、ということだけを確認して仙台に帰ってきた。仙台に帰って、年が明けた頃、私はひどく精神が弱ってしまい、下宿のおばさんに強く説得され、数ヶ月大学を離れることになった。「精神の弱り」は、〈その人〉とはまったく関係のないことを理由としていた。

 〈その人〉を訪ねていったことを家族に話すこともなく、ふたたび私の家族とその人とは没交渉となった。遠く離れて暮らす兄と姉を訪ね歩いて、その時期を過ごした。  

〔その後のエピソード 2〕

 25才であったか、26才になっていたか、このエピソードの最初のシーンの時期の記憶はじつに曖昧なのだ。大学院の修士2年か、大学の附置研究所の助手か、私の人生の区切りの明確などちらの時期に属するのか、まったく思い出せないのである。

 次兄から連絡があって、できるだけ早く一度家に帰ってくるように、というのであった。
 帰省すると、〈その人〉が病気で倒れたという連絡があったという。脳溢血で倒れ、寝たきりだという〈その人〉を、次兄は引き取ることにした、というのだ。次兄が話しているあいだ、母はしきりに「ほっとけ、かまうな」と口をはさむのだが、次兄は耳をかさない。
 迎えに行くのだが、私にいっしょに行ってほしいという。シャイで口べたな次兄は、私を交渉役にしようというのである。

 次兄夫婦と私は、昭島を訪ね、〈その人〉の病状を確認し、世話をしてくれていた家族になにがしかの謝礼をして、〈その人〉を引き取った。
 昭島から東京駅まではタクシー、東京-仙台は夜行寝台車、仙台からはまたタクシーで、ある市の比較的大きな病院に〈その人〉を入院させた。病院には母が待っていて、〈その人〉は母の付き添いで入院生活を送ることになる。

 私が26才の2月、〈その人〉はその病院で65才で亡くなった。始まりの記憶がないので、どれくらいの入院の後で死んだのか、はっきりしない。入院中に2度ほど、〈その人〉の髭を剃ってやった記憶がある。

 〈その人〉が亡くなった日からちょうど1ヶ月後に私の結婚が予定されていた。葬式を出した後で、結婚式をどうしたものか相談すると、母も兄姉たちも口を揃えて「予定通り」というのである。我が一族は、〈その人〉の喪に服すことはなかったのである。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

 森林麟太郎のいくつかの短編小説 [1] に刺激されて、〈その人〉について思い出せることを書き出してみた。私と同世代の森林麟太郎は、幼年時代、青年時代、そして父親となって向きあった子供のことを、いわば緊密に重なり合う想世界として小説に描いた。
 私にも父母がいて、妻がいて、子もいて、そして長いこと生きてきたが、父のことを思い出すことは皆無に近かった。夢に見ることもまったくない。成人してから、ふたたび父と会うことになった。その大人としての父との交渉を、イヴェントとして記述することはそこそこできるのだが、その時の父のイメージ、その時の父に対する私の感情のようなものは何ひとつ私のなかに残っていないのだ。
 私の父に対する無感情、無感覚は、思いがけないところで役に立った。ふたたび家族の前に姿を現した父との交渉は、もっぱら私の仕事になった。おそらく母や兄姉たちは自分たちの抑えきれない感情がどのように表出するのか、怖れを抱いていたいにちがいない。私には表出されるべき感情がないようなのであった。
 父にしても、留守の間に生まれ、たまに戻ったときに数度目にした程度の幼児を息子だとする認識を育てられなかったのではないか、と思う。

 私の意識のなかの、私と父の関係について何か変だと感じたのは、森林麟太郎の小説「奥の堂物語」の次の1節を読んだときである

だがそのような、天からはほど遠く地にだけはまるで近い存在である人間として見ればごくありふれたあたりまえの事実でさえ、時が経てばひとは忘れる。わたしも忘れる。あなたも忘れる。でも、たとえ忘れ去ったとしても、記憶は残る。記憶は忘れ去った日々の中からときに夢の中の事実として、ときに亡霊の形してひとびとの心の中によみがえる。これが私らの歴史というものなのだ。だれかがおおやけに書き残したから歴史になったのではない。忘れ去ることができても記憶として追いかけてくる打ち消しがたい事実があるからこそ、歴史は歴史として存在し続けるのだ。(森林麟太郎「奥の堂物語」

 意識してそうしようと思えば、父のことをエピソードとして思い出し、数え上げることはできる。だが、そこにはエピソードだけがあって生きた父は存在しないようなのだ。日々の暮らしの中で思い出すなどということは皆無だし、テレビドラマや映画、小説などでさまざまなタイプの父親が描かれていても、私の父を思いうかべもしない。夢になんか1度だって登場しない。
 「記憶は忘れ去った日々の中からときに夢の中の事実として、ときに亡霊の形してひとびとの心の中によみがえる」というわけではないのだ。父をめぐって私の過去で「起きたこと」を忘れてはいない。しかし、夢としても亡霊としても現れるような記憶としては存在していない。もしかして、「父」は私の潜在意識、無意識の領野から(つまり、森林麟太郎のいう「記憶」から)とうの昔に追放されていたのはないか、と思ってしまったのだ。
  意識にありながら無意識の領野にはない、などという矛盾に満ちた心というものがあろうか。

無意識は、諸問題と諸差異を糧として生きているのである。歴史というものは、否定を経由せず、また否定の否定をも経由せず、反対に、諸問題の決定と諸差異の肯定を経由するのである。 (ジル・ドゥルーズ [2])

 ドゥルーズ流にいえば、「父祖」は喪失されたものとして諸《理念》-諸問題の要素に含まれていないのではないか。諸《理念》-諸問題に存在しないものは生まれようがないのである。父から子へ、さらにまた子へと紡がれるような物語、歴史を私は語ることができない。父と自分、自分と子の2重写しの感情が幻想的に描かれる「お暗き夜半を」を読みながら、そう思ったのであった。

 ひとつの影が言った。
  「あなたは幼くして父を見殺しにした。それがたとえあなたの母のためだったとしても、あなたは光から許されることはない。あなたは身を賭して償いをするのです。すべて与えられなかったものとして、あの暗闇に戻って行きなさい」
  ひとつの影が答えた。
  「お母さん、ぼくお父さんを捜しに行って来る」
  それはあの五歳の時のままの息子の声だった。(森林麟太郎「お暗き夜半を」)

 私は、〈その人〉の写真を一枚も持っていない。

 

[1] 森林麟太郎の作品は、『青空文庫』というWEBサイトに掲載されていたが、現在は読むことができない。
[2] ジル・ドゥルーズ(財津理訳)「差異と反復 下」(河出書房新社、2007年) p. 261。

 

【ホームページを閉じるにあたり、2011年9月3日にHPに掲載したものを転載した

 

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