かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『マグリット展』 国立新美術館

2015年05月23日 | 展覧会

2015/5/23

 魅惑的な絵が続くのだが、いつもの美術展とはだいぶ気分が異なる。多くの場合、展示作品によって喚起される自分の感情の変化を楽しみながら会場を回るのである。美しさに感動したり、構図や色彩に感心したり、ときには不快感に襲われたりもするが、いずれにせよ、あまり言葉を必要としない精神状態になっていることが多いのだ。すべて見終わって、その時の気分をもう一度反芻しながら図録を眺めるときに、初めて絵と言葉の対応が現われる。それは感想としての言葉であったり、私の気分と図録解説の比較であったりする。いずれにせよ、言葉は事後的なものである。
 しかし今日は、普段の美術展の気分のままではどこか居心地が悪いのである。理由はすぐ明らかになる。どの絵も観る者に言葉を要求していると思えるのだ。絵画の意味や解釈、あるいは反論を挑戦的に要求されていると感じる。それはいつもの鑑賞態度とは大きく異なるので、戸惑ってしまったというのが適切かもしれない。
 異和を感じながらも、言葉をなるべく想起しないように努めて、つまりは心の中でも黙々と会場を歩いたのである。タイトルは読むが、いつものように解説は読まないことにして歩いたのだが、タイトルを見てしまうと、それだけで心はざわざわするのだった。

 この美術展の図録 [1] は、じつのところ、異様に言葉が多い。5篇のマグリット絵画に関する論考ばかりではなく、展示作品の分類ごとの解説、作品に添えられた解説までじつに丁寧な言葉が添えられている。
 なかでも、ミシェル・ドラゲによる巻頭の論考「マグリットと精神分析」 [2] は、当時流行であった精神分析をマグリットが極度に嫌っていたこと、そればかりではなく、どのような絵画解釈に対しても拒否する姿勢を崩さなかったと述べているのである。
 作品の解釈や反論を挑発的に求められていると私が感じたこととは逆に、マグリットは(とくに心理学的な)解釈を拒否し、次のように語ったという。

「私は無意識を信用しないし、世界が眠りのなかとは違うかたちで、夢のように私たちに与えられるとも思いません。私は白昼夢に信を置きません。想像力もやはり信じていません。想像力は気まぐれです。私は真実しか探しません。真実、それは神秘です。最後に、私は『観念』にも信を置きません。もし観念を持っていれば、私の絵画は象徴的なものになるでしょう。しかし、断言しますが、私の絵画は象徴的なものではありません」。 (ドラゲによる引用。図録、p. 29)

 「真実」は「神秘」だといい、さらに「神秘」は「世界のこと」 (図録、p. 32) だと断言するのである。このようなマグリットの言葉を念頭に置いて作品を見直したら、私には混乱しか起きようがないと思うのだが、しかし、マグリットの言葉にかかわらず、図録は解釈に満ちているので、それを頼りに見直してみることにする。


《彼は語らない》1926年、油彩/カンヴァス、81×60cm、個人蔵 (図録、p. 78)。

 《彼は語らない》という作品こそ、ありとあらゆる絵画作品の中でもっとも饒舌に語りかけようとし、解釈としての多言を要求しているように思う。そんな作品だと思う。語らない彼は石膏製の頭部だけで、背後に(たぶん、語るであろう)女性が隠れるようにいる。
 石膏像はデスマスクとも解釈できるが、ここでは構図的には生者の仮面のようでもある。しかし、「彼は語らない」と名付けることで、反語的に彼は「語りうる」という可能性を暗示しており、彼が仮面以上の存在であることを示唆しているようだ。この二重存在は何を意味しているのか。少なくともそのような精神分析的な解釈を誘っているようにしか、私には思えなかった作品である。


《火の時代》1927年、油彩/カンヴァス、73×100cm、エリック・ドゥセル蔵 (図録、p. 82)。

 図録の写真では判然としないが、《火の時代》では描かれた雲の物質感に惹かれた。また、炎も硬質な物質感を持っていることに気付かされる。雲も炎も本来はガス状の存在であるのに対して、他の絵ではいつもしっかりとした存在感で描かれる人物がこの絵の中では微妙に透明で希薄な存在として描かれている。
 しかも、その人物は他に例がないネイティブ・アメリカンであることも、なにか意味ありげである。たとえば、かつて栄えたネイティブ・アメリカンの時代へのシンパシーがあるかと問えば、私はそれを感じないとしか答えようがない。意味ありげのまま、言葉はほとんどない。不思議な感じの絵である。


《巨人の時代》1928年、油彩/カンヴァス、73×54cm、
ヒラリー&ウィルバー・ロス蔵 (図録、p. 91)。

 背広の男性が裸の女性を襲っている。「まさに強姦が行われようとしている瞬間の様子」(図録、p. 90)だという。存在感(量感)のある女性の輪郭に沿って空間が切り取られ、それによって3次元的な人物像が2次元平面の狭い空隙に押し込められている印象を与える。
 さて、どうして《巨人の時代》なんだろう。この絵もまた、疑問は尽きないのである。


《透視》1936年、油彩/カンヴァス、54×65cm、
ヒラリー&ウィルバー・ロス蔵 (図録、p. 123)。

 《透視》の前に立つと、少し笑いかけた。卵(の未来)を透視して成鳥を描いている。あまりにも率直簡明で、ここには、謎も神秘もまったくない。並の手品師でも、観客がもっと驚くような「透視術」をやってのけるだろう。画家の心性は知らないが、ここには企まざるジョークがある。描写力がすばらしいだけにいっそうそんなふうに思えるのだった。
 ただし、作品解説は異なる。「《透視》において示される画家の魔術的な力は、今度は文字通り、未来を見通す透視力である。絵の中の画家は、卵を見つめながら、その未来にある鳥の羽ばたく姿を描き出しているのだ。」(図録、p. 122)ということで、私の感慨はかなり俗っぽいということらしい。もちろん、何の卵が分からないのに、成鳥の種類を正しく描いて見せたということなら、それは脅威の才能である。
 いずれにせよ、この作品はマグリットの自画像でもあるということだ。


【左】《恋人たちの散歩路》1929年または1930年、油彩/カンヴァス、92×73cm、
パークヴュー・コレクション (図録、p. 104)。

【右】《空の鳥》1966年頃、油彩/カンヴァス、68.5×48cm、
ヒラリー&ウィルバー・ロス蔵 (図録、p. 223)。

 青空の白雲という図柄の作品が多く目についた。全面、青空と雲が描かれている明るい絵なのに《呪い》と名付けられた作品もあったが、多くは切り取られた空が何かにはめ込まれているという絵である。
 《恋人たちの散歩路》は、散歩路の上に広がるであろう青空が額縁の中だけにはめ込まれていて、本来の空の場所は光すらも存在しない空無であるかのように暗黒となっている。《夏》という作品は、建物の前に掲揚されている旗の部分がくり抜かれて青空が覗いているように描かれている(けっして、旗の図柄が青空と雲ということではない)。
 《空の鳥》は、羽ばたく鳥の部分が「空」に置き換わっていて、文字通り「空の鳥」というわけである。左右が反転しているもののほとんど同じ構図の《大家族》という作品もあるが、暗い背景との対照において《空の鳥》はみごとな形象をなしている。
 きわめてデザイン性に優れた作品と思って眺めていたが、ベルギーの航空会社、サベナ国際航空のシンボルマークに採用されていたということだ。


【左】《人間の条件》1933年、油彩/カンヴァス、100×81cm、
ワシントン・ナショナル・ギャラリー (図録、p. 116)。

【右】《野の鍵》1936年、油彩/カンヴァス、80×60cm、
ティッセン=ボルネミッサ美術館 (図録、p. 117)。

 カンヴァスの中の絵と背景の見分けがつかないという作品に《美しい虜》という風景画がある。そこでは野に立てられたイーゼルに架けられたカンヴァスに描かれた絵が背後の風景と連続していて、わずかに細くカンヴァスの縁が描かれて、それと判別できる。
 まったく同じ趣向で窓外の風景を描いたのが《人間の条件》である。解説には、カンヴァスに描かれた風景とカンヴァスの背後の風景が「まったく同じであるという保証はない」と記されているが、空や木々の連続性からそれを疑う必要があるとは思えない。
 《野の鍵》では窓ガラスがカンヴァスの代りを果たしている。窓ガラスを通してみている風景は、じつはガラスに映しとられていた風景であることが暴露されている。つまり、ガラスに写し取られた絵と窓外の風景の同一性を示している。私たちが見る風景の実在性に関する存在論的考証としてマグリットの作品があるような気分になる。
 ここでもやはり、《人間の条件》や《野の鍵》というタイトルには、マグリットがいかに拒否しようとも、丁寧な精神分析が必要ではないかと思わせるものが確かにある。


【左】《生命線》1936年、油彩/カンヴァス、73.1×54.1cm、
ポーラ美術館(ポーラ・コレクション) (図録、p. 154)。

【右】《夢》1945年、油彩/カンヴァス、83×69cm、
個人蔵 (図録、p. 157)。

 《生命線》というタイトルは、めずらしく分かりやすい。「彫刻の女性像が生身の人間へと変身を遂げていくのか、あるいはその逆なのか」(図録、p. 154)と作品解説にあるように、上半身は石像、下半身は生身の婦人像である。文字通りの生命線としての境は、臍の上あたりにある。
 一方、《夢》では壁に映る女性の影が、あたかも女性を立体的に石像として写し取ったかのように描かれている。絵画作品としては圧倒的に《生命線》の方が私の感受力を刺激するものの、《夢》の方が人間存在の二重性を表象してるようにみえて、もしかしたら豊かな存在論的思惟の源になり得るのではないかと思ったりもする(ただし、私にはそのような思考へのきっかけすら生まれてはいないのだが)。


《記憶》1948年、グワッシュ/紙、46.5×37cm、個人蔵 (図録、p. 164)。

 《記憶》は、もっとも印象的な作品の一つである。頭部だけの彫刻のこめかみから流れ出る鮮血が際立っている。波立つ海、暗雲広がる空という背景もいい。一輪の薔薇も白鈴も意味深げであるが、目を閉じて深く考え込んでいるような彫刻の表情こそが鮮血を際立たせている最大のものだろう。


【左】《オルメイヤーの阿房宮》1951年、油彩/カンヴァス、80×60cm、
個人蔵 (図録、p. 167)。

【右】《ピレネーの城》1959年、油彩/カンヴァス、200×145cm、
イスラエル博物館 (図録、p. 199)。

 《オルメイヤーの阿房宮》と《ピレネーの城》の二つを合成させて天高く雲の上に配置すると「天空の城ラピュタ」になる。壊れかけている外壁は大きな根に支えられ、巨大な姿を空に浮かべる姿にそんな想像をした。
 《オルメイヤーの阿房宮》は奇妙な存在体を描いているが、根から石垣壁に変化する構図も、阿房宮や背景の色調もとても魅力的な作品で、私のお気に入りの一つになりそうだ。


《ゴルコンダ》(部分)1953年、油彩/カンヴァス、80×100.3cm、
メニル・コレクション (図録、p. 206)。

 《ゴルコンダ》は、奇妙だがとても印象の強い作品だ。作品解説はこう述べている。「おそらくブリュッセルと思われる匿名的な街並みを背景に、コートを着て山高帽を被った大勢の男たちが空中に浮かんでいる。3種類の大きさに描き分けられた男たちは、極めて整然と規則的に並んで画面と平行な3つの層を形成し、空間を埋めている」(図録、p. 205)
 細部を見ると男たちはそれぞれ異なった人物らしいが、かといって個性や差異を問題にする必要は感じない。彼らに個性を見いだすことに意味があるとはどうして思えないのである。天から降ってくる雨粒に個性がないようなものだろう。図録解説はまた、マグリット自身の次のような言葉を引用している。

「群衆がいます。それぞれ違った男たちです。しかし、群衆の中の個人については考えないので、男たちは、できるだけ単純な、同じ服装をし、それによって群衆を表すのです。しかし、それが一体なんでしょう? どこでも男たちを見かけるということを意味しているのでしょうか? そんなことはありません。おそらく私は、あなたが男たちを見るとは思ってもいないところに、彼らを置きました。」 (1966年の『ライフ』誌によるインタヴュー、MAGRITTE Catalogue Raisonné, Ⅲ, pp. 205—206に引用)


《レディ・メイドの花束》1957年、油彩/カンヴァス、163×130.5cm、
大阪新美術館建設準備室 (図録、p. 229)。

 山高帽を被ったコートの男性がバルコニーに立って庭(の林)を向いている。その背中に配されているのはボッテチェリの《春》に描かれている女神フローラである。《レディ・メイドの花束》には、どこにでもいるような紳士が描かれている(《ゴルコンダ》ではそのような男が群衆として無数に描かれている)にもかかわらず、きわめて鮮明な印象を与える。それは、ボッテチェリのフローラを背負う男としての不思議から来る。
 「背負う」と書いたが、ほんとうに男とフローラは何らかの関係があるのだろうか。もしかしたら、男は漫然とバルコニーに立っているに過ぎず。異次元空間に出現したフローラを意匠として男の背後に描いただけかもしれない。
 解釈を拒む絵画をどうにか理解しようとあがくと大いなる誤解に落ちこむばかりに違いないが、このようなシュールな組み合わせ、配置こそマグリット絵画の特徴であることだけは間違いない。

 

[1] 『マグリット展』(以下、図録)(読売新聞東京本社、2015年)。
[2] ミシェル・ドラゲ「マグリットと精神分析」図録、p. 28。