かわたれどきの頁繰り

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【書評】井上俊夫『詩集 八十六歳の戦争論』(かもがわ出版、2008年)

2015年05月15日 | 読書


井上俊夫
『詩集 八十六歳の戦争論』
(かもがわ出版、2008年)

 

 この詩集にことさら付け加えたい言葉があるわけではない。奇もなく衒いもなく、平明な言葉で率直簡明に綴られた詩篇である。
 ただ、解釈改憲を越えて憲法改正を喫緊の政策課題として掲げた自公政権が、集団的自衛権の行使容認、特定秘密保護法の制定、戦争法案の国会提出と矢継ぎ早に戦争国家への道を急いでいる現在の政治状況の中で、井上俊夫という従軍体験を持つ老詩人の言葉を紹介しておくことはきわめて大事なことに思えて、抜き書きノートから書き出すことにした。

 私は敗戦後の生れである。もう少し厳密に言えば、母の胎内で敗戦の日を迎えた。そういう年齢である。だから、戦争は、大人たちの日々の言葉の端々から伝わってくるもの、本などの言葉を通して知るものとしてあった。
 若い頃、「戦争を知らない子どもたち」という歌が流行って、いい歌だと思って口ずさんだりしたが、「体験していない」ことは「知らない」ことではない、という異和はずっと持っていた。私たちは言葉を持ち、想像力を持っている。体験しないことは知らないことだと言ったら、「歴史」も「歴史学」も「文学」も「歌」も存在の意味を失ってしまう。
 戦争を直接体験した人々の証言も私たちにとってかけがえのない想像のよすがである。しかし、私たちの国は、高齢の戦争体験者を失いつつある。

火葬場で焼けているのは老兵の屍だけではない
老兵の脳髄に刻まれていた
生々しい軍隊と戦場の記憶が
一枚のペーパーのように
青白い炎をあげて燃えているのだ。

八十代、九十代の高齢になるまで
秘かに抱いてきたのに
もはや誰にも伝えることがない
人それぞれの多彩で慚愧に堪えない軍隊と戦場の想いが
音もなく燃えているのだ。
                「燃えるペーパー」部分 (p. 108-9)

 1922年5月大阪近郊の農家に生まれた井上俊夫は、1942年から1946年にかけて太平洋戦争に五年ほど従軍した経験を持つ。この詩集は、おそらくは息子を越えて孫たちの世代に戦争の体験、戦争の意味を伝えるべく編まれた詩集である。

 当時、若者はどんな思いで招集され、従軍していったのか。戦後のひととき、若者たちは、唯々諾々と雪崩をうつように戦争へ心身とも取り込まれていったように見えた大人たちを非難することもあった。生まれてから戦後民主主義の空気を吸ってきた若者たちには理解しにくいことは確かであった。 

戦争に駆り出された頃の私はほんとに無知な若者だった。
だが、この無知はなんにも知らない無知ではなかった。
文学青年だった私は日本文学はもちろん
ロシア文学もフランス文学もアメリカ文学も
かなりの数の本を読破していた
戦時下の論壇で活躍していた戦争肯定の知識人たちの本も読んでいた
つまり私は無知ではなかったのだ。
だが、かんじんの戦争の本質を見抜くために欠くことができない
社会主義思想や反戦・反軍国主義の思想の知識は皆無だった
つまり私は「無知でない無知な若者」だったのだ。
              「無知でない無知な若者」部分 (p. 149-50)

 当たり前のことだが、当時の日本人のほとんどが無知だったなどということはありえない。詩人もまたけっして無知だったのではない。「無知でない無知な若者」という指摘が意味することは重要だ。
 戦後七〇年の今、多くの人々が高等教育を受けるようになった。私の世代では半分が中学校卒で就職し、半分が高校に進学した。集団就職の世代である。今では、ほとんどが高校に進学する。大学進学者など、戦前と比べることも愚かしいほどに多いのだ。戦前と比べれば、きわめて多くの人々が知識、知恵を獲得する機会を得ている。
 にもかかわらずまっしぐらに戦争へ向かう自公政権を支持しているのはそういう戦前と比べたらはるかに高学歴の人々だ。やはり、どう考えても「無知でない無知な若者」が多いと考えざるを得ない。

 「無知でない無知な若者」は、戦地でどんな経験をするのだろう。野蛮な悲劇とそれに耐える偽悪的な姿もかいま見える。その偽悪的なたくましさが、戦争の悲惨に耐えて敗戦を迎えたとき、天皇制を心情的に乗り越える際にも発揮されたようだ。

陸軍歩兵二等兵Wが
三八式歩兵銃の手入れが悪いとの口実で
初年兵教育係上等兵から顔が変形するまで殴打された二日後に自殺した
手持ちの三八式歩兵銃で自分自身を撃ったのだ。

……

「初年兵の分際でどうして三八式歩兵銃で自殺するやりかたを知っていたのか!」
「誰か教えた奴がいるはずだ。即刻、内務班(兵士たちの居室)を調べろ!」
中隊長は内務班長(下士官・軍曹)に命令した。

軍隊歴五年の軍曹はハイと神妙な顔付きで答えながらも
心の中で赤い舌をペロッと出した。
三八式歩兵銃で自殺するやりかたなんか支那派遣軍百万の兵士は
みんな古参兵から教わって知っているんだ。
それに日頃気に喰わない将校がいたら
戦闘中のドサクサに紛れてそいつの背中を後ろから
ズドンと一発、三八式歩兵銃で狙い撃ちして
安らかに靖国神社へお送りすることもみんな知っているんだ
知らないのはお前さんみたいなボンクラ将校どもだけよ。
         「三八式歩兵銃(その二)」部分 (p. 32-5)

しかし命令通り菊花御紋章をヤスリで削る私たちは至って陽気だった
「この天チャン(天皇陛下)の印が小銃についているため
 俺たちは随分エライ目にあわされてきたなあ」
「恨みかさなる三八式歩兵銃と御紋章だよ。こんなもの
 そのまんま熨斗を付けて支那軍にくれてやればいいんだ」
「あちらでもこちらでも御紋章をヤスリでギーコギーコと削られて
 今頃天チャンは泣いておられるぜ」
私も御紋章を削りながらこれでもう天皇とはキッパリお別れだと思った
とうとう天皇と天皇の軍隊とはなんの関係もない人間になれたと思った
だから戦後になって象徴天皇として天皇制が復活したけれど
私にすれば、それはとっくの昔にヤスリで削り取ってしまって
もはや何の関心も持てない存在に過ぎないのだ。
          「三八式歩兵銃(その三)」部分 (p. 41-2)

 しかし、戦争から帰還した若者はほんとうに戦争を、ファシズムを、天皇制を、軍国主義を乗り越えたのだろうか。ときとして、畏るべき感慨が沸き起こることもあったようだ。それは戦争体験が深ければいっそう恐怖に満ちた感慨であったろう。

往年の私が中国の戦場で迎えた歩兵連隊での軍旗祭。
その日は朝からドシャ降りの天気だったが
われら下級兵士は重い背嚢を背負い腰に帯剣をぶらさげ
肩に三八式歩兵銃を担いだ完全武装で
顔まで泥水を跳ね上げながら
勇壮な喇叭の音にあわせて分列行進をおこなったのだった。
「頭ァ、右ィ!(カシラァァ、ミギィィ!)」の号令で
われら年若き兵士が一斉に注目する輝かしき軍旗の遥か彼方に
白馬にまたがった幻想の大元帥陛下がおわしまし
われらは生きて再び内地の土は踏むまいと誓い合ったのだった
ああ、あの時のオルガスムスに似た陶酔感。

今にして思えばファシズムが様々な軍歌や行進曲を通じて
前線の兵士や銃後の国民に撒き散らかしていた麻薬が
戦後五十有余年も閲したこんにちなのに
書斎で君が代行進曲にあわせて歩いていると
いまなお有効期限が切れていないことをはっきりと思い知らされるのだ。
できることならもう一度
一兵士としてこの身をミリタリズムの悪魔に捧げたくなってくるのだ。
もう一度戦争をやりたくなってくるのだ。
         「「君が代行進曲」にあわせて」部分 (p. 96-7)

 もちろん、詩人はけっして恐怖の感慨に打ち負かされることはない。戦後の民主主義を軽蔑し、平和憲法を毛嫌いしつつ、イラクへ自衛隊を派遣するまでになった戦後日本の政治の頽落に向けて、詩人は戦争経験から立ち上がる言葉を対抗させる。それは、戦争に至るまでの日々の暮らしの中で、体に染み込むように植え付けられた軍国思想の乗り越えの困難さをも明らかにしている。

当時の国民はみんな天皇の赤子だった
だから天皇のおんために死ぬのが当然とされていた
それにしても老いも若きも見事なまでに
皇国史観と軍国主義に染め上げられていたものよ。

それも一朝一夕に染められたのではなく
梅干しを作る際、青梅がじわじわと赤くなっていくように
幼い時から受けてきた天皇制教育により
徐々に、けれども確実に染められていったのだ。

だから戦争が終わって六十有余年にもなるこんにち
いまだに梅干しのようなアタマを
後生大事に持っている人が大勢いる。

いまの内閣総理大臣は戦後生まれで
戦争を知らない世代のはずなのに
なぜか梅干しのようなアタマをお持ちだ

いったん真っ赤に染め上がった梅干しを
もとの青梅に戻すことの困難さを思え。
         「梅干しの壺を覗きながら」部分 (p. 122-4)

 いや、もっと強烈な主張がある。もう一度日本の兵となって死にたい、と81歳の反戦志願兵は〈反語〉鋭く語るのである。

イラクへ派遣された自衛官が
公務中に死亡した場合
賞恤金と特別褒賞金とかいうものを併せて
一億円が支給されることにきまった。

私がいた昔の軍隊では夢想だにできなかった
大盤振舞だ、びっくり仰天だ。
こんな大金が貰えるなら私もイラクへ行きたい
そして反米武装勢力が放つ銃弾に斃れて
金一億円也
を拝受し、それを孫への置土産にしたい。

私はいま八十一歳だが
近くの飯盛山に登って足腰を鍛えている。
自慢じやないが元は中支那派遣軍の部隊で鍛えあげた下士官
従軍足掛け五年の歴戦の勇士だ。
自動小銃の扱い方なんぞ教わらなくとも心得ている。
無線通信もやれるはずだ。

小泉内閣総理大臣殿
石破防衛庁長官殿
どうか私をイラク派遣自衛隊の一員に加えてください
もっとも私が常日頃
アメリカの従属国さながらに振舞う
政府の卑屈な態度に愛想を尽かしており
かの日中戦争にしても
あきらかに日本の侵略戦争だったという歴史認識を抱き
昭和天皇には戦争責任があると主張するなど
あなた方がいうところの「反日的思想」の
持主であることがお気に召さないようでしたら
いますぐ「転向」いたします。

日本は万世一系の天皇をいただく神の国であり
「大東亜戦争」は欧米の植民地とされていた
アジアの諸国を解放し、独立させるための聖戦でした。
そして今の憲法を改正して、自衛隊を名実共の国軍とし
今後どこの国へでも日の丸の旗をはためかして
威風堂々の進攻ができるようにすべきです。
今までの私はこうしたことに異論を唱えるなど
重大な誤りを犯していました。
私は今ここに「転向声明」を書いて署名捺印します。
これは決してイラクへ行きたさの
偽装転向ってものじゃありません。
私の本心から出た言葉であります。

どうか私をイラクへ派遣し
「日本人戦死者第一号」の光栄に浴させてください
ただし小泉首相ご贔屓の
靖国神社に私を祀ることだけはご勘弁願います。
    「老いたれど紅旗征戎吾が事にあり」全文 (p. 152-5)

 イラクに派遣された自衛官は、一人もイラクで死亡することはなかったが、帰国後の自殺者が多かったと聞く。ベトナム戦争後のアメリカ帰還兵、イラク戦争後のアメリカ従軍兵士にも自殺するもの、心を病んでしまったものが大勢いたとも聞く。
 心病まずして戦争を遂行できるというのは、まともな人間の行いではないのだ。戦争という名を冠したら、人を殺すことに躊躇いがなくなるという想像を私はすることができない。

 さて、最後に、戦争の日々からはるか遠くまでやってきた老詩人にはこのような詩もあるということを紹介しておく。

二人は公園のベンチに腰をおろして
とりとめもない話をする
私八十五歲
妻八十三歳。

二年前、妻は末期癌であと三ヶ月のいのちと宣告された
それが抗癌剤を飲み続けることによって
奇跡的に生き永らえているのだ。

さあ、歩きましょう
今度はクルマに頼らないで歩く練習だよ
私は妻の手をとつてゆっくり歩き出す。
今日は四十メートルも歩けたよ
次は六十メートルにするんだな。

……

二人は再びベンチに腰をおろす
妻はブランコや滑り台で元気に遊ぶ子供たちを見て
私にもあんなに自由に走り回れる時があったのにね
こんなにしみじみとした口調で言う妻は
いつ頃のおのが姿を思い浮かべているのだろう。

私にも三十キロを優に超す重い背嚢を背負い
天皇家の紋章入りの三八式歩兵銃を後生大事に持った
完全武装姿で中国大陸の戦場を
駆けずり回っていた時期があった。

ああ、エノキの大木がいい陰をつくっている
梅雨の晴れ間のいい風が渡ってくる。
         「公園で」部分 (p. 126-8)

 詩人は、この詩集が刊行された2008年の10月16日に逝去された。「生々しい軍隊と戦場の記憶が/一枚のペーパーのように/青白い炎をあげて燃え」てしまったのだ。あらためて、合掌。