かわたれどきの頁繰り

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『ロイヤル・アカデミー展』 東京富士美術館

2014年10月02日 | 展覧会

【2014年10月1日】

 一昨日、『オルセー美術館展』を見た。展示の主力はマネ以降の印象派の画家たちである。彼らのほとんどは、アカデミーや政府が牛耳るサロンの落選者たちで、いわばアカデミーの芸術観に反発する形で、落選者たちの展覧会として印象派の活動が始まったのである。 ところが、今日は、国は違うけれど、その反対側のアカデミーの美術展である。イギリスのロイヤル・アカデミーが創設された1768年から1918年までの収集作品の展覧会である。偶然とはいえ、アカデミーに庇護された芸術とそれに反発した芸術、その双方を続けて見ることができるというのは、とても面白い経験ではある。

 マリアン・スティーヴンズが図録 [1] に「ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ」という一文を書いていて、ロイヤル・アカデミーの果たした歴史的意味を次のように述べている(以下、カッコ書のページは図録からの引用を示す)。

1760年代後半にロイヤル・アカデミーが創設されたことは、イギリス美術の発展において重大な時機となった。それ以前は国家や教会からの後援はなく、いくつかの例外を除けば宗教的作品や大規模な世俗作品、とりわけエリート支配階級の国家的価値観を称揚するような大規模な物語絵画(従来の訳では歴史画)に対する要求はほとんどなかった。むしろ芸術制作は君主にしろ、貴族や増大する富裕な中流階級の一員にしろ、個人のパトロンによって支配され、彼らは肖像画や自らの地所の記録や静物画を注文していた。ロイヤル・アカデミーはこの不均衡な関係にあからさまな抗議を申し立てた。パトロンではなく芸術家が作品を選び、その作品の芸術的な質をロイヤル・アカデミー会員からなる審査員団が保証するような公の展覧会を組織することによって、芸術家はパトロンからの独立を宣言し、職人から自立した専門家へと自らの地位を高めていった。 (p.15)

 芸術家の集団の公的(国家的支援を受けた)組織としてのアカデミーは、芸住家の社会的な自立をもたらした。一方で、芸術は集団的同意があれば優れたものだと認定されるような性質のものではないことから、アカデミーの存在は新しい芸術創造には抑圧機構として働くという歴史的役割を果たすようになる。いわば、アカデミーはそのような歴史的宿命をもってしまう。
 河村錠一郎は、「ロイヤル・アカデミーの多相性」と題する論文 (p. 48) で、アカデミーに対してなされた批判やその経緯を紹介している。よく知られた「ラファエル前派」の活動もまた、アカデミーに反発する形でなされたのであった。ただし、ラファエル前派の主要な一人であるジョン・エヴァレット・ミレイは、後年アカデミーの会長になっている。歴史は単純には進まないということだ。
 この美術展では、じつに多くの画家たちの絵が展示されているが、私がかろうじて知っている名前は、ターナー、カンスタブル、ミレイくらいである。正直に言えば、ヨーロッパの美術館でしこたま見せられるような作品が多かった。つまり、ギリシャ・ローマ神話も聖書の説話も、その世界と登場人物はすべて事実、実在と信じられていた時代に、いかにそれを忠実に描くかに腐心したような絵画が多いのである。それこそ、伝統あるいは評価済みの価値を大事にするアカデミーらしさというべきかもしれないが。

 たくさんの展示作品の中から、お気に入りをいくつかピックアップしたが、そのどれもが「ディプロマ作品」と紹介されている。いかにもアカデミーそのものらしいのだが、ディプロマ作品についても、スティーヴンズの解説がある。

アカデミーの新会員は同僚会員によって選出されねばならず、さらに「そこに留まるためには、ロイヤル・アカデミーに絵画、浅浮き彫り、その他自らの能力を示す見本」を委託し、「その時着任しているアカデミー評議会に承認される」必要があった。新会員は承認を得ると同時に君主が署名した認定状を受け取り、氏名の後ろに「RA」の頭文字をつける資格が与えられた。この慣例ゆえに、このような提出作品は「ディプロマ・ワーク」と呼ばれるようになった。 (p. 15)

デイヴィッド・ウィルキー《ネズミ探しで穴を掘る少年たち》1812年、油彩・ボード、
36.4×30.4cm、ディプロマ作品(p. 89)。

 《ネズミ探しで穴を掘る少年たち》は、その時代の庶民の風俗を描いたものだ。ブリューゲルやヤン・ステーン、ワルトミューラーなどが描く農民、庶民の暮らしぶりを描く絵が私のお気に入りのひとつで、それに連なる絵でとても興味深く感じながら(面白いし、たのしいなぁと思いながら)見た絵である。

エドウィン・ランシア《忠実な猟犬》1830年頃、油彩・カンヴァス、68.4×91.2cm、
ディプロマ作品(図録、p. 97)。

 これはもう、犬好きの私にはたまらない。芸術作品としてどうとかという問題ではない。私の中では、もっとも哀切な情景である。美術館の中でなければ涙が流れだしてしまいそうな絵である。犬が犬であることのもっとも本質的な性質は、いつの時代にあってもどのような人間が観察しても変わらない。これは忠誠だろうか、愛情だろうか。
 強いて言えば、死んだ主人の姿勢がどことなく不自然な感じがする、というくらいか。

ジョン・エヴァレット・ミレイ《ベラスケスの思い出》1868年、油彩・カンヴァス、
102.7×82.4cm、ディプロマ作品(図録、p. 113)。

 《ベラスケスの思い出》は、あの有名な《オフィーリア》を描いたミレイの作品である。ベラスケスにはスペイン王女マルガレータを描いた絵がいくつかある。当時のスペインにとって政治的脅威であったフランスに対抗するため、マルガレータ王女は幼くしてハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルト1世との政略的婚姻が定められていた。ベラスケスの絵は、いわばウイーンのハプスブルク家に贈られる見合い写真のような意味合いで描かれたのだという。
 そのベラスケスのマルガレータ像から着想を得て描かれたミレイのマルガレータは、いっそう華やかで、当然のことながらベラスケスの王女像とは明確に異なる。さらに、その描き方は、自らの《オフィーリア》とも異なるようだ。作品解説はこうである。

……この作品での表現主義的な筆致と自由なカラーリングは、彼の初期ラファエル前派時代の、抑制のきいた自然主義とは対照的である。……この作品が持つ回想的な雰囲気への好みは、当時生まれつつあった唯美主義運動と呼応している。 (p. 112)

アーネスト・アルバート・ウォーターロウ《ロワン川のほとり》1903年、油彩・カンヴァス、
92.4×67.2cm、ディプロマ作品(p. 123)。

 《ロワン川のほとり》は、空と並木で縦に二分された上部空間と陸地と川に分かれる下部空間のバランスをとても魅力的に感じた絵だ。とくに左上部で、並木の先が切れているのが、見る側のこちらまで高い並木が連なっていることを実感させるのに効果的に思える。
 構図はさておき、いい風景である。風景自身が醸し出す一般的(普遍的)な美しさと、画家が描き出す美しさが相俟って風景画はいっそう美しくなる。ただ単に写実的でも、反対に画家の個性が強すぎてもいけないのだ(たぶん)。

ジョージ・クラウセン《古い納屋の中》1908年、油彩・カンヴァス、91.6×76.6cm、
ディプロマ作品(図録、p. 132)。

 《古い納屋の中》は、農民の暮らしの一風景という要素がないでもないが、何よりも惹かれたのは、納屋の内部の木材で組み立てられた骨格そのものである。日本のかつての農家の住居も納屋もまた、自然木の形態を活かす形で建てられていた。そして、同じように、戸口から陽が差すと明るく輝く内部と暗い闇のままに残る内部とがくっきりと顕われるのだ。自然光の中では、光と闇とはともにくっきりとした存在としてあった。
 手前の闇、屋根までの細部を照らす戸口からの陽光、そしてふたたび奥の翳り。面白いことにそのどこにも人物が配されているのである。光の中でも、闇の中でも人は暮らすのであることを意味しているように。

スタナップ・フォーヴズ《港に面した窓辺》1910年、油彩・カンヴァス、112.5×86.7cm、
ディプロマ作品(図録、p. 136)。

 《港に面した窓辺》は、心落ち着いて眺められる良品だと思う。室内で手仕事をする女性像はフェルメールも多く描いているが、窓から差し込む光が絵画的な効果を強くもたらし、背後の物語を暗示する女性の仕草などというのはここにはない。ドラマ性、物語性というのは魅惑的であると同時に、刺激的でもあって、時には疲れることもあるのだ。
 この絵は、さりげなさが魅力だ。凡庸かもしれないが、窓から景色は見えるものだという私(たち)の感覚をそのまま受容してくれているようで好感を持ってしまう。そういう絵だ。

 伝統とか格式などというものにあまり縁がない私であっても、ロイヤル・アカデミーの作品群をとくに重苦しいなどと感じるわけではない。むしろ、ある種の断絶感があって、かえって気楽に鑑賞できたような気がする。そして、その作品群の中にいくらでもお気に入りを見つけられたのだった。


[1] 『ロイヤル・アカデミー展』(以下、『図録』)(東京新聞、2014年)。