かわたれどきの頁繰り

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『「ヴァロットン――冷たい炎の画家」展』 三菱一号館美術館

2014年08月30日 | 展覧会

【2014年8月29日】

 かつて見たことがあったたった1枚の版画のことを覚えてはいたが、作家の名前は失念していた。フェリックス・ヴァロットンという名前を聞いても思い出さなかった。そのヴァロットン展である。1枚の版画のことを思い出したにせよ、それ以外のことはまったく知らないのだから、「冷たい炎の画家」という惹句に気分を合せたわけではないが、期待するもしないもなく、じつに平静な気分で新幹線に乗ったのである。

 フェリックス・ヴァロットン、1865年スイス、ローザンヌ生れ。パリで絵を学び、画家となる。1925年没。

【左】《20歳の自画像》1885年、油彩・カンヴァス、70×55.2cm、ローザンヌ州立美術館 (図録 [1]、p. 60)。
【右】《帽子を持つフェリックス・ヤシンスキ》1887年、油彩・カンヴァス、65.5×60.5cm、ヘルシンキ、
アテネウム美術館 (図録、p. 64)。

 展示は、《20歳の自画像》から始まる。「慎重な視線と控えめな容貌」 (図録、p. 60) と解説にある。どことなく陰鬱な背景と相俟って、私にはなにか悲しみを湛えている表情に思えた。
 《20歳の自画像》とほぼ同じようなポーズを取る人物の肖像画《帽子を持つフェリックス・ヤシンスキ》にも、ほぼ同じような印象を受けたが、それは「悲しみ」とは微妙に違う。二人の人物の表情から共通して窺えるのは、どうも「抑制された感情」とでも呼べるもののようだ。幾つかの肖像画の中で、この2作品に惹かれたのは、感情を抑制しなければならない人生の事情にまで想念が拡がりそうな感覚が生まれるからではないか。もちろん、それは拡がらないままで終るのだが。

《休息》1911年、油彩・カンヴァス、88.9×116.9cm、シカゴ美術館 (図録、p. 72)。

 展示作品には女性の裸像が多かったが、《休息》はその中で最初の展示作品である。暗い背景に、淡々しい色彩で描かれる女性の半身裸像をとても美しいと思った。その後に展示されるであろう多くの女性像の美しさを期待させるに十分だったのだが、結果的に言えば、私の期待と微妙にずれが生じるのだった。それは、上の2作品の肖像画の魅力から生じた期待が、他の肖像画ではすっと外されていたことと同じなのかもしれない。

【左】《4つのトルソ》1916年、油彩・カンヴァス、92×72.5cm、ローザンヌ州立美術館 (図録、p. 72)。
【右】《臀部の習作》1884年頃、油彩・カンヴァス、38×46cm、個人蔵 (図録、p. 168)。

 《休息》のすぐあとに《4つのトルソ》が展示されていて、だいぶ後の展示の《臀部の習作》と併せて考えれば、ヴァロットンが女性の肢体の美を追究した画家だということ自体は問題がないだろう。それがシャヴァンヌ [2] やデルヴォーのように [3] ギリシャ的な造形美に向かうのか、もっと人間くさい女性美に向かうのか、そんなことを考えたのだが、そのどちらでもない。
 イザベル・カーンは図録に寄せた論文で、シャヴァンヌのギリシャ的アルカディアの絵画によく似たヴァロットンの《夏》という作品を紹介している(図録、p. 52)が、それ以外に類似や共通性を見出せない。たしかに、ヴァロットンの絵は、「我々は、彼の絵を見て「ここには有名なこれこれの流派の影響が見られる」などと考えたりは決してしない。……彼の絵は、『これはヴァロットンだ』としか形容しようがないものなのである」 (マリナ・デュクレの引用によるアンドレ・テリーヴの言葉。図録、p. 27)

【左】《正面から見た浴女、灰色の背景》1908年、油彩・カンヴァス、130.5×97cm、グラールス市立美術館
 (図録、p. 158)。

【右】《秋》1908年、油彩・カンヴァス、115×73cm、スイス、ミラボー・コレクション (図録、p. 160)。

 《正面から見た浴女、灰色の背景》は、素直に美しく女性が描かれた「美しい絵」だと受容できる。女性のつつましさと美しさを誇るような肢体、つまり、感情と造形のバランスがとてもいい作品だと私には感じられる。
 《秋》もまた、女性のポーズがいくぶんあざといが、女性の肢体の美しさは十分に過ぎる。

【左】《オウムと女性(部分)》1909-13年、油彩・カンヴァス、114×163cm、スイス、個人蔵 (図録、p. 155)。
【右】《赤い絨毯に横たわる裸婦(部分)》1909年、油彩・カンヴァス、73×100cm、ジュネーヴ、プティ・パレ美術館
(図録、p. 156)。

 女性の肢体の美しさ、艶めかしさという点では《オウムと女性》や《赤い絨毯に横たわる裸婦》が典型的な構図の絵だろう。もちろん、裸婦像としてはすばらしいのだが、このどちらの絵も、私には、女性の表情がことさらに目についてしまう。
 美しい肢体に目を取られ、表情に目を取られしているうちに、なんとなく鑑賞のリズムが狂ってしまうような感じなのだ。《休息》や《正面から見た浴女、灰色の背景》のような裸婦像が私の好みなのは、たぶんそういうことがないためだろう。どこかに固定されずに視野、視線を安心して画面全体に開放することができる。大げさに言えば、そういう鑑賞ができるということだ。

 《赤い絨毯に横たわる裸婦》の解説にこう書いてある。「完璧に化粧した女性は、なんの主題も物語性もなく、抽象化した背景の前に、ただ現実的なモデルとして横たわっている」(図録、p. 156)。そうなのだ。たとえば、《20歳の自画像》や《帽子を持つフェリックス・ヤシンスキ》の肖像画に「悲しみ」や「抑制された感情」を見るということは、そこからはじまる物語の契機を見ていることと思われるのだが、他の肖像画にはそのような感じがまったくない。ヴァロットンの絵を見る私は、絵を見た瞬間の感動から始まる物語を期待して、それがふっとかわされるという感じなのだ。《休息》という裸婦像の先に、私が期待する女性像とは微妙に異なる裸婦像が連なる、ということも同じ事情なのだろう。

【左】《室内情景》1900年、油彩・厚紙、55.5×30.5cm、パリ、オルセー美術館 (図録、p. 108)。
【中】《室内、戸棚を探る青い服の女性》1903年、油彩・カンヴァス、81×46cm、パリ、オルセー美術館
(図録、p. 109)。

【右】《赤い服を着た後姿の女性のいる室内》1903年、油彩・カンヴァス、93×71cm、チューリッヒ美術館
(図録、p. 113)。

 女性が出てきて物語性の強い絵の代表は、室内に一人で佇む、あるいは手仕事をしているという構図を描くフェルメールだろう。ヴァロットンの上の三作品もそのような構図には違いないものの、物語性から遠く、素っ気ない。
 それでは、物語性からもっとも遠いと考えられるハンマースホイの室内の絵と似ているかと言えば、それともまったく違う。ハンマースホイは人物に執着せず、誰もいない(家具もない)室内の絵が多いが、ヴァロットンには女性像が必須のようである。つまり、描かれる情景の中に配置された造形として必要な女性像と考えるべきなのだろうか。もしそうであれば、シャヴァンヌやデルヴォーと似ていなくもないが、ヴァロットンはヴァロットンにしか似ていないと言っておくのが無難なようだ。

《赤ピーマン》1915年、油彩・カンヴァス、46×55cm、ソロトゥルン美術館、デュビ・ミュラー財団 
(図録、p. 164)。

 ヴァロットンは、何でも描く。肖像画や裸婦像に加えて、静物画も風景画も描く。何の不思議もないけれども、画家は主題や対象にこだわりはないのだろうかと、やはり思ってしまう。ヴァロットンは、対象にのめり込むことがない。だから、心性において「冷たく」、画力において「炎」なのだと、展覧会の惹句に牽強付会したくなる。

 《赤ピーマン》の質感に驚く。静物画には、「なんの主題も物語性」もないからであろうか、ヴァロットンの静物画はどれもとてもいい。

《残照》1911年、油彩・カンヴァス、100×73cm、カンペール美術館 
(図録、p. 96)。

 ヴァロットンの風景画は、少し奇妙である。風景を描く画家が、どこからその風景を見ているのかといぶかってしまう絵が多い。空中の仮想的な位置から俯瞰しているような絵が多いのだ。
 そのような風景画の中で、《残照》だけは画家が地面に立って描いている構図になっている。もちろん、《残照》の良さは画家の立ち位置の問題ではない。構図も色合いもいい。どこか浮世絵の構図と色彩を思わせるものがある。
 赤い木の幹には驚いたが、寄生する蔦の緑や裸木との対比があることが赤い木肌を際立たせているようだ。背景の空のグラデーションもいい。しかし、これを風景画と呼んでいいのだろうか。そう思えるほど、構成的な絵である。

《くっきりと浮かび上がるスーアンの教会》1917年、油彩・カンヴァス、97×130cm、
ワシントン・ナショナル・ギャラリー (図録、p. 195)。

 スイス生れのヴァロットンは、第一次世界大戦にフランス兵として従軍しようとして叶わず、最前線に赴いたという。そうして描かれた絵の一つが《くっきりと浮かび上がるスーアンの教会》である。
 戦争を主題とする展示作品のどれもが、戦いの後の荒れた風景を描いている。《くっきりと浮かび上がるスーアンの教会》は、色の配置がことさらに美しい。手前の崩れた白壁の破片、赤い煉瓦壁、緑の草地、ほとんど黒色の木々、その中の青灰色の破壊された教会。ヴァロットンは、その現地で風景画を描かないということから考えて、この絵もまた画家の風景にたいする審級が美しく再構成したものだろう。

 ヴァロットンの絵を見終えても、印象がまとまらない。薄いヴェールの上からなぞるように絵を眺めた気分がある。対象を突き放しつつ、対象に接近する。そんな風にしか思えない画家の心性を窺いえない感じが残ったということである。


[1] 『ヴァロットン――冷たい炎の画家』図録(以下、『図録』)(三菱1号美術館、日本経済新聞社、2014年)。
[2] 『水辺のアルカディア――ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの神話世界』(「シャヴァンヌ展」図録(島根県立美術館、2014年)。
[3] 『ポール・デルヴォー展 ―夢をめぐる旅―』(「ポール・デルヴォー展 -夢をめぐる旅-」実行委員会、2012年) 。