かわたれどきの頁繰り

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【書評】ジャック・ブーヴレス(宮代康丈訳)『アナロジーの罠』(新書館、2003年)

2014年08月03日 | 読書

 ジャック・ブーヴレスの著作を読んだことはなかったが、名前はかろうじて知っていた。ジャック・デリダの対談集『言葉にのって』に、ブーヴレスとデリダがフランスの哲学教育についての報告書を共同で執筆したという記述 [1] があったことをなぜか覚えていたのだ。
 さらに、「フランス現代思想批判」という副題を持つ本書を読んでいる途中で、アラン・ソーカルとジャック・ブリクモンの『「知」の欺瞞』にもブーヴレスの名前が出ていたことを思い出した。『「知」の欺瞞』 [2] は、本書にとっては主題の出発点ともいうべき重要な本である。

 ことは「ソーカル事件」から始まる。本書の註にソーカル事件について簡明な説明が与えられている。アラン・ソーカル(ニューヨーク大学)と『「知」の欺瞞』の共著者となるジャック・ブリクモン(ルーヴァン大学)は、ともに理論(数理)物理学者である。

この事件は、偽作文学の伝統に棹差すいたずらから始まった。物理学者アラン・ソーカルは、一九九六年、いわゆるカルチュラル・スタディーズを扱うアメリカの雑誌「ソーシャル・テキスト」に、「境界を侵犯すること――量子重力の変形解釈学に向けて」と題する論文を投稿し、受理された。認識や政治の問題を扱うこのパロディー論文は、その手の世界や分野で当節流行の純正「ポストモダン的」スタイルで書かれている。引用や敷衍説明がふんだんに盛り込まれ、現在アメリカで名声を博し、絶大な影響力を持っている一部のフランス知識人の著作を読者が参照するようになっている。しかしそれと同時に、自然科学や認識論に関するあからさまな間違いやでたらめが見過ごせないほどあり、そこに著者の真の狙いはあらわれていたのである。その後、ソーカルは自分の論文がいんちきであったことを明らかにし、物理学者ジャン・ブリクモンと、パロディーを書く前にまとめていた教訓に富む材料を徹底的に活用して、本格的な著書『「知」の欺瞞』を出版した。 (p. 13)

 「ポストモダン的」な著作がいかにでたらめな科学的知識をベースとしてこの世に出回っているかを、かなり荒っぽく証明したソーカル事件は、当然のように、「ポストモダン的」著作を生業とする人びとに大きなショックを与えた。もちろん、人文系知識人からの反論も激しく、現代の新しい「サイエンス・ウォーズ」が起きた。この辺の事情は、ブラウンの『なぜ科学を語ってすれ違うのか』 [3] に詳しい。
  しかし、サイエンス・ウォーズがあるといっても、人文系知識人と科学者のきわめて非対称な闘いであることは注意を要する。まず、前提として、「ポストモダン的」著作が物理学や数学などの自然科学の知識を引用(ソーカル-ブリクモンによれば誤用、濫用)するものの、物理学者や数学者は「ポストモダン的」思想を引用するなどということはない。ソーカル事件や『「知」の欺瞞』の出版以降、日本の人文系雑誌にもこの話題は取り上げられ、なかには「物理学者は物理を知らない」という意味のことを書いていた論者もいたのだが、その当時、職業的に物理学者であった私のまわりでは、このサイエンス・ウォーズに関心を示す自然科学者を見ることはなかった。人文的文化と科学的文化の対立などというにはほど遠い、人文的著作界での論争のようにしか見えなかった。ソーカル事件や『「知」の欺瞞』によって大いに名誉を傷つけられたのは、「ポストモダン的」知識人であって、一方、彼らからの反論があっても自然科学の論文が批判されることはないので、自然科学者が傷ついたり怒ったりすることはなかった。

 あらためて『「知」の欺瞞』を書棚から引っ張り出してみると、いくつか付箋を貼っている箇所があった。その一つはノーム・チョムスキーの文を引用した箇所で、サイエンス・ウォーズに関してではないものの、自然科学と人文科学の世界の違いを語っているので、少し長いが書き出しておく。人文科学界のことは知らないが、自然科学の世界はこのようなものだと考えてよい。

 私は自分の研究活動の中で、いろんな分野に関わってきまし、数理言語学の仕事をしましたが、数学の本職の資格があるわけじゃない。数学は完全に独学だし、それもちゃんとやったというほどでもありません。それでも、何度も大学の数学のセミナーに呼ばれて数理言語学について話してきました。だれも私がこのテーマについて話す資格があるかとか聞きませんでしたよ。数学者は気にもしてません。彼らが知りたいのは私が話すことなのであって、私が数学の学位をもっているかとか、このテーマに関して進んだ講義を取ったかとか聞いて、私がしゃべる権利に文句をつけた人はいませんでした。こんなことは考えもしなかったでしょうね。知りたいのは、私が正しいか誤っているか、この問題は面白いのかどうか、もっとよいアプローチが可能かどうか、あくまで話の内容が議論になるのであって、私がそれを議論する権利じゃない。
 ところが、社会問題や、米国の外交政策、たとえばヴェトナムや中東に関する議論になると、こういうことが相も変わらず問題にされるんです、それもかなりの毒を含んでですね。話す資格について何回も異議を唱えられ、こういったテーマについて話していいだけの特別な教育を受けたのかと訊かれたたものです。私のように、プロの目から見て門外漢は、これらの問題については発言する資格がないと端から決めてかかっているんです。
 数学と政治学をくらべて見てください。歴然たるもんです。数学や物理では、みんなあなたが言うことに関心を持っています、あなたの資格にじゃない。ところが、社会的現実について発言するには、正しい資格が要るのです。あなたが普通受け入れられている考え方の枠からはずれればなおさらです。だいたい、分野の知的な中身が濃いほど、免状への関心が薄れ、内容についての関心が高まるといっていいでしょう。 (Chomsky, Noam. 1979. Language and responsibility. Based on conversations with Mitsou Ronat. pp. 6-7) (『「知」の欺瞞』 p. 16)

 サイエンス・ウォーズがあったとしても、いわば人文系の内部のことではなかったかと、私は思っていた。『「知」の欺瞞』で主として批判されたのはフランスのポストモダンの思想家たちの著作だったが、本書は、コレージュ・ド・フランス教授であるジャック・ブーヴレス(分析哲学、科学哲学)による人文系知識人の「科学」知識のアナロジー的濫用・誤用への批判である。

 「序」において『「知」の欺瞞』に触れて、次のように述べている。

 ソーカル事件の数ある功績のなかで一番のものは、人々の注意を、特別な関心の対象となるに値する二つの「リヒテンベルク的」なカテゴリーへと引き寄せたことである。一つ目のカテゴリーは、ソーカルやブリクモンのように、よく知っている事柄が論じられているがゆえに理解できない人々であり、もう一つは反対に、自分の知らない事柄が論じられているがゆえに理解できる人々である。ソーカルとブリクモンは、自分たちが基本的に習熟しているはずの数学や物理学の概念が、文学や哲学の文章では、控え目に言っても奇妙なかたちで用いられ、しかも論旨とまったく関係がなく、なんら好ましい効果を挙げていないことに驚いている。ところが、ソーカルとブリクモンに対立する論敵たちは、たいていの場合、数学や物理学についてはほとんど無知であるにもかかわらず、二人が理解しない事柄は実際にはきわめてよく理解できると主張している。言いかえると、ソーカルとブリクモンは、理解できるはずのことなのに理解できないと感じているのだが、その目の前には、自分たちが理解できるはずもないような事柄を理解している者たちがいるのだ。 (p. 13-4)

 自然科学の知識を自分の思想的著作に織り込む人文系知識人は、そのことを知悉していると自負するのだが、物理学者や数学者にはその内容が理解できないのである。人文系知識人は、世界の自然科学者が理解できない物理学や数学を駆使している、というわけである。私のささやかな経験で言えば、ジル・ドゥルーズの『差異と反復』 [4] を読んだとき、微分に関する記述に邪魔されてよく理解できないことがあって、結局、数学的記述の部分を無視すると理解しやすいということに気付いたのだった(ドゥルーズも『「知」の欺瞞』で批判されている)。
 私は哲学者や思想家に物理学や数学の知識を求めないので、さほど気にもしないで読み飛ばしていた。正直に言えば、彼らが自然科学に無知であっても私にどんな不利益があるわけではないし、彼らの学説で世界の物理学や数学が影響を受けるなどということはありえないと考えていた。間違った物理学(数学)を「理解」(言葉の正しい意味で)することは不可能なのだから、影響力などはないに等しい。『「知」の欺瞞』を読むまでは、そんなふうに思っていた。それに、数学的知識がどうであれ、ドゥルーズの思想の面白さは変わらないと思っていた。

 さて、本書の主たる批判対象は、クルト・ゲーデルの「不完全性定理」を「社会的・政治的システムの理論に応用」 (p. 35) したレジス・ドブレである。

 同じような困惑は、眩暈を誘うようなドブレの発言を読んでいるときにもわいてくる。例えば、次のようなものだ。「ゲーデルがこの理論の枠組みの中で定式化できるペアノ算術の無矛盾性の証明の不可能性を示して以来(一九三一年)、政治学者たちは、何故にレーニンをミイラにして国民共同休センターの霊廟に安置し、『偶然的』に同志となった者たちに展覧する必要があるか、理解する手段を持っていた」。私は、数学者ジャン=ミッシェル・カントールと同様に、この手の主張は『たわごと辞典』の次の版に載せられるべきではないかと思う。 (p. 36)

 ゲーデルの不完全性定理がセンセーショナルだったのは、いかなる形式的システムも、ある数学的命題が真であることを示す手続き全体を適切に表現できないがゆえに、数学的真理という概念を形式的証明可能性の概念で置き換えようとしても決して置き換えられない、ということを証明したからである。なんなら、客観的真理は形式的証明可能性に対していわば「超越」していると言ってもよい。またドブレは、おそらくそうした点に、不完全性の問題における論理学に固有の側面と宗教的な側面とに内的連関があるという自説の裏づけを見ているのだろう。しかし、実際には、ここで問われている超越という概念に宗教的なところはまったくなく、要するに形而上学的なところすらないのである。この概念が意味するのは、充分な表現力を持ったどの形式的システムにも、そのシステムが証明できない数学的真理(しかも証明できないだけでなく――幸運にもというか、ゲーデルの決定不可能命題は真なのだから――反駁もできない)が少なくとも一つは存在するということだけであり、通常の手段による決定可能性をことごとく超越した数学的真理があるということではもちろんないのである。 (p. 70)

 つまりゲーデルの発見によれば、真理と形式的証明可能性とを区別せざるを得ないのだから、もしゲーデルの定理を大胆に一般化しようとするなら、その一般化されたものが適用される分野でも真理と形式的証明可能性との区別に類するものが可能であるのかどうか、最低限そのことは問わなければならないだろう。もし区別できないのなら、ゲーデルが得た帰結を別の文脈にそのまま移し入れる、あるいはただのアナロジーとしてそうする場合でも、そうした試みになんの意味があるのか、あまりよくわからないのである。社会的・政治的システムにおける真理を証明可能性の概念に還元しょうとしたのかもしれないが、突際のところ、そうした証明可能性が社会的・政治的システムのいったいどこにあると言うのだろうか。確かに、論理学的システムにさえ不可能なことなら、きっと社会的・政治的システムにも不可能であり、まさしくそれが興味深いことなのだとは言えるかもしれない。しかし、もう一度繰り返すけれども、無分別な人間や誇大妄想狂は別として、社会的・政治的システムにそうした証明が可能だと言った人間がいまだかっていただろうか。 (p. 71)

 私がまだ現役だった頃の大学では新入生面接というのがあったが、一年に一人くらいは「ゲーデルの不完全性定理」を持ち出しては自分の不都合を糊塗しようとする学生がいた。物理学科なので、まもなく知ったかぶりのゲーデル話はしなくなるだろうと放っておいたが、ドブレは放っておけないと、ブーヴレスは考えたのである。ドブレは、もちろん『「知」の欺瞞』でも批判されている。

 フランスの知識人のなかには、ジョン・サールがデリダについて「滑稽と陳腐の往復」の技術と呼んだものと、見事に一致するような振舞いをしている者も多い。その典型的な例を示しているのがドブレであり、自分はゲーデルの定理を「単にメタファーあるいは同形的なものとして」〔邦訳『「知」の欺瞞』二三六頁を参照〕利用しているのだと認めてしまっている。ドブレによると、なんなら「メタファー的直観」(最低限の明確化すら不可能に近い類似性や同一性の直観という意味なのだろう)、もしくは「ゲーデルの定理へのメタファー的呼応」(いわば単なる概念的「共鳴」)と言ってもよいらしい。……「メタファー的」という語を使えば、ここでは何よりもまず過ちを赦してもらえないかと要求することができ、たいがいは本当に許してもらえるわけで、結局のところ、その過ちは過ちではなかったことになってしまうのである(「思考」と「比喩」という言葉は、明らかにここで、あらゆる脅威を追い払い、あらゆる批判を骨抜きにできる呪文として機能している)。 (p. 88-9)

 本書では、レジス・ドブレの間違いを批判するために、ゲーデルの不完全性定理の説明にページを費やしているが、完全性定理を引用、応用する際の問題点を次のように列挙している。なお、不完全性定理については、数学的に易しいわけではないが、ゲーデルの論文そのものも載せている岩波文庫の『不完全性定理』 [5] に詳しい解説がなされている。

(1)   ゲーデルの定理は、先に述べたように、完全に形式化されたシステムにしか当てはまらない。ところが社会的システムは、今のところわかっている限りで言うと、形式的システムはおろか、形式化可能なシステムとも類似しておらず、さらに付け加えるなら、幸いなことにおよそ似ても似つかぬまったくの別物である。このことだけでも、実際には、この定理を拡大適用できるかという問いへの完璧な答えになる。 (p. 105-6)

(2)   ゲーデルの決定不可能命題は、システムの内部で証明も反駁もできないが、それにもかかわらず真であり、ゲーデルが念を押しているように、この決定不可能命題が真であることは、メタ数学的な論証によって証明できる。ドイツの詩人ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーがゲーデルに棒げた詩にあるように、ミュンヒハウゼンの定理とゲーデルの定理の違いは、ミュンヒハウゼンは嘘つきだが、ゲーデルが述べていることは真だということである。とはいえ、真であるのは、算術の充分な部分を形式化できるような形式的システムには、決定不可能な命題が少なくとも一つは存在するということだけではない。決定不可能なゲーデル命題Gそれ自体が真であり、それゆえにこそ、この命題は興味深くなるのである。 (p. 106-7)

(3)   ゲーデルの定理に関する哲学的な議論において、たいていの場合、まったく性質の異なる二つの決定不可能性概念、つまり相対的決定不可能性と絶対的決定不可能性の二つが混同されるという惨憺たる傾向がある。ゲーデルで問題になるのは、常に相対的決定不可能性に限られる。つまり、ある形式的システムに関する、あるいは、なんらかの形式的システムの一つの階層に関する決定不可能性である。ゲーデルは、絶対的決定不可能性にはそれこそいかなる意味も与えておらず、不完全性定理も、絶対的に決定不可能な数学的命題が存在するかもしれないといった考えを後押しするようなものではまったくない。したがって、ゲーデルの帰結から、数学にさえ真でも偽でもない命題が存在するという結論はもちろん導けないし、真か偽かわからない命題が存在するという結論すら導いてはならないのである。  (p. 111)

(4)   ゲーデル命題は、その命題が関わるシステムのなかでは決定不可能であるが、それよりも強いシステムでならいつでも決定可能である。そうすると、形式的システムの階層構造が考えられるわけで、あるシステムのなかで、表現可能ではあるが決定することのできない命題も、その次のシステムでなら決定できるようになる。しかし、もちろんそのシステムにも決定不可能な命題が含まれているのである。果たして、同じようなことが社会的システムの理論の場合にもあり得るのか否か、ぜひともドブレの口から聞いてみたい。例えば、最初のシステムで决定不可能な命題が、次のシステムでは決定可能となり、以下そうした状況が続くといった社会的システムの階層構造を考えることはできるのだろうか。 (p. 112)

 ブーヴレスの批判は、ドブレだけに向かうわけではない。ドブレが著名であるがゆえに、擁護にまわるジャーナリズム、あるいはソーカル-ブリクモンの厳しい批判に同情して「ポストモダン」知識人の擁護にまわる思想家にも及んでいる。
 『「知」の欺瞞』や『なぜ科学を語ってすれ違うのか』を読んだ後では、本書で取り上げられた事例に驚くということはない。ソーカル事件後において、人文系知識人は多く「ポストモダン的」著作の擁護にまわって、振り向きもしない自然科学者に批判の矛先を向けているという印象しか私にはなかったのだが、フランスの哲学者による厳しい批判がきちんとなされている本書は、人文系思想の世界にとってはとても意味のあることではないかと思う。

 今村仁司は、『アルチュセール全哲学』で次のように述べている。ちなみに、ルイ・アルチュセールは『「知」の欺瞞』の批判対象ではない。どちらかと言えば、アルチュセールの弟子の世代が批判されている。

 歴史との科学革命と哲学革命との間に明白な関連がある。圧縮していえば、哲学革命は必ず科学革命の結果である。その逆はない。ギリシア数学の後にはプラトンの哲学が出現し、ガリレイの科学の後にデカルトの哲学が、ニュートンの科学の後にはカントの哲学が、数学論理学の後にフッサールの哲学が、結果として出現する。そしてマルクスの歴史字の後にはマルクス自身の唯物論哲学が出現する。どの哲学も性格は違うにしても必ず認識論を含んでいるが、それは科学的認識なしにはありえないことだ。
 ………
では、哲学と科学との本質的関係とはどういうことか。一方では、哲学は科学を哲学より下位におき、それの成果を政治的正当化の目的に利用するが、他方では、哲学は科学から論証手続きを学ぶ、つまり科学の合理性形式を受け取る。アルチュセールはこの関係を搾取的利用とよぶ。哲学は科学と現実的関係を結ばないで、科学のイメージを作り、そのイメージと関係する。これを彼は「哲学的関係」とよび、ギリシアにおける数学とプラトンとの「哲学的・搾取的関係」がその後のあらゆる時代の母型になったという。 [6]

  哲学における「科学の搾取的利用」は、まことに適切な「哲学的関係」ではないか。量子力学や相対性理論、ゲーデルの不確定性定理などという現代自然科学(トーマス・クーン流に言えば、ニュートン力学パラダイムを乗り越えた科学革命後の自然科学パラダイム)の「科学の搾取的利用」として新しい思想が生まれたのかどうか、私には分からない。ガリレイとデカルトのような関係が、ゲーデルとドブレの間にあるとは信じがたいが、それなら、ディラックとドゥルーズの関係は、ニュートンとカントの関係と似ているだろうか。
 明らかに20世紀の自然科学は、それ以前の科学と明白な認識論的断絶がある。私(たち)は新しい哲学を期待してもいいはずだ。それとも、私だけが新しい哲学に気付いていない、現代思想を新しい思想として理解できていないということなのだろうか。

 最後に、ブーヴレスの次のような率直な(切実な)感想を書き写しておく。

『「知」の欺瞞』を最後まで読み終えてみると、どうしても次のような疑問を抱いてしまう。なぜ、このように科学用語をでたらめに用いなければならなかったのか。そうすることで何か得るものがあったのか。また、思考というものは――まさしくこの思考というのが問題なのだが――、科学用語を使わないと、何か本質的なものが失われたのだろうか。  (p. 194-5)

 

[1] ジャック・デリダ(林好雄、森本和夫、本間邦雄訳)『言葉にのって』(筑摩書房、2001年)p. 45。
[2] アラン・ソーカル、ジャック・ブリクモン(田崎晴明、大野勝嗣、堀茂樹訳)『「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用』(以下、『「知」の欺瞞』)(岩波書店、2000年)。
[3] ジェームズ・ロバート・ブラウン(青木薫訳)『なぜ科学を語ってすれ違うのか――ソーカル事件を超えて』(みすず書房、2010年)。
[4] ジル・ドゥルーズ(財津理訳)『差異と反復 上・下』(河出書房新社、2007年)。
[5] ゲーデル(林晋、八杉満利子訳・解説)『不完全性定理』(岩波書店、2006年)。
[6] 今村仁司『アルチュセール全哲学』(講談社、2007年)p. 274-5。