かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『奈良美智全作品集 1984-2010』 (美術出版社、2011年)

2013年06月12日 | 鑑賞

 「奈良美智」という名前を知ったのはつい最近のことだ。現代アート(に限らず美術全般)に疎い私としては奈良美智というアーティストを知らないことそのものは何の不思議もないのだが。
 1年ほど前、仙台でも「脱原発デモ」が組織され、毎週金曜日に集会・デモが行われるようになった。それに参加する際に、何か適当なプラカードに使えそうなポスターがないかとネットで探した。たくさんの反原発ポスターがネット上で紹介されていて、そのなかで奈良美智の作品がひときわ目を引いたのである。

     
        
ネットからダウンロードした奈良美智の反原発ポスター。

 この少女の表情は、「怒り」だろうか、「憎しみ」だろうか、それとも「反抗」だろうか。しかも彼女の口元は犬や猫のようでもある。もしかしたら、彼女は生けるもの全てを内包しつつ(代表しつつ)「NO NUKES」を掲げているのではないか。反原発ポスターとしてじつにぴったりと私の気分に嵌ったのだった。なにしろ、「原子力」そのものは「反人間」であるばかりではなく、全生物への否定的反対物であり、「反自然」そのものに違いないのだから。


左:《No Nukes》 1998, Acrylic and colored pencil on paper, 36.0×22.5cm (第2巻、p. 119).
右:《Untitled》 1998, Colored pencil on paper, 29.5×21.0 cm (第2巻、p. 129).

 反原発ポスターとして上記の奈良美智の絵を認識していたが、この絵が描かれたのは1998年で、東京電力福島第1原子力発電所の炉心溶融事故が起きるずっと前である。もちろん、ずっと以前から反原発の思想も運動もあったのだが、主流はどちらかと言えば「反核」、つまり兵器としての原爆、水爆への反対運動であり、「原子力の平和利用」として原発を容認することが多かった。 
 上記の《No Nukes》のポスターと同じ時期に描かれた《Untitled》には「NO MORE NUKES」とあって、「NO MORE HIROSHIMA」を連想させる。反原発が反「原子力兵器」を内包ないしは前提とすることは論理的には当然なのだが。

 いずれにしても奈良美智の絵のメッセージ性の強さ、そしてその由来に強く惹かれたのである。


左:《Merry-Go-Round》 1987, Acrylic on canvas, 130.3×130.3 cm (第1巻、p. 55).
右:《雲の上のみんな People on the Cloud》  1989, Acrylic on canvas, 100.0×100.0cm (第1巻、p. 12).

 奈良美智の初期の作品は、子どもが持っている世界のヴァリエーション豊かなイメージ、それは現実と密接に繋がれたイメージと、想像力によって現実を越えてしまっているイメージとの混在であるようだ。
 松井みどりは、本書に『白い空間の中の子ども:大きなマイナー・アーティストとしての奈良美智』というアーティスト論を寄稿しており、「彼の芸術の重要性を逆説的に支える「マイナー性」の3つのカテゴリー」の一つとして「子どもの想像力の実践」を挙げている(第1巻、p. 333)
 子どもの想像力の実践は、《Merry-Go-Round》や《雲の上のみんな People on the Cloud》に描かれているような子どもの想世界が、《The Girl with the Knife in Her Hand》や《Abandoned Puppy》のようなきわめてシンプルな表象としての〈子ども〉像そのものへと集約され、抽象化されることによってなされているのだろう。

 それぞれの絵のメッセージはきわめて単純でわかりやすいように見えていながら、じつはかなり奥行きと広がりを有している。その絵の背後で折れ曲がりながら延長する世界があるようだ。このような「外延」は、たったひとりの姿に集約・単純化することによって獲得される想世界で、いわば、見る者への刺激、挑発として成立しているのだと思う。


左:《家へ帰ろう Nach Hause》 1990, Acrylic on canvas, 90.0×90.0 cm (第1巻、p. 14).
中:《The Girl with the Knife in Her Hand》 1991, Acrylic on canvas, 150.5×140.0 cm (第1巻、p. 15). Collection of Vicki and Kent Logan, fractional and promised gift to the San Francisco Museum of Modern Art, San Francisco, U.S.
右:《Abandoned Puppy》 1995, Acrylic on cotton mounted on canvas, 120.0×110.0 cm (第1巻、p. 19).

 上記の3枚の絵に連なる大量の作品によって奈良美智の画業は成り立っている。その画業について、松井みどりは「小文字のポップ」という概念を引用しつつきわめて適切な指摘をしている。

 〔ジョッシュ・〕クンは奈良を、パンクの衝動の源でもある「存在を認められないことの絶望」に表現を与えた現代のパンクロックのミュージシャンたちに例えて、彼の芸術を「誰にも見られることなぐ退屈すぎて何もかもどうでもよくなる気持ちの視覚的表現」と評した。 彼はまた、パンクですらもそのネットワークに組み込んでしまう厳格に整備された経済体制の中で、「燃え尽きることと消え去ることの間でバランスをとりながら」、「無名性のさなかで生き残っていく道」を暗示しているとも述べた。 ロックバンド、グリ一ン・ディが、物質的な世界の中で、その破壊を宣言するよりもその中で活動し続けるために言うべきことを言うという「小文字のポップ」の姿勢をとったように、奈良は彼の作品を美術館の中で展示し、グッズも販売することを選ぶことで、「抵抗と商売は互いに排除し合わない」ことを示した。 (第1巻、p. 345-6)

もし〔グレーユ・〕マ一カスの「小文字のポップ」や「無名性」の定義を芸術に当てはめるのならば、アーティストの作家性を主張する審美的な絵画ではなぐフルクサスやシチユアシオニス卜•インタ一ナショナルのようなパブリック・アクションを中心とする芸術運動か、ワイマール共和国時代のノイエ・ザハリヒカイトのような、凡庸な主題や挿絵などの大衆芸術の表現を歪曲的に取り入れて精神的社会的な問題に言及する――そこには奈良の90年代前半の絵画との親和性があつたのだが――具象表現が、該当しただろう。 (第1巻、p. 346

 「小文字のポップ」こそ現代の芸術が置かれている状況そのものの反映なのかも知れない。「大きな物語」や「大文字で語られる思想」が消費され尽くしてから久しい。「象徴交換と死」を書いたボードリヤールは、いまやポスト・ポストモダンの世界が「不確実なものになったのは、世界の等価物はどこにも存在しないからであり、世界は何ものとも交換されないからだ」(ジャン・ボードリヤール(塚原史訳)『不可能な交換』(紀伊國屋書店、2002年) p. 7) と述べるにいたっている。
 「不可能な交換」の世界で生き延び、発信していくこと。「無名性」を携えて大衆文化的表現方法を顕わにしつつ、「抵抗と商売」を両立させていくことが「小文字のポップ」の現代芸術におけるきわめて重要な価値に違いない。


左:《Untitled》 2000, Colored pencil on paper, 29.7×21.0 cm (第2巻、p. 163).
中:《Untitled》 2000, Colored pencil on paper, Size unknown  (第2巻、p. 163).
右:《Untitled》 2000, Colored pencil on paper, Size unknown  (第2巻、p. 163).

 「無名性」の「小文字のポップ」が持ちうるはっきりした特質は、奈良美智の絵に容易に強烈なメッセージ性を付与できることにある。メッセージ性の強いいくつかの作品を上に掲げたが、そのメッセージはきわめて率直かつ直裁に私(たち)に届く。
 かつて、「大文字の芸術」があたかも深遠なメッセージが表現されている(らしい)ことを主張する(装う)ことで、私のような凡庸な芸術の受容力しか持たない大衆に敬遠され、ときには忌避されてきたことと、奈良美智の芸術は良い対称をなしている。

 奈良美智の画業は、「子どもの想像力の実践」がいかに広大な世界を展開しうるかを示している。