かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

安冨歩  『幻影からの脱出――原発危機と東大話法を越えて』 (明石書店、2012年)

2012年11月27日 | 読書

               

 この本は、前著『原発危機と「東大話法」』を受けて、論の深化と拡張を図ったものだ。そう私は受けとったが、著者は謙虚に次のようにまとめている(のっけから「おわりに」からの引用で気が引けるが)。 

この本は、『原発危機と「東大話法」』に分量の関係で含められなかった部分(三〜五章)をもとにして、新たに書き加えたものです。この続編を書き上ければ、原発危機に関する私の考えを書き尽くせるかと思ったのですが、そうは問屋が卸しませんでした。この問題は、あまりに巨大で、深刻で、重大であって、戦後日本社会が抱える欺瞞と隠蔽とが、一挙に噴出している噴火口のようなものであって、到底、語り尽くせるような対象ではないことを思い知りました。 [p. 259]

 「東大話法」と題された第一章は、『原発危機と「東大話法」』でも批判を行った東京大学工学研究科システム量子工学専攻・大橋弘忠教授の「プルサーマル公開討論会に関する経緯について」という〈凄い文書〉を取りあげて批判している。なお、「システム量子工学専攻」という学域がよく分からない名称の学科の前身は「原子力工学科」である(同じ組織が学部向けには「学科」、大学院向けには「専攻」と名前を変える)。
 原子力工学を専攻とする学科は大学によっては原子核工学科などとも名付けられていたが、原子力工学を学んでも原発のお守りくらいしか将来がない(核融合はいまだ見通しが立たない)ので急激に学生の人気がなくなり、各大学は学生を惹きつけられそうな(つまり、原子力工学という実質をある程度隠せるような)学科名称に変えた。
 ちなみに、私が大学院修士課程まで学んだ学科は「原子核工学科」であるが、何度か名称を変えて、現在は「機械知能・航空学科、量子サイエンスコース」になっている。「量子」がかろうじて原子力に結びつきそうな雰囲気であるが、いまどき「量子力学」を前提、ないしは包含しない自然科学分野はほとんどないので、分野を特定するための名称とは考えにくい。どちらかといえば、嘘をつかずに、かつ「原子力工学」であることをあからさまに特定されたくないという気分(あえて、「意図」とは言わないけれど)が働いているのではないか、と疑っている。
 いずれにせよ、このような名称変更で本質的に何かが変わるなどはあり得ないので、学問の将来性がないということに対してきわめて敏感な学生に向けて、何らかの有効なアピールができるとは考えにくい。

 「東大話法」の典型としての大橋教授の文章の「不快」と、それを批判する著者の文章の「快」とがせめぎ合って、どうまとめようか戸惑ってしまうが、一つだけ例を挙げておこう。欺瞞性がきわめて明瞭な大橋教授を、著者は次のような評価する。

 東大関係者で、原子力を推進する地位にある人や、あるいは放射線の被害をことさらに小さく見せようとする人には、「東大話法」を使う人が圧倒的に多い、というのが拙著『原発危機と「東大話法」』で示したことでした。
 しかし、その後、気づいたことがありました。それは、彼らはこの話法がうまいのではなく、むしろ下手だ、ということです。私が彼らの異常な言葉遣いから、「東大話法」という言葉を思いついたのは、欺瞞と隠蔽とが露呈しているからです。なぜ露呈していたのかというと、下手なのでわかりやすかったからです。前著で私が取り上げたサンプルは、そういったわかりやすい例でした。
 そのなかでも、特に下手くそなのは、大橋弘忠東大教授です。 [p. 43]

 その大橋教授の東大話法例の一つを挙げれば、私にとってはこれである。 

客観的に見れば、この種の討論会は、推進派も反対派も動員をしてそれぞれの立場から質疑を行うのは当然であり、違和感はない。国会答弁でも何でも同じだろう。 [p. 56-7] 

 突っ込みどころ満載である。「たいがいの日本人は」などというと命題の前提の間違いになりそうなので少し厳密に言うと、私の周囲の世間(東大の1部を含む)では、このような言動については「語るに落ちるとはこのことだ」というのがだいたい普通の反応だと思う。
 原発事故後、この手のシンポジウム、意見聴取会で「やらせ」が次々暴露されて、九州電力、佐賀県知事などは「やらせ」を必死になって否定する。政府、とくに枝野経済産業相などは「あるまじきこと」と筋を立てて怒りを表明している(芝居かもしれないけど)というのに、身も蓋もなくあっさりと「やらせ」を確信的に証言しているのである。
 なおかつ、「やらせ」そのものは問題がない、普通のことだという。ここから引き出せる結論は、大橋教授が思っているらしい「私たちの住む社会のどこでも」ではなく、「大橋教授が関与する、あるいは見ている狭い時空」では「やらせ」が普通だと言うことに過ぎない。つまり、原子力関連の政治過程は「やらせ」で進められてきたということの一級の証言の価値がある。原子力、原発に関する政治的過程は民主的手続きを経ていない、ひたすら誤魔化してきたのだ、と大橋教授は正直に証言しているのである。

 もう一つ付け加えるなら、「国会答弁でも何でも同じだろう」というのはただの無知の発言である。国会は曲りなりにも政策を公表したうえで選挙を通じて選ばれた人間で構成されている。始めから賛否を明らかにした人間たちの議論の場である。任意の国民の意見を聞く、という(タテマエの)シンポジウムや意見聴取会とはまったく異なった社会制度に則っている。この程度の違いを知らないはずはないと思うのだが。

 著者がきちんと批判しているのに、その批判の尻馬に乗って大橋教授を批判するのは本意ではなかった。つい、腹に据えかねて書きすぎてしまったような気もする。政治権力システムの只中に位置しているとか、東大教授には絶対的「学的」権威が付属するとかの確信があるのかもしれないが、人間(それも「知」とか「理」を本性とすべき「学」の場の人間)がこれほどの矛盾、見え見えの欺瞞をかざしながら公的な場所で(恬として恥じることなく)発言できるという人間の心理の機制、行動の機制に興味が湧く。一般的な人間心理の反映なのか、それとも個性の反映なのか、行動心理学(それとも精神病理学?)的な解説があれば、行動指針として役に立つかもしれない。 

 どうしても「原発批判」、「東大話法批判」の直接的な文言に目が行ってしまうが、この本の面白さはそうした主題を議論するために援用される「知」の部分にもある。たとえば、「始めに」で語られる内藤湖南に端を発する歴史観(私はそれを与那覇潤の『中国化する日本』 (文藝春秋、2011年)で初めて知った)や、ウィトゲンシュタインやポラニーを引いての認識の問題、ウィーナーのサイバネティックスにおけるフィードバックの意味、そしてフィードバックと民主主義の理路、こういった話題が大変興味深かった。

 第一章からもう一つ極めて重要だと思われる一節を引用しておく。 

そもそも、こういった七面倒臭い法律や政令の議論以前に彼らは、 

「緊急事態宣言」を「予防的措置」として発する 

という事態そのものが、奇妙であることに、気づくべきでした。
 このような欺瞞的言語が、この決定的な場面で用いられたことは、その後の言語の歪みの発生に大きな影響を与えたと、私は思います。
  ………
 ここから、福島第一原発事故を巡る言葉は、歪みに歪んでいき、今日に至るまで、正されることがありません。かくして日本社会は、事実に直面して反応する、ということができないままでいます。 [p. 85-6]

 言葉遊びとしても程度が悪い。私たちが見ている政治の世界の言語はこういうものなのだ。最大の不幸は、言語が言語の態をなしていないことなのだ。「予防的措置」を講じることができれば、それは「緊急事態」ではない。「予防的措置」を講じることができれば、原発事故は起きてはいない。「予防的措置」を講じることができれば、一六万人に及ぶ人々が福島から避難する事態は生じていないはずだ。

 順序が逆になったが、原発事故についての著者の強い思いをあらためて「はじめに」から引用しておく。

 私が福島第一原子力発電所事故をカタストロフだと考えるのは、このためです。数限りない人々の命と共に、我々が先祖から受け継いだ美しい国土という宝を、放射能で汚染してしまうなど、許されることではありません。このような愚行を犯した人々を、私は憎悪します。そして、それを隠蔽し、たいしたことはない、などと言う人々を、心の底から軽蔑します。そんなことをしていれば、私たちは罰があたって地獄に堕ちるでしょう。
 地球環境問題、核による最終戦争の可能性、原発事故および放射性廃物による地球の破壊、人口爆発、食料・水不足、民族紛争、テロ戦争などといった、現代の私たちが直面しているさまざまの困難は、近代文明が失敗したから起きているのではなく、成功したから起きていることです。それはつまり、近代的枠組みそのものが生み出した困難だ、ということであり、私たちは枠組みそのものを発展させる必要に迫られています。 [p. 9] 

 「第二章 『原子力安全の論理』の自壊」は、原発をめぐる欺瞞言語の批判を深化させたもので、元原子力安全委員会・委員長佐藤一男の『改定 原子力安全の論理』(日刊工業新聞社)を批判的に取りあげている。佐藤の文言を引用した部分(結論に近い部分)を挙げておく。 

幸か不幸か、原子炉の事故は、経験則だけで十分と言えるほどには多くなかったし、も多くなることは許されないだろう。したがって、将来あるいは起こるかも知れない無数の種類の事故に対して、万全の対策を講ずるには、過去の苦い経験に学ぶことはもちろんとして、それにとどまらず、その経験を踏まえて未経験の領域へ私たちの思考を延ばして行くこと、すなわち「演繹」が必要になるのである。(一〇一頁)
    ………
このような演繹を正しく行なって、誤りない結論に到達するためには、さまざまな現象を支配している科学法則を十分理解しなければならないが、同時に、思考の展開が誤りなくできることを保証するだけの、確固たる論理と方法論、あえて言えば「哲学」が必要になる。これがこの本の主題である「安全の論理」にほかならない。(一〇一頁)

このような「安全の論理」は、到底、科学たり得ません。前章で論じたように、フィードバックの効かないものを、人間は改善することはおろか、安定して運営することもできないのです。「演繹」による「安全」という論理は、組み合わせ爆発と非線形性という壁に阻まれて、成立しえないのです。このような「原子力安全の論に」によって運営されている原発は、まさに幻影の城にほかならないのです。 [p. 104-5]

 福島第1原発の炉心溶融という考えられるかぎりでの最悪事故が起きたことで、原子力に関わる学者諸氏の「演繹」は役に立たなかったし、「哲学」(あればのことだが)が破綻したのは言うまでもない。2011年3月12日以降、新しい「演繹」方法、新しい「哲学」を確立したという話は聞かない(不可能には違いないが)。であれば、元原子力安全委員長佐藤一男の〈権威〉ある理論によって、原子炉は全て停止、廃止するのが筋である。

 第三章と第四章は、前著や第一、二章とは趣きが異なる。日本における原発建設の政治的背景としての「田中(角栄)主義」、政治の世界における欺瞞言語の生成に関する歴史的背景としての第一次世界大戦の敗戦処理以降の歴史が論じられている。理論の領野、パースペクティヴの拡大が図られているのである。

 日本の人的構成を「体制派」、「非体制派」と捉えなおしたうえで、その「非体制派」を取りこむという田中角栄の政治戦略(選挙戦略)上に「非体制派」である地方(農漁村)へ中央からの資金を伴って原発が建設されていく。ただし、田中角栄が日本の原子力政策推進の主要な政治家であったわけではない(田中の主眼は、資金を地方に送り出す方法にあったと思われる)。
 アメリカ一辺倒であった官僚を主とする体制派に対して、そのような国内の権力構造の変革に力を注ぐ田中(派)は、「アメリカ依存からの離脱を図る政策を持っていた」という。 アメリカに対抗する意図をもって、中国に近づいた田中は「軍国主義復活のために使う金はない」と断言する [p. 158] ことで、周恩来の信頼を得て日中国交正常化に成功する。

 当然のことながら「田中主義」は終焉を迎えることになるが、現在、小沢一郎は「田中主義」の後継者である。両者とも「体制派」から疎まれた、あるいは疎まれつつあるという点では相似形である。
 最近、アメリカの政治的意図に日本の「体制派」は逆らえない、逆らえば排除されることになる、そのように日本の戦後史は進んできた、という歴史理解が、孫崎亨の著作『戦後史の正体』を通じて広く信じられているようだ(じつは私はまだ読んでいないのだが、その蓋然性は極めて高いと思っている)。本書の記述においても、「田中主義」から「小泉主義」へと進む言及は、私たちの日米関係理解と符合しているようで説得力がある(アメリカの振る舞いに関連して述べられたチェ・ゲバラに関する記述が個人的には興味深かった)。

 第四章は「なぜ世界は発狂したのか」という刺激的なタイトルで、政治言説の欺瞞をめぐる現代世界史が語られる。現代世界の発狂は、第一次世界大戦の戦後処理をめぐって始まる、という。 

 大戦の終盤に差し掛かると、ドイツの敗北は明らかでしたが、それでも戦争は続いていました。 そのときアメリカのジョージ・クリールという人物が、穏やかな講和条約を提示すれば、ドイツは降伏するだろうと考えて、懲罰的な措置を含まない 一四箇条の案を作成しました。ウィルソン大統領はこれを採用し、「領土の併合も、賠償金の徴収も、懲罰的措置も」一切含まれない、と力説しました。この提示を受けてドイツの体制が崩壊し、平和が訪れました。
 ところがヴェルサイユで締結された講和条約は、領土の併合も、賠償金の徴収も、懲罰的措置も、全て揃ったものでした。とくに賠償金は、最初から絶対に払えないことが明らかなほどの常識はずれの金額でした。これを戦勝国はドイツに押し付けたのです。その上、賠償金の支払いが滞れば、戦勝国の組織する賠償委員会が、ドイツの経済の中枢を完全に握る仕組みになっていました。 [p. 172]

 アメリカ(大統領)による決定的な欺瞞の直接的な結果として、敗戦国ドイツにヒトラーを生みだす素地を作り出したばかりでなく、第一次世界大戦以降の世界はあたかもその欺瞞に準拠するかのように進んで行く。

 結局のところこれは、世界が妄想で構成される、ということです。妄想の世界に、倫理など存在しません。存在するのは「見せかけの倫理」だけです。ウィルソンの一四箇条を提示しておいて、ヴェルサイユ条約を強要しておきながら、両者が全く矛盾しない、などと言って正当化するという行為は、まさしく「見せかけの倫理」の巨大な事例です。 [p. 182] 

 日本における「見せかけの倫理」、欺瞞の正義の典型的で深刻な例は「靖国神社」、「愛国心」をめぐってなされる。 

 戦死者の霊が、靖国神社に祭られ、神となり、天皇の拝礼を受ける立場に立つという物語は、この「悲しみ」という感情を抑制する上で非常に効果的でした。これは死地に赴く兵士を鼓舞するばかりか、遺族が、愛する者の死を、喜びを以って認識するという倒錯を生じさせることで、体制の動揺を抑制できるからです。哲学者の高橋哲哉さんはこのような効果を、「感情の錬金術」と呼びました。
 しかし遺族が、愛する者の死という事態に直面し、その時に湧き上がる「悲しみ」という自然な感情を抑圧し、それに「喜び」という歪んだ名を与えることは、非常に危険なことです。なぜなら、愛する者の死を受け止め、深い悲しみから立ち上がるという、治癒の過程が停止されるからです。
 とはいえ、愛する者の死を悲しむという、人間に普遍的な感情が、靖国神社のお陰で消えてなくなるわけではありません。そんなことは、人間という哺乳類の性質からして、あり得ないことなのです。遺族にできることは、悲しみを抑えこんで、感じないフリをすることだけです。
 このフリによって自分自身を騙すことは、心の奥底に深い傷を付けることになります。その深い傷から沸き上がる疼きは、靖国精神の観点からすると「弱さ」にほかなりません。それゆえ遺族は、自らの「弱さ」に怯え、恥じ入り、ますます靖国の物語に依存せざるを得なくなります。この悪循環に「愛国心」という名称を与え、賞賛することで「靖国精神」は完成します。 [p. 194-5]

 現在の日本で「愛国心」という言葉で語られるいかなる言説も胡散くさいと感じるのは正しい歴史認識に基づいている、ということだ。「愛する者の死を悲しむという、人間に普遍的な感情」に欺瞞の感情の置き換えをおこなう、時には暴力的政治権力を使って行なう、というのが犯罪でなくて何であろう。 

 日本と世界の現代史的展望を獲得すれば、この世界の事象のことごとく(少し大げさかもしれないが)が俎上にあげられる。ヒトラーからスペイン内戦、そして前衛芸術 [p. 185] 。総力戦としての現代の戦争とテロ・ゲリラ戦争 [p. 201]。「ヴェルサイユ条約」と「子どもの虐待」と「組織マネジメント」と「原発」 [p. 184]。読売新聞の原発推進社説 [p. 201]。「妄想の力」とアポロ11号 [p. 207]。奇を衒っているわけではない。これらの話題がきちんとした理路をもって語られていることを確かめて欲しい。加えて、「本書の議論は、このままやり続けると、果てしなく行ってしまいそうです 」 [p. 213] と著者が語るほど、さらに話題が展開しそうな気配がするのである。

 最後に長い終章「結論―脱出口を求めて」が語られる。著者がまず1番にあげるのは「子ども」である。

 私が最も大切だと思うことは、子どもの利益を最大限に考える、ということです。すでに論じたようこ、子どもは、現在のところ全ての政治的過程から排除されています。その「子ども」を中心に考えることです。
 なぜなら、現代日本社会で最も欠乏しているのが子どもであり、彼らを守り、その創造性を伸ばすことが、社会全体にとつて何よりも重要だからです。それ以上に、子どもこそは我々の社会の将来であり、子どもこそは我々の創造性の源です。 [p. 215]

 想像を越える被害を生みだす原発を未来に残すことなど論外である。ましてや10万年のスケールで管理せざるを得ない放射性物質を生みだしてしまって未来の子どもたちに押しつけざるを得ないげんざいのわたしたちは「これを不道徳と言わずして、何を不道徳と言うのでしょうか」[p. 222]

 著者は、二つの「理念の戦略」と呼ぶべきことを提唱している。一つは森嶋通夫による「日本という国が、日本の人々と外国の人々とに、どのように描かれるかに、国防の主戦場を設定し、そのイメージを改善することに、不断の努力を重ねる」 [p. 222] という「ソフトウェア防衛」である。そのような例として、反日の嵐が吹きまくる中国・杭州市で観客席に「ARIGATO 謝謝 CHINA」という横断幕を掲げて深くお辞儀をした「なでしこジャパン」、四川地震での救援活動に従事した日本救助隊の死者に対する敬虔な黙祷、などが与えた感動と信頼をあげている。
 もう一つの「理念の戦略」は、「平和で美しい国家群(Peace, Rich and Beautiful Countries : PRBCs)」構想である [p. 243]。日本、スイス、オーストリア、デンマーク、カナダなどを中心とする連盟で、共通項は「政治的・軍事的に「平和」を重視しており、治安がよく、経済的に豊かで国土が美しい」ということ。
 PRBCs参加国は、ソフトウェア防衛を推進し、新しい発展のあり方を探っていく、というのである。 

 PRBCsは、軍事同盟ではないのです。経済同盟でもないのです。理念の同盟であり、思想の同盟であり、生活のあり方の同盟です。この点を明らかにすれば、アメリカも反対する筋合いはないでしょう。既に述べたように、アメリカは今後、「モンロー主義」へと回帰せざるを得ませんので、むしろ日本がこのような形の、非軍事的な安定化機能を果たすことを、少なくとも長期的には歓迎すると私は思います。  [p. 248-9]

 理念を国家戦略にするという考えは、前述の与那覇潤も語っている。

「憲法九条はアメリカの押しつけか」とかいう議論をぐだぐだやっているヒマがあったら、「いかにして憲法九条を中国に押しつけるか」を考えるのが、真の意味での憲法改正ではないか、と私は思います。
 わが国の憲法の理念からして、こういうことはよろしくない。お宅もかつては儒教の国だったはずですが、その普遍主義は、道徳精神はどうしましたか。今や中華はわが国の方に移ったという理解でよろしいか――こういう競争の結果、たとえば東アジア共同体のビジョンはやはり中国ではなく日本の憲法をべースに、というシナリオがありえないものでしょうか。 (与那覇潤『中国化する日本』  p. 291)

 プラグマティズムの伝統のなかで培われたアメリカ的リベラリズムは、一方でリアルポリティックス、パワーポリティックスを許容してきた。そのようなプラグマティックなリベラリズムに席巻された日本で、理念を語ることは久しく「青臭い」とか「非現実的」と鼻でせせら笑われてきた。その非難の多くは、語るべき理念を持たない人々によってであるが。それは「大きな物語」が失われた70年代以降に顕著であった。私もまた、避けがたくその強い影響下にあったと言わざるをえない。
 しかし、安冨歩にせよ、与那覇潤にせよ、国家戦略、社会構築の戦略として「理念の戦略」を理路の中から立ち上げていて、私にとっては新鮮である。今しも、衆議院選挙を目前にして小党乱立している様子は、政治の世界には人々が集結するにふさわしい新しい理念が生まれていないことを明示している。あげくの果てに、「政策なんか必要ない。役人を動かす力があればよい」などと演説する右翼新党リーダーがいて、その「人を支配する力」を「社会を変える力」と180度反対に理解する一定の大衆がいる以上、日本の政治の混迷と危機が早急に終息するようには見えない。
 このような時代に、「理念の戦略」を語りうる才能は貴重である。もう少し大げさに言えば、しばらく前に「大きな物語の時代は終わった」のは確かだが、人は新しい「大きな物語」を語り始めてもいいのだ、と思うし、そうする必要がある、とも思うのだ。理念は理念性によって計られるべきで、実現性だとか現実性などによって計られるべきではない。逆である。将来に望む事象の実現性は、理念によって計られるべきである。少なくともそのような論理の中で生きるという覚悟こそ必須なのではないか、と思う。 

 「終章」の最後として、福島原発事故による放射能汚染が惹起し、世間に毒ガスのように溢れている「風評被害」という考えを批判する一文を引用しておく。

 ブランドというものは、そもそもが「風評」でできています。「日本」というブランドも、先人の努力によって形成されたよい風評でできていました。ところが、福島第一原発の事故によって、その大切なブランドに放射能がばらまかれたのです。そうすると、何をどう言っても、ブランドという風評は、地に落ちてしまいます。
 人々は、風評被害という概念を

 風評によって受ける被害

と認識しています。しかしこれは、誤った認識です。風評被害というのは、

ブランドというよい風評が受ける被害

のことなのです。現代経済の利益の源泉は「ブランド」という風評ですから、その風評が被害を受けて落ちぶれれば、いくら「風評被害だ」と叫んだところで無駄です。叫べば叫ぶほど、悪い風評が広まるばかりです。 [p. 251-3]

 ボードリヤールに始まって(ベンヤミンまで遡ってもいいとは思うが)少なくともポスト・モダン以降の論者たちにとって、現代資本主義が記号の消費、ブランドの消費であることはほとんど常識のはずである。「風評被害」という言葉を多用するのは政治家以外ではマスコミ・ジャーナリストであるが、彼らのほとんどは日本の大学の文系出身者であると思われるが、ポスト・モダン以降の社会分析などというのは「学」の埒外であったのであろうか。もちろん、日本の大学が卒業生に与えたはずの「知」の喪失(初めからそんなものはなかったのか)の不思議は、これに止まらないが。

 なお、この本の巻末には「附論―放射能の何が嫌なのか」が加えられている。原子核の基礎的な知識から、放射線被曝による人体の影響まで記述されている。多くの読者には貴重な知見であろうし、理学に属する領域でも誠実に向き合うという著者の姿勢は貴重である。ただし、私は斜め読みしかしていない。大学で原子力工学を専攻し、職業として物理学を選んだ身にはもともとカバーしておくべき知見だったのである。