城郭 長谷川博美 基本記録

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驚異 宇陀松山城のビイスタ論

2022-06-11 12:16:58 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、

驚異の宇陀松山城のビイスタ論

 

 

◆一般様

いやいや長谷川先生の『城郭ビイスタ論』全国の

学芸員、研究家、有識層、を中心に大変な話題に

なっています。この城郭理論は戦前戦後を通して

も日本最高峰の城郭研究理論と最近話題沸騰です!

 

◆長谷川

大袈裟過分の御称賛は控え下さい。私は無職の

日陰者にして人生の裏街道を行く孤独な研究家

です。当投稿も学術に関するストイックなのも

で営利利潤を目的にした内容で全くありません。

 

◆反論者

長谷川の『城郭ビイスタ論』など絶対認めんぞ!

そんな城郭ビイスタ動画なんぞ絶対見てならん!

 

◆質問者

本能寺の変後、秀吉政権樹立後、近江佐和山主

だった、堀久秀政の実弟の名前は何と言う人?

 

◆多賀貞種をウッイッキペデイアより引用

永禄8年(1565年)、堀秀重の次男として誕生。

近江国高島郡(現在の滋賀県高島市)の国人

多賀貞能の婿養子となるが、天正10年(1582年

本能寺の変に際して明智光秀に与したため改易

となり、兄・秀政の家臣となり、8,000石を領した。

兄の留守中に長く佐和山城の城代を務めた。

秀政の死後、豊臣秀長豊臣秀吉に仕え、小牧・

長久手の戦い小田原征伐文禄・慶長の役など

に従軍。大和神楽岡で2万石を領すが、関ヶ原の

戦いで西軍に属し、大津城攻めに加わったため、

再び改易された。甥の堀秀治を頼ったものの、

慶長15年(1610年)、忠俊の代に堀氏も改易され、

再び浪人となる。慶長20年(1615年)、大坂の陣

が起こると、前田氏に属して戦功を立て、前田利常

に6,000石で召し抱えられた。元和2年(1616年

11月に死去。

 

◆質問者

天正11年1583年賤ケ岳合戦において貞種の実兄

堀秀政の陣である東野山陣城にはビイスタ工法

が存在しますか?

 

◆長谷川

存在します。貞種の兄、堀久太郎秀政の東野山

城にも見事な扇型を呈する縄張が読取れますよ。

 

◆質問者

大和神楽岡は何処城ですかビイスタ工法あります?

 

◆長谷川

大和宇陀松山城です。多賀氏の時代云々は別とし

て古い歴史ある宇陀松山城のビイスタ工法を検討

を試みたいと思います。事前に、お断りしますが

今回の私のビイスタ工法の検討は楼閣建築に関し

言及したものではなくあくまで地取りや土木工事

に関する縄張構造をビイスタ工法に照らし合わせ

試みたもので誤解のない様お願いを申し上げます。

と同時に奈良県宇陀市様益々観光隆盛されます事

も含めて心より祈念の意味も含めて投稿致します。

◆長谷川

東から均整取れたクサビ型ビイスタ工法に圧倒

されます。天守郭の東方面には、二の丸、大門、

大御殿などの地名が並び宇陀松山城の重要地点

であった事が偲ばれ、それにしても城郭中心を

貫く中心軸線の配置の見事な整合性や配置に驚

きます。周囲の横堀堀切の配置等も絶妙な配置。

◆長谷川

次に西の雀門方面からのビイスタ工法も見事

整合性ある縄張です。御加番、雀門、御定番

の配置更に奥にある本丸そして天守郭の見栄

をも意識した工夫つまり『城郭ビイスタ工法』

は見事な縄張の栄えや城郭として見栄の考慮。

▼典型的なクサビ型ビイスタ工法の一例と言えます。

◆長谷川

高度な幾何学測量縄張を用いた相対型ビイスタ

工法も読み取れます。また天守郭の縄張も凡そ

読取れます。

◆一般様

チョツト待って下さい!こんな素晴らしい城郭

理論を私は半世紀以上目にも耳にもした事ない!

 

◆長谷川

この相対型縄張ビイスタは何も特異な類例では

ありません。織豊時代の「豊」の時代を主役た

る羽柴秀吉は北近江小谷城城主なども歴任して

数多くの織豊系武将とも関係する歴史の著名人

です。北近江小谷城出丸にも相対型のビイスタ

を縄張を持っ優れた城郭遺跡は現実に存在する。

▼北近江小谷城出丸縄張図 ブログ著者本人

▼北近江小谷城出丸縄張図 相対型ビイスタ工法腺

◆一般様

チョト待って下さいよ!こなんな進歩した城郭理論

が日本国に実際に存在するんですが?全く衝撃です!

 

▼宇陀松山城 西からの扇状ビイスタ工法

◆質問者

連続竪堀群の配置や、城の中芯地点、つまり

中央ビイスタは何処にあるのか御教示下さい。

◆長谷川

宇陀松山城全域を統括する中央ビイスタ点は天守郭

に存在すると思われます。この地点から全山を統括。

▲上記中央ビイスタの中心点「A」とは下図の

様な要領で位置決めされていると思われます。

◆質問者

宇陀松山城本丸に礎石配列などの作事とは別に

城郭縄張に関わる中央ビイスタ存在しましたか?

◆長谷川

礎石配列とは別の縄張に関する中央放射型の城郭

縄張は存在したと思います。礎石配列と城郭縄張

作事奉行と普請奉行の全く分野の異なる担当者が

設計している事を安土城天主台礎石や羽柴秀保の

陣城から皆様再認識を是非ともお願い申しげます。

▼近江 織田信長 

安土城天主台 礎石配置と礎石配置「中央放射型」

 

▼肥前名護屋 文禄慶長役 羽柴秀保 陣城

◆質問者

連続竪堀の配列の基準のビイスタを教示ください。

 

◆長谷川

連続竪堀群の配置は天守郭の北に青線の放射状

のビイスタ工法に従い周到に配置されています。

 

◆対談者

ううん、ビイスタ論とは日本城郭研究史において

見見落とされていた最重要の縄張術の根幹原則!

 

◆質問者

他の場所にもビイスタ工法は存在するのでしょうか?

 

◆長谷川

思いもよらぬ場所にも城郭ビイスタ工法は存在します。

どこから宇陀松山城「秋山城」を見ても美しく見える

多角的多視野的な見栄えのする工夫がされていた事か

と私は思います。▼南から見た宇陀松山城のビイスタ工法

◆長谷川

諸所の郭でももそれぞれの工夫したビイスタ工法を

施工したと私は考えております。

◆質問者

ウイッキペデイアより

宇陀松山城の履歴を再度ご教示ください。

 

宇陀松山城(うだまつやまじょう)は、大和国宇陀郡

(現在の奈良県宇陀市)にあった日本の城。平成18年

(2006年)に国の史跡に指定されている。別名は秋山城

(あきやまじょう)や神楽岡城(かぐらおかじょう)

 

宇陀松山城は宇陀郡を領分する有力国人宇陀三将(秋山氏

、芳野氏、沢氏)の一人、秋山氏が居城として古城山に山城

を築いたのに始まる。築城時期についてはわかっていないが

南北朝時代には構えられていたと思われる。また、城名は

秋山氏が居城としていた頃は松山城とは呼ばれず、秋山城と

呼ばれていた。天正13年(1585年)、豊臣秀長大和郡山

入部に伴い秋山氏は宇陀から退去した。以後、伊藤義之

加藤光泰羽田正親多賀秀種らの居城となり、改修が行

われ近世城郭へと移行した。この間の大規模な改修により

、宇陀松山城が大和郡山城高取城とともに大和国支配の

要として豊臣政権に認識されていたことが窺える。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて多賀秀種は

西軍に属したため改易され、福島正則の弟福島高晴が入城

した。 高晴は、豊臣政権下の大名の改修に加えてさらに

大規模な改修を行った。近年の発掘調査により、本丸御殿

をはじめとした礎石建物や大規模な石垣、瓦・陶磁器類

などが出土し、当時の大改修の様子が明らかになってき

ている。これらの大名の大改修を機に、城名が松山城と

呼ばれるようになったと考えられる。元和元年(1615年)、

大坂夏の陣において豊臣方に内通したとして、高晴は改易

され城も小堀遠州らによって破却され廃城となった。破却

の際の小堀遠州の書状が現存しており、城割(城を壊すこと)

の内容が把握できる貴重な事例として注目される。

 


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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2022-06-08 17:46:04
一般者です。こんなスゴイ内容の城ブログ初めてです。
返信する
Unknown (長谷川博美)
2022-06-09 00:35:39
声援のコメントに感謝致します。
返信する

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