城郭の画期 山科本願寺城 近江安土城
江戸城 大坂城
◆対談者様
一番問題な事は日本国に城郭
研究家と城郭愛好家が数多く
存在するも明治大正昭和平成
に至るまで城郭測量基礎要諦
城郭ビイスタ論を知らなかっ
た事にあります。最も重要な
る城郭の必須提要でありなが
ら城郭の幾何学測量について
日本全国民が知らなかった事
にあり日本城郭研究史の盲点
とも言える重要なる理論です。
▼山科本願寺城 重複ビイスタ
素晴らしい放射状グリット腺!
これは天文10年の傑作城郭遺跡
▼山科本願寺城
中央測量腺 中央ビイスタ工法
◆安土城天主台 中央ビイスタ工法
◆批判派
如何なる城郭書籍にも城郭の
幾何学について記載がない事
◆長谷川
厳密には幕末まで日本国の城
に測量が完備されていた事を
述べた若き学者が獄死した事
吉田松陰が佐久間象山に送付
した書簡に日本の城には規矩
が備わりと城が測量によつて
形成されていると言う文言が
顧みられれず長年に忘れ去ら
ていた事にあります。
◆質問者
日本国の城郭は放射状測量に
より形成されたる物と言う図
書はあります?
▼江戸城 重複ビイスタ工法
◆長谷川
享保18年『量地指南』に残る
これ城郭測量の規範基本です。
◆長谷川
複数の放射測量腺を用いて城郭
を測量して行く、失われた日本
の城郭の測量技術と言えます。
私のビイスタ一覧表で言います
とW複数型のビイスタ工法です。
◆質問者
この城郭の基本ビイスタ測量は
山科本願寺城にもあったのか?
◆長谷川
山科本願寺の東西にWビイスタ
が読み取れ、つまり山科本願寺
城は文明10年(1478年から造営
され、約6年間で建設されたとさ
れる真宗教団中興の蓮如の時代
に既に高度な築城測量術を真宗
は保持していた城門を守る横矢
や内郭外郭の構造そして寺内町
の形成は「加賀城作り」を招聘
したる高い技術といえましょう。
つまり武家の平城よりも約100
年も山科本願寺城が進歩的平城
プログレシブ寺院城郭と言える。
◆東京都民
その様な事言われても江戸の街
にビイスタ理論毛頭存在しない。
◆長谷川
そう言われても桜田門、日比谷門、
幸門、虎門、彦根藩邸の前面をば
支配してる町割は城郭ビイスタ!
歴史の表舞台にビイスタありと!
◆長崎県民様
ウチの県にはビイスタなど
全く知らない聞いてません
◆長谷川
教科書では教えてくれません
が長崎出島はその典型ですね
令和は城郭に気付く時代です。
教えてもらう右にならえでは
なく民衆の為の民衆に為よる
民間学を、私は打ち立てたい!
◆長谷川
さてさて安土城どの方向から
見ても見栄えのする城郭計画
ビイスタ工法が読取れますね。
これは天正4年織田信長画策を
した天正織田城郭の画期です
この形式が近世城郭の範とな
り江戸期に全国大名の居城が
この石垣と天主を用いる所謂
近世城郭の手本模範となる城
◆対談者
長谷川先生の令和城郭ビイスタ
大論により城の見方が変わりつ
つあると言われておりますのよ。
それは関東の真壁城だったり!
◆長谷川
秀吉の天正大坂城ビイスタ
◆長谷川
太閤秀吉の肥前名護屋城更に複雑進化
◆質問者
織田信長の安土城は天正4年の
縄張技術と言えます。1~5の
城郭ビイスタは圧倒的ですね。
1576年の安土城と文明10年の
1478年に築城が開始されたる
山科本願寺城は百年先輩たる
城郭であると言えます。山科
本願寺城の総合的ビイスタは
どの様な類似性があったのか?
今から100年前の自動車と現代
自動車は時間軸的にも技術的
にも違って当然と思いますが?
◆長谷川
山科本願寺城異常にレベルが
高いです。もう完璧に近い!
◆長谷川
山科本願寺の法城、仏城として
の縄張の完成度は驚異的なモノ
があります。
◆慎重思慮派
安土城より高所にある観音寺
山より安土城とは眼下に
見渡せます。万民に安土城の
荘厳美を知らしめる為の信長
の威示や演出光背効果だと私
は思います城を示して世間に
見せる為の装置や舞台です。
天正織田信長政権のショー
ウィンドウ表舞台と言える。
◆否定派
でも山科本願寺城は城全体を
鳥の様に見渡す事が不可能だ。
◆長谷川
山科盆地に行かれたら本願寺
は盆地底にあります城として
の要害性は低いが四周からは
山科本願寺を全国の門徒に見
せる真宗教団宣伝の蓮如さん
の意図を読み取りましよう。
◆ウイッキペテイア
文明10年(1478年)から造営され、約6年間で建設されたと言われている。山科盆地の中央より西側にあり、四ノ宮川と山科川(旧音羽川)の合流地点で、当時は山城宇治郡に属する。この地域は東海道から宇治街道へ抜ける分岐点、交通の要所であった。天文元年(1532年)の『経厚法印日記』によると「山科本願寺ノ城ヲワルトテ」と記載が見受けられることから、当時より城として呼称されていた。寺院が城に変化できたのは加賀より城造り人夫を呼び寄せて本格的な城郭に仕上がったのでないかと思われている。山科本願寺の構造は「輪郭式」あるいは「回字式」と言われる近代城郭の縄張であり、この周辺、この時代の戦国大名ならびに国人の居城は山城であるのに対して、山科本願寺は平城で1世紀前に近代城郭の要素を含んでおり、『中世城郭辞典』には「城郭史上、特筆すべき城郭跡といえる」と解説されている