城郭 長谷川博美 基本記録

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塩津の歴史的重要性 太平記にみる 江北塩津の世界

2022-01-04 20:09:12 | 講演予定
衝撃 城郭ビイスタ論 上文字クリック
 
◆匿名様よりメール
この投稿記事では
       北近江守護職京極氏
       浅井郡地頭職熊谷氏
       の歴史的立ち位置が
       よく理解ではました。
城郭ビイスタ論は日本史の城郭の霧が晴れた様な
感覚になりました。浅井郡の熊谷氏の在地勢力の
多数存在する城郭群も把握して新しい西浅井地域
の未だ一般に知られていない未知の城郭群へ現実
に行って見たいと思っています。歴史は霧の中に
濃霧の中に隠されている。霧がかかっていない所
だけ見て歴史を語ってもその町の全体像や歴史を
語り考える事には決して繫がらないと考える昨今
です。
 
◆長谷川
メールに感謝致します。私のブログに登場
する『剣熊考全18編』も併せて予備知識と
して閲覧して頂ければ幸甚かと思われます。
 
塩津の歴史的重要性 太平記にみる 江北塩津の世界
 
◆長谷川
塩津を知る為にはブログ『剣熊考全18編』
を是非通読される事を是非お勧め致します。
 
◆『剣熊考全18編』の御案内
1 ブログの左を見る
2 剣熊考(18)をクリックする。
 
◆対談者
彦根に記録的大雪がふりまして市内が大変。
高嶋も雪が多かった、米原も雪が多かった。
雪害遭遇された方にお見舞い申し上げます。
 
◆長谷川
近江国では愛知川以北つまり佐々木京極氏
の領知を江北と言いました。高嶋郡、伊香
郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛知郡以上
6郡を江北六郡と中世では言います。彦根
は元来江北に含まれいました。湖東と言う
言葉は井伊氏が彦根に入部して江戸時代か
ら湖東の通称が用いられましたが元来江北。
今回滋賀県彦根市東沼波の国道8号線が積雪
の為に渋滞し全国区でテレビ報道されました
がやはりここも中世では歴然とした江北だっ
た訳です。彦根の平田山「雨壺山」も江北の
平田山として記録されています北近江守護職
の有力被官「川瀬氏」や「高宮氏」も現在は
彦根市に所属していて元来は歴然たる江北で
あった言えます。歴史は現行行政区分で歴史
解釈をしていると中世と現在では領域解釈が
異なるので注意しなけばなりません。浅井郡
なども琵琶湖を挟んで東西に展開する広大な
郡部であり後に東部は東浅井郡と呼称されて
現在では浅井地域の中心部と認識されていま
すが元来の浅井郡は東西に広大な郡部であっ
た事を事前に認識しておくべきです。
 
◆対談者
北陸線、湖西線の交わる塩津駅は今回の
積雪で影響を受けたと言う事を聞を聞き
ます。
 
◆長谷川
塩津と言う交通の要衝や雪の多さは南北朝
の昔も令和の現代も全く同じと言え北陸へ
の重要な通路と言えます。『太平記』を今
再び読んでみましょう。
 
『太平記』北国下向勢凍死事
河野・土居・得能は三百騎にて後陣に打けるが、
見の曲にて前の勢に追殿れ、行べき道を失て、
塩津の北にをり居たり。佐々木の一族と、熊谷
と、取篭て討んとしける間、相がゝりに懸て、
皆差違へんとしけれ共、馬は雪に凍へてはたら
かず、兵は指を墜して弓を不控得、太刀のつか
をも拳得ざりける間、腰の刀を土につかへ、
うつぶしに貫かれてこそ死にけれ。千葉介貞胤
は五百余騎にて打けるが、東西くれて降雪に道
を蹈迷て、敵の陣へぞ迷出たりける。進退歩を
失ひ、前後の御方に離れければ、一所に集て
自害をせんとしけるを、尾張守高経の許より使
を立て、「弓矢の道今は是までにてこそ候へ。
枉て御方へ出られ候へ。此間の義をば身に替て
も可申宥。」慇懃に宣ひ遣されければ、貞胤心
ならず降参して高経の手にぞ属しける。
 
とあります。上記太平記で重要な部分とは
「塩津の北にをり居たり。佐々木の一族と、
熊谷」が特に重要です。
 
佐々木の一族とは佐々木京極氏の系統を言い
熊谷は本舗地頭職である近江塩津熊谷氏を意
味します。『菅浦文書』に登場する塩津勢も
これに該当する事になります。もっとも大切
な事は「佐々木の一族と熊谷」が塩津に登場
している事です。守護の京極氏、本舗地頭職
の熊谷氏と解釈して良いと思われます。さて
時代は流れて1534年(天文3年)8月20日の
記録『浅井備前守宿所饗応記』から熊谷氏の
室町時代の江北における中世武家社会の階層
は守護職京極親子に次ぐ席次は№3なのですが
江北武士の序列席次としては浅井郡塩津熊谷氏
を実質№2と解釈すべきです。守護京極氏とは
当然国人と呼ばれる複数の郷村を支配する土豪
階層を統率する集団「国人」を京極氏の被官と
しています。一方の地頭職「熊谷氏」は守護職
に次ぐ№2の階層に相応しい数多くの郷村支配
し当然のことながら数多くの城郭支城網を塩津
に展開していたと言えます。北近江の中世の武家
社会や郷村支配体制を的確に知る為には各集落
に存在する一村に一カ所または2カ所存在する
集落の裏山に存在する城郭遺跡を確実かつ冷静
に把握認識する事が塩津熊谷氏や北近江の江北
の歴史を知る重要な機会になると私は思います。
 
令和4年1月15日 長浜臨湖 歴史講演予定
 
予約先 窓口 ☎0749-86-4145
 ウッデイパル余呉城郭係り「火曜休業」


日時 令和4年1月15日 土曜日
    講演開始 午後13時 約1時間30分
    参加費500円

講演場所
滋賀県長浜市港町4-9「無料駐車場あり」
セミナー&カルチャーセンター臨湖│長浜

交通アクセス
電車 JR長浜駅より徒歩約10分余
車  長浜ICより約10分 長浜港
   琵琶湖湖周道路長浜城を目印
 
『太平記』北国下向勢凍死事の現代文

河野・土居・得能は三百騎で後陣に付いてい
ましたが、見の曲(嶮の曲?)で前の勢に遅れ、
行くべき道を失って、塩津(現滋賀県長浜市)
の北で足を止めました。佐々木一族と、熊谷が
、取り籠めてこれを討とうとしたので、相懸か
りに懸かって、皆刺し違えようとしましたが、
馬は雪に凍えて動かず、兵は指を落として弓
を引き得ず、太刀の柄も握ることができなか
ったので、腰の刀を地に突いたまま、うつ伏し
に貫かれて死にました。千葉介貞胤(千葉貞胤)
は五百余騎で馬を打っていましたが、東西暮れ
て降る雪に道を踏み迷い、敵陣に迷い出ました。
進退歩みを失い、前後の味方と離れて、一所に
集まって自害をしようとするところに、尾張守
高経(斯波高経)の許より使いを立てて、「弓矢
の道今はこれまででございます。曲げて味方に
出られよ。今までの義をこの身に替えても申し
宥めまする」。と慇懃に申し遣わしたので、
貞胤は心ならずも降参して高経の手に属しました

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