城郭 長谷川博美 基本記録

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甲斐 小山城のビイスタ論考

2023-10-02 02:16:58 | 民俗学

甲斐 小山城のビイスタ論考

◆対談者

長谷川先生の城郭ビイスタ論

は随時進化発展している思う

 

◆探訪者

ビイスタなんか私には関係が

ない様々な城を巡る事が優先

 

◆参加者

長谷川先生と城郭遺跡見学に

行ってもビイスタは解説ない。

 

◆長谷川

小難しい解説を現場城郭遺跡

で解説しても返って逆効果に

 

◆世話人様

長谷川先生の本質は普段城址

見学に出ていないと思います

 

◆研究家

それは的を得た見解と思うね

長谷川氏は会話全くしない人

 

◆探訪者

いいえ!様々な会話や質問を

積極的される先生と思います

 

◆研究家

それ長谷川氏は研究家としで

なく顧客リサーチで傾聴する

 

◆世話人様

やはり見学会での安全対策

を第一に考慮憂慮される人

見学会に参加される人々を

顧客として見てない大切な

身内として親身で心配の人

 

◆一般者

長谷川先生に欠落してる事?

 

◆社会学者

パブリクコンセンサスつまり

市民、行政、諸々の人間社会

との調整、調和、融合、集団

形成のシステムが全く解って

いない。コミニュケーシヨン

能力が極めて低く社会性なく

孤立した孤高学者の傾向です

簡単に言うならコミユニテイ

や集団を形成できない学者肌

で秀吉は集団形成が得意な人

一方竹中半兵衛尉は隠棲陰気

な隠者学者先生のタイプの人

人間の性格には陰陽が存在!

 

◆純粋学究家

政治家は投票数獲得を目指し

市民の幸福など目標ではない

役人は人員員数を確保する事

経済家は実利実績を怜悧獲得

学究家は内省的でストイック

な学業の世界なので員数集合

を目的にする俗物ではない!

長谷川先生には甲斐 小山城

のビイスタ論考解析を願う!

 

◆洞察家、慧眼者、達観者

世俗の人々の大多数が講演で

単郭方形城館の文字をば学習

したら城館は四辺直角を有す

る真四角の形状が城館だと特

に文字歴史解釈傾向の強い人

ほど固定概念に陥りやすい事

従って城郭ビイスタ論は女性

で糸取り綾取り経験や折紙の

経験がある女性の方が理解が

早い。

 

◆主婦女性

そりやそうよ!家庭で西瓜を切る。

沢庵を切る。円形ケーキを6人家族

で切断する時の分配や配分の為に

分度器や計算機など使ってる場合

じやない。機敏な割り振りこそが

主婦業では大事城郭ビイスタ論は

女性の糸取り綾取り西瓜切した人

の方が城郭ビイスタを理解できる。

 

◆質問者

まえふり が長すぎるんですよ。

甲斐 小山城にビイスタあるの?

◆長谷川

この城を正方形だと直感した

人は城郭ビイスタ即落第です

女性の糸取りの様に即座に糸

を取る。築城の事を城取りと

昔から言う故事に注目下さい

甲斐 小山城見事なビイスタ

 

 

 

◆質問者

重複ビイスタはありますか?

 

◆長谷川

重複ビイスタは存在致します。

これが日本の城の設計の基本。

 

ウイッキペデイア 甲斐小山城より

小山城(こやまじょう)は甲斐国、現在の山梨県笛吹市八代町高家(こうか

)にかつてあった日本の城である。笛吹市指定史跡[1]。高家小山城公園とし

て整備されている[2]

概要[編集]

小山城遠景。2014年7月12日撮影。

所在する笛吹市八代町高家は甲府盆地南東に位置する。一帯は甲斐・

駿河を結ぶ古道である鎌倉街道(御坂路)や若彦路に近接する交通

の要衝となっている[3]。小山城は浅川扇状地北端に近く、天川

(てがわ)に面した河岸段丘上に立地する[3]

築城年代は不明だが、江戸後期に編纂された『甲斐国志』によれば、

室町時代の宝徳2年(1450年)には河内領主・穴山氏の一族である穴

山伊豆守が在城し、甲斐守護・武田信重と敵対したという[3]

甲斐国志』によれば、大永3年(1523年)3月13日には小山城主

である「穴山伊予守信永」が鳥坂峠を越えて侵攻してきた「南部某」

と戦い、花鳥山に布陣し小山城へ籠城するが敗退し、信永は常楽寺

(笛吹市御坂町二ノ宮)に落ち延び自害したという[4]。『甲斐国志』

では「穴山伊予守信永」を穴山信懸の子息・信永に比定し、

小山穴山氏を継承したと推定している[4]

天正10年(1582年)6月の天正壬午の乱では、相模国北条氏直

郡内地方を制圧し、鎌倉街道などの交通路を押さえ、御坂峠

御坂城を築城した。『甲斐国志』によれば、これに対して

徳川家康は家臣の鳥居元忠に小山城を修築させたという[3]

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