いっぷくしょまいかいね

いっぷくしてから それからまた やろまいかいね

おわら歌碑めぐり 17

2009年10月31日 | 風の盆

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2009年8月30日撮影

祭り曳山業平小町
城ヶ山ではオワラ花ざかり

小杉放庵

町民ひろばから禅寺橋の袂に出て、ここでは渡らずに井田川沿いの小道を上流に向かって歩いて八尾大橋を渡る。
突き当たりの「西町」交差点を右折して坂道を上ってゆく。
ここまでは「15」と同じである。
但し「15」で上った石段のところはそのまま通り過ぎて、少し先の「かどや」というお店を過ぎてすぐの交差点を左折する。
ここが合同の坂だ。
この坂を上りきったところが、なりひら通りである。
なりひら通りを右折して少し行くと左側に「越中八尾郵便局」があるが、ここの前にこの碑は建っている。

唄の中の「業平小町」とは、在原業平と小野小町のことである。
郵便局のある地域は「上新町」で、5月3日の曳山祭りの時には、曳山を持つ6町のひとつとして町内を巡行する。その上新町の曳山のシンボルともいうべき人形が在原業平である。
しかし舞台とは違って、相手の小野小町は「東町」の曳山に深草少将と一緒に乗っている。


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在原業平と供女

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深草少将と小野小町

2005年5月3日撮影

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おわら歌碑めぐり 16

2009年10月30日 | 風の盆

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2009年9月4日撮影

わたしや野山の兎じやないが
月夜月夜にオワラ逢いに来る

野口雨情

「15」の「杉風荘」に向かうときに、おたや階段下の広場の手前を右折したが、ここに行くには右折せずに広場を突っ切りおたや階段を上っていく。
鏡町と西町、東町が合する中央通りを通り抜けて、常松寺に突き当たったら右折してすぐ「こどもや」で左折すると、正面に建っているのが見える。

この歌碑を背にして立つと、諏訪町本通りが一望できる。


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2004年9月4日撮影

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おわら歌碑めぐり 15

2009年10月29日 | 風の盆

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2004年9月3日撮影

恋の礫(つぶて)か窓打つ霰(あられ)
開けりゃ身にしむオワラ夜半の風

水田竹圃(みずた ちくほ)

町民ひろばから禅寺橋に向かうが、ここでは渡らずに井田川沿いの細い道を上流に向かって歩くと、八尾大橋の袂に出る。
八尾大橋を渡って突き当たりを右に曲がり、上り坂を上ってゆく。
坂を上りきったかなぁ、という辺りの左側に上り階段がある。
ここを上ってゆくと鏡町公民館の脇に出るが、そのまままっすぐ進み、おたや階段下の広場の手前で右に曲がり、少し行くと右側の奥まったところに、「杉風荘」(さんぷうそう)の扁額が懸かった建物がある。
その前にこの碑は建っている。


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2004年9月2日撮影

「杉風荘」は、かつて花街であった鏡町の「杉下楼」の建物であるが、現在は「富山市八尾コミュニティセンター分館」という役目を担っている。

この歌碑の脇に「1」で紹介した『八尾四季』の歌碑が建っている。
今回、過去に撮影した歌碑も全て新たに取り直して掲載するつもりでいたが、ここだけ忘れてしまったので5年前の画像で間に合わせた。

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おわら歌碑めぐり 14

2009年10月28日 | 風の盆

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2009年9月4日撮影

おたや地蔵さんこの坂下は
今宵なつかしオワラ月あかり

野口雨情

「10」の歌碑のある宮田旅館の前を通りすぎて、突き当たりまで歩いていくとそこは「JAなのはな」八尾支店で、その建物の前にこの歌碑はある。
突き当たったところで右に曲がる、とおたや地蔵さんのあるおたや階段にでる。



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2004年9月4日撮影

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2007年5月3日撮影

花生けの台?が新調されているのがおわかりだろうか。?

新調されたものには「長万」の文字が刻まれている。
「長万」とは大正初期の繁盛図を見ると、現在の「JAなのはな」の位置にあった料理旅館の名前である。
今年の風の盆の時に購入した復刻版「越中八尾民謡おわらぶし」の中にも、その名前を見出すことが出来る。
しかし現在、私の知る限りでは八尾に同名のお店はないので、何故に今、「長万」なのだろうか。
縁のある方の寄進なのだろうか。
謎である。

さて、鏡町は寛文十二年(1672)に成立したが、その頃、おたや階段下はまだ鏡町ではなかった。
およそ200年後の明治七年(1874)、階段下一帯は茶畑町として成立し、その翌々年の明治九年(1876)、鏡町に編入したことによって、ようやく今の鏡町の形となったのである。
但し、元の茶畑町の地域は、新しく建った鏡町、ということで元々の鏡町である「本」鏡町とは別に、新建(しんだち)と呼ばれたそうだ。
その新建に繋がる坂なので、おたや階段を「新建坂」と呼ぶのである。

私が八尾を訪れるようになってからも、この坂下の風景はだいぶ変わっている。

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2004年9月4日撮影

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2009年9月4日撮影

広場の大部分を占める建物は、鏡町公民館である。
現在は画像の右に写っている道の奥に移転新築されている。

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おわら歌碑めぐり 13

2009年10月27日 | 風の盆

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2009年8月30日撮影

見たさ逢いたさ思いがつのる
恋の八尾はオワラ雪の中

小川千甕

町民ひろばから禅寺橋を渡りそのまままっすぐ進むと西町の石垣に突き当たる。
右に行くと「狼地獄」のほうだが、反対の左に曲がる。
そのまま道なりに進むと浄圓寺坂だが、そこまで行かずに手前の右側の細い石段を上っていくと、聞名寺脇の上下の坂を上りきった所に出る。
お地蔵さんにふさがれたような道だ。
そこからまっすぐに進んで法林寺の前を右に曲がっていくと、左手に東町のふらっと館があり、その前の道端に建っている。

今のおわら資料館のはす向かいに、かつて北陸電力の八尾営業所があった。
おわら歌碑めぐりのパンフレットには、いまだにこの歌碑の所在地が「北陸電力前」となっているが、いつの間にか北陸電力も姿を消し、この歌碑も現在地に移転されたようだ。
左側面にはその名残として、歌碑の所在地である「北陸電力株式会社」の文字が残っている。

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