いっぷくしょまいかいね

いっぷくしてから それからまた やろまいかいね

新・車中泊は押入れ気分(準備編) その4

2005年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム

では押入れ生活への憧れのようなこの想いは一体どこから来るのでしょうか。

先にも書いたように、すべてが共用スペースでのみ構成された家で生活する一昔前の子供達は、自分がそうであったように、皆「個」のスペース、つまり誰にも邪魔されることのない自分だけの部屋への憧れ、獲得願望には強いものがあったと考えられます。

しかしながら、現実としてその願望が叶えられることはありませんでした。

が、それでも諦めきれずにいると、やがて「押入れ」の存在に気がつきます。

「三畳あれば寝られますね」

と書いたのは高村光太郎ですが、「坐って半畳寝て一畳」という言葉もあるように、現実には一畳あれば寝られますから、「押入れ」の中には子供にとって十分なスペースが存在していたのです。

しかし実際そこは「物」で満たされ、そのままの状態では利用不可能です。当然自分の入るスペースを確保するため、それらはすべて外へと出さなればなりません。

浅はかな子供の考えること、この時点では親に叱られる、という心配よりも自分の部屋を獲得する喜びが勝っていますので、当然速やかにどかされます。

こうして空になった押入れの中を、居住空間とすべく整備が次の作業となります。

床は板張りのためそのままでは足が痛いので布団を敷こう、と考えますが、やはり自分の部屋だという意識が働くので、当然敷くのは日常自分が使用している布団です。

それを押入れの中全体に敷き終えるとすぐに寝てみたくなります。

体を横たえて押入れの中の天井?を見上げると、ここは自分だけの部屋なんだという実感が湧いてきます。そして更にその認識を深めるために襖を閉めます。途端に訪れる静寂と暗黒・・・そこで気がつきます。

電気がないと駄目だ、と。

つづく

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新・車中泊は押入れ気分(準備編) その3

2005年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム

次は、「車」について考えてみます。

「車」は、本来場所から場所へと移動するための便利な道具として開発され、我々の身近に存在しています。

「車なんか、動けばいいんだ。」といった言葉はまさに「車」の存在理由を端的に表していますが、「車」を移動の手段としてだけで考えるがゆえに、車内でとる行動は運転のみ、という方が多いと思います。

こう書くと、すぐに反論されそうです。

運転以外のことだってするぞ、と。

当然、車の中でコンビニのお弁当を食べたり、雑誌を読んだり、仮眠をとったりもするでしょう。しかし、これらの行動は運転の一部であると私は考えます。

つまり、運転の途中でお腹が空いたからコンビニエンスストアに立ち寄りお弁当を買って食べた。または気分転換に雑誌を買って読んだ。眠気を催しこのままでは危ないと思い、車を止めて仮眠をとった、という運転に付随する一連の行動だと思うのです。

例えば家にいるのに茶の間やダイニングルームで食事をせずに、わざわざ車に持ち込んで食べますか。

ベッドで寝転がって雑誌を読めばいいのに、わざわざ車まで持って行って読みますか。

自分の部屋で寝ないで、わざわざ駐車場に止めてある車まで行って眠りますか。

普通であれば敢えてそんなことはしないでしょう。

これらのような運転から完全に独立した行動をとらない限り、車内も普通に人の生活が営まれるということのない、という意味において、非日常空間と言えるのではないでしょうか。

物理的な類似性と併せ、この日常生活に密接した非日常空間という共通性、それが

車中泊=押入れ生活

を連想させる要因となっています。

 

 さて、非日常空間に身を置くとき、体には軽い緊張感が走ります。それは、普段ならまず立ち入ることのない見知らぬ建物と、その脇の塀との間にできた狭い空間に身を潜め、鬼の通り過ぎるのを息を殺して待つかくれんぼや、ずっと探している本がここにはあるだろうか、と期待に胸を膨らませながら入る本屋さんの中で感じる尿意を伴ったあのドキドキする感覚に似ています。

押入れ生活も車中泊も、普段の弛緩した日常生活では味わうことのない、この快い?緊張感を持てることにまずワクワクするのです。

 

つづく

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新・車中泊は押入れ気分(準備編) その2

2005年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム
「押入れ」について考えてみます。
押入れは「家」の中にあります。
「家」は言うまでもなく私達が日常生活を営む上での本拠であり、基本です。
そしてその内部空間を細分化し、それぞれに様々な役割を持たせ利用しています。
お風呂・洗面所・ダイニングキッチン・リビング等々・・・。
少子化の時代を迎えながらも住宅面積は広くなり、空間に余裕が生まれると細分化は更に進みます。
書斎、寝室、ウォークインクローゼット、オーディオルーム・・・
今の子供たちは生まれた瞬間から、いや、生まれくる以前から自分の部屋が用意されているのです。
しかし、一昔前はどうだったでしょうか。洗面・歯磨きは台所の「流し」で行い、食事もテレビも勉強さえもすべて「茶の間」に集約され、狭い子供部屋は兄弟姉妹であふれ、なにもかもが共用、とても「個」を主張できる時代ではありませんでした。
そんな中にあって唯一、人が踏み入れることのない空間が存在しました。
「押入れ」
そこは非常に身近にありながら、人間のためではなく物を収納するということにのみ存在するが故に、狭く、窓もなければ照明器具もない、当然人がそこで生活するということをまったく考慮していない、いわば排他的な非日常空間でした。

つづく


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新・車中泊は押入れ気分(準備編) その1

2005年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム
以前、「車中泊は押入れ気分」と題した小文を書きました。
子供の頃、憧れながらも実現し得なかった押入れ生活気分を、大人になってから「車中泊」という社会的に認知?された形で味わう楽しさについて軽く触れましたが、
さて、
これからは私が実践している「車中泊」の具体的手法について、一歩踏み込んだ形で書き進めていきたいと思います。
ただ、方法論に入る前に「車中泊」がなぜ「押入れ気分」を惹起させるのか、について改めて考えなければなりません。
なぜなら、ここでは単なる「車中泊」ではなく、あくまでも「押入れ気分」に基づいた「車中泊」の実践をテーマにしていきたい、と考えていますので、それにはまず大前提となる「押入れ気分」について考察することを優先しなければなりません。
そこには車内空間と押入れ内空間の物理的な類似性、例えば広さとか遮蔽性といった要素から連想されるばかりではない、精神的な共通性が存在しています。
そしてそれを理解し共有することによって、或いは記憶を呼び覚ますきっかけとなることによって、単なる「車中泊」は、「押入れ気分」の「車中泊」へと確立、昇華?していくものと考えます。
その第一歩として、私はまず「押入れ」精神論を展開しなければならないと考えるのです。

つづく


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美術館

2005年06月14日 | 旅行記

昨日の日曜日(あっもうおとといだ)、
群馬県勢多郡東村にある「富弘美術館」に行ってきました。

飾りのない、心の中からそのまま発せられる言葉は、ストレートに心に飛び込んできます。
共感を覚える言葉には、決して同情なんかではなく、涙が出てきます。

美術館の裏の景色はたいへんに素晴らしいです。
フォトアルバム「美術館」をご覧ください。

富弘美術館のホームページ
http://www.vill.seta-azuma.gunma.jp/htm/azm11110.htm

コメント (2)
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