この写真はこれまで歩いてきた諏訪町本通りを、東新町との境界となる辻で振り返って撮ったものである。
振り子さんのブログでは、撮影年は別だと思うが、この場所から撮影した写真が数枚掲載されている。
お気に入りの場所だったのだろうか。
振り子さんの写真にはそのいずれにも百日紅が写っているが、これは近年伐られてしまい私の写真には写っていない。
おわらの時期、薄紅色に咲くきれいな花だった。
画面右の石造物は、「おわら歌碑」である。
庚申通りの一本西側の通り、火除小路。
振り子さんの写真では、小学校低学年くらいの子どもがふたり写っていて、小路内の店舗は「氷」の幟?を掲げているのがわかる。
私の写真は5月曳山の後の撮影なので、「氷」は再現できていない。
ちなみに、一番奥に見える大きな建物は曳山会館の山車庫である。
昭和48年発行の『続八尾町史』には、町内で発生した火災の記述がある。
その一部を引用させていただく。
「明治八年(一八七五)七月十五日、上新町下の丁から出火し、祐教寺の下角から胡桃小路までを焼失し、さらに、諏訪町の諏訪社上角から庚申堂下角までに及び総戸数百六十戸が罹災。」
「同三十三年五月二十五日、上新町上の丁から出火し、同町百五十戸を焼失し、諏訪町へ延焼して百十七戸計二百六十七戸を全焼。この出火原因は石油ランプの転覆によるものといわれる。」
「大正年代には、同四年八月三日、諏訪町で九戸全焼、原因は石油ランプの落下によるものであった。」
以上のように八尾町は度々大火に見舞われている。
その対策としての「火除小路」であろうか。
振り子さんの写真では、小学校低学年くらいの子どもがふたり写っていて、小路内の店舗は「氷」の幟?を掲げているのがわかる。
私の写真は5月曳山の後の撮影なので、「氷」は再現できていない。
ちなみに、一番奥に見える大きな建物は曳山会館の山車庫である。
昭和48年発行の『続八尾町史』には、町内で発生した火災の記述がある。
その一部を引用させていただく。
「明治八年(一八七五)七月十五日、上新町下の丁から出火し、祐教寺の下角から胡桃小路までを焼失し、さらに、諏訪町の諏訪社上角から庚申堂下角までに及び総戸数百六十戸が罹災。」
「同三十三年五月二十五日、上新町上の丁から出火し、同町百五十戸を焼失し、諏訪町へ延焼して百十七戸計二百六十七戸を全焼。この出火原因は石油ランプの転覆によるものといわれる。」
「大正年代には、同四年八月三日、諏訪町で九戸全焼、原因は石油ランプの落下によるものであった。」
以上のように八尾町は度々大火に見舞われている。
その対策としての「火除小路」であろうか。
諏訪町本通りと、並行する上新町のなりひら通りとを結ぶ道、庚申通り。
正面奥はその屋上?に宗祖親鸞聖人がおわす浄土真宗本願寺派 祐教寺
写真を撮ったこの辺りは上新町と諏訪町の境界付近なので、果たして「諏訪町編」でよいのか判然としない。
この通りを反対側から撮影したのがこちらの3枚目の写真である。
庚申通りの名称の由来は記述のとおりである。
正面奥はその屋上?に宗祖親鸞聖人がおわす浄土真宗本願寺派 祐教寺
写真を撮ったこの辺りは上新町と諏訪町の境界付近なので、果たして「諏訪町編」でよいのか判然としない。
この通りを反対側から撮影したのがこちらの3枚目の写真である。
庚申通りの名称の由来は記述のとおりである。