長々と続けてきた「八尾にて」の拙文も、これを以てひとまずの終結としたい。
おわらは素晴らしい。
その素晴らしさを語りがたいために「八尾にて」を書こうとした。
しかし、終わってみれば、その主題となる部分がものの見事に欠落している。
なぜそうなってしまったのか。
私には表現することが出来ないからだ。
それは一瞥して恋に落ちた、その相手の女性について、説明することに等しい。
どうしてその女性に惹かれたのか。
そう問われても答えられない。
理由などないからだ。
一瞬にして魂を揺さぶられ、心が突き動かされる。
衝撃と衝動である。
それ以上でもそれ以下でもない。
それを言葉や文字で表現しようとすればするほど、きっと真実から乖離していくだろう。
おわらに対し、私はそういった出会いをしてしまったのだ。
しかし悲しいかな、私は私の能力を憾むよりすべはない。
では、別の表現手段、「写真」を用いたならばどうか。
「八尾にて」にも、相当数の画像を掲載したが、私はそれらに対して客観的な評価が出来ないでいる。
なぜなら、私は既におわらを十分に知ってしまっているからだ。
私のような、おわらに魅了された人間であれば誰でもそうだと思うが、頭の中をパソコンのハードディスクに見立てるならば、私のハードディスクにはおわら専用にパーティションが切られ、そこにはおわらに関するフォルダが数多く存在し、しかもその数はどんどん増加を続けているのである。
そしておわらに関する文字や画像を見ただけで、瞬時にアクセスが開始され、おわらの情景が展開されてしまうのである。
その速度たるや、時に阿波踊りの笠を見ただけでフライングしてしまうほどである。
ましてや自分で現に撮影した画像であれば、尚更にその傾向は顕著であり、どんな失敗画像であってもショートカットキーの役割を十二分に発揮し、次の瞬間、頭の中ではおわらが踊っているのである。
このようにおわらを経験した者に対して、おわらの画像は特別な作用をもたらすが故に、おわらを画像のみで知る人、または全く知らない人に与える影響について、計り知れないのである。
私は、「写真」に求められる要素は「構図」と「描写」に尽きると考えている。
そして「写真」をしておわらの素晴らしさを語らせるならば、少なくともまず、自分が今感動しているこの場面・瞬間を肉眼で見たままに切り取り、描写する必要があると考えている。
一言で言えば
「見えるがままに撮る!」
プロの写真家であればその1ショット1ショットが「仕事」であり、真剣勝負である。
そんな人の手にかかれば、まさにおわらは私の求めている「写真」となり、見る人に感動を与え、その素晴らしさを十分に伝えるに違いない。
しかし、私の手にかかったら、おわらという真実素晴らしい素材を、意図的に改悪して世に出す、およそ「偽造」にも等しい行為となってしまう。
名画の、その質の悪い贋作を見せられて感動する人が一体いるだろうか。
銀塩写真?を撮っていた時分は、この「偽造」を相当行ってきた。
「偽造」に嫌気がさし、事実カメラを持たずにおわらにきた年が何年も続いた。
おわらを見、そして聴き、おわらを肌で感じた。
そして、おわらにカメラは必要ない、と思った。
「見たさ逢いたさ思いがつのる・・・」
おわらの歌詞にもあるが、おわらは私にとって年に一度のことである。
牽牛織女のごとき遠距離恋愛?である。
雨が降ったら会えないのである。
それ故日常何かおわらと繋がりのあるものを身近に置き、おわらを忍ぶよすがとしたい。
しかし写真は撮りたくない。
そこにデジタルカメラの出現である。
撮影をしたその場で画像の確認が出来、自分が今撮った画像が果たして「写真」か「偽造」かの判断が容易である。「偽造」に倦怠した私に希望をもたらし、再び私の目を「写真」の道へと向かわせたのだった。
結論から言えば、それは素晴らしい機械だった。
何より撮り終えた画像をモニターの光を通してみることは、印画紙に焼かれたものを見るのとは格段の相違があり、立体感、臨場感さえ感じるのだ。
そして再びおわらに挑戦させる気力を呼び覚まし、そして確実に画像は増えていった。
しかし、改めて見返してみると、昼間の画像ばかりである。
銀塩時代のトラウマから、夜の撮影には臆病になっていた。
私は撮影に際して、自分自身で設定したガイドラインを遵守している。
1.ストロボを使用しない。
2.AFイルミネータを使用しない。(被写体を赤く照らしてしまう。)
3.三脚を使用しない。
実際このガイドラインに沿って、おわらの夜の写真を撮影しようとするのは、困難を極める。
それがわかっているから諦めてもいたのだ。
しかし、夜の画像がない、というのは、画竜点睛を欠く、というか、何か満たされない思いを残すものだ。
そこで2年前、駄目で当たり前(と、いってしまったら甚だ失礼か?)と、携帯電話のカメラで夜の諏訪町本通りの撮影を試みた。
パソコンに落として見たそれはノイズが荒く、シャープさにも欠けた、まるで靄の中のような景色を映し出していた。
どう見てもこれは「写真」ではない。
だがその画像を見れば、私の中で立ち並ぶぼんぼりによって二段の坂がくっきりと縁取られ、闇の中で浮かんでいるような、夜の諏訪町本通りがありありと蘇ってくるのだ。
「これでいいじゃないか!」
そして昨年、ついにおたや階段下で、それこそ何年振りかの夜の踊りを撮ったのである。
コンパクトデジカメで撮ったその画像は、携帯電話のカメラほどではないにしろ、やはりノイズで荒れ、開放で撮るためシャープさに欠け、加えて手ブレも起こしている、という有様で、まだまだ「偽造」の域を出ない代物であった。
しかし、私自身は
「これでいいじゃないか!」
目標とするところは「写真」であっても、客観的評価をも意識した「見えるがままに撮る!」という呪縛から解放され、ただただ自己満足のための「撮れるがままに撮る!」道もあることに、今更ながら気づいたのだ。
そして今年、そんな自己満足画像を増やすためにレンズを用意し、撮影に臨み、撮れたものを公表したのである。
結局、「見えるがままに撮る!」ことは未だに実現出来ていない。
だから、現時点で「写真」におわらの素晴らしさを語らせることもまた、叶わないのだ。
こうして「八尾にて」は、単なる時系列によるおわらの記録としてのみ成立するにとどまり、あたかも掲示板に掲示されたあの日程表の如くに剥がれ、時とともに忘れ去られていくであろう。
それもまた可なり・・・
来年また、新しい日程表が貼られるように、「八尾にて」は再生するであろう。
その時、おわらの素晴らしさ、そして私自身が受けた感動を伝えることが出来るか、今後の課題としていこうと考えている。
了