A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

謎の「米踏みかせぎ」

2010年02月10日 | 日録2
江戸中期に、新野辺村から各地の酒造家へ出る出稼人が非常に多かったことが知られている。寛延三年(1750)には、「冬春作間ニ大阪酒屋米踏かせぎニ九拾人斗リモ参り申候」とある。
「新野辺村より各地酒造家への出稼(天明4、5年)」という資料によると、天明四年には28人、五年には32人が出稼ぎに出ている。驚くべきことに、その出稼ぎ先は、摂津、河内、和泉、紀伊、武蔵、上野、讃岐、安芸、豊後、肥前、北松浦平戸(十文字屋十右衛門、平野屋虎次郎、高橋屋茂三郎、平野屋銀右衛門)、日向、と全国にまたがっている。
米踏みかせぎの「かせぎ」は、漢字では「手偏に上下」と書く。米踏みという作業は、発酵させた米麹を踏み込むのだろうか。杜氏ではないと注してある。酒造りの特殊技能とも思えないのだが、この地方の者が特別必要なのだろうか。それがよく分からない。市史の筆者もその意味不明としている。
注目されるのは、加古郡新野辺村から北松浦平戸へ四名の出稼人が出かけていること。あやしい。

「黒船前夜 ロシア・アイヌ・日本の三国志」(渡辺京二 洋泉社)は、「逝きし世の面影」の著者の新刊。
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覚書

2010年02月09日 | 日録2
加古川市史の資料中に「新野辺村平兵衛」の名が十以上の文書中に見られる。

1)「二塚村持高瀬舟株、磯七預り一件」
文政久年(1826)
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加古川の高瀬舟株の所有に関する文書とおもわれるが、連署中に、平兵衛の名初出。

2)「他領売のため長束木綿集荷困難につき口上書」
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弘化四年(1847)未十一月
長束組頭 惣代 
新野辺村 平兵衛 印 

長束 御会所

3)「長束木綿小仲買金相場につき嘆願書」
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嘉永四年(1851) 亥三月
組頭 新野辺村 平兵衛 印
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大西征七 坂田藤蔵

長束 御会所

4)「長束小仲買より取締役不帰依一件」
安政七年(1860)申三月
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長束木綿の仲買人が取締役(木綿問屋)の不正を正すべく、交渉と願書のやとりが行われ、それが残っている。
その内容としては、まず取締役が申し合わせて、木綿価格を引き下げ、買い叩こうとしたことは「迷惑」だという指摘。
次に明石藩が、集荷する木綿に上納銀を課そうとした件に対し、仲買人が交渉を行った。その中に、新野辺村平兵衛(長束組頭惣代)がいたのに、褒賞が別人に与えられたのは不都合だとの指摘。
最後に、問屋株を借り受けた菅野林助が近親の者に不正な優遇を行っている件に関し、罷免を要求すること。
これらに対し、取締役からの反論が行われている。(略)

幕末のこの時期、新野辺村平兵衛は、高瀬舟株と木綿仲買人株を持ち、長束組頭惣代(仲買人のまとめ役)をやっていて、明石藩や木綿問屋との交渉ごとにあたっていたことが分かる。

5)「大西家における木綿取引状況(慶応元年 1865)」
加古川流域の木綿は「生産農家→木綿取引人→木綿問屋」と集荷された。大きな木綿問屋であった大西家が取引していた38人の取引人の中に、「米屋 平三郎 163反」という名が見える。「米屋」は屋号か。

この後、明治に入ると木綿産業は破綻して行く。
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日乗、ジャーナル

2010年02月08日 | 日録2
雑誌を定期的に買う習慣がないのだが、今月は3月号の「新潮」を買った。
現行の作家の日記の特集で、若手の人にまで、紙とインクで日記を書かせたようだ。(金原ひとみさんなんか、どう考えても、普段、紙とインクでは書かんでしょう。オヤジさんの、金原瑞人(こっちの方が自分の贔屓)でさえPCオンリーのようだ)。
田中長徳さんの、「屋根裏プラハ」は、プラハのキュビズム建築の話。この連載は、文章が日録とは別の次元に行っていて、読み応えがある。
「日記」自体には以前から関心があるのだが、掲載されているような断片的な日記には、実は、さほど興味がない。日記は長大でなければならないと思う。
岩波文庫でも「ゴンクール兄弟の日記」が出始めた。女と寝た話や、兄弟で共有したことまで出てくる日記で、永井荷風は、これをマネして、「断腸亭日乗」を書き始めた。
こういう現象は、ブログやツイッターの隆盛の反動で、日記に対する関心が戻ってきたのに違いない。ブログを日記の形式で書く人もあるが、ブログを書くという時点で、他人に見せることが前提になっている。あるいは「発信」しているわけか。しかしブログが始まってから随分たつわけで、不自由さや限界も見えてきたんじゃなかろうか。ブログが自由度が高いというのも幻想。日記には寿命がないが、ブログには寿命があると思う。
千年、二千年前の日記も普通に読める。ブログには、重層的な時間が入り込む隙間がない。ブログもツイッターも止めて、誰にも見せない日記を死ぬまで書くというのが、今後のトレンドかも。

週末、ダリオ・アルジェント監督のDVDを3本観た。「サスペリア・テルザ」(2009)、「サスペリア2(プロフンド・ロッソ)」(1975)、「サスペリア」(1977)の順。70年代の2本はよかったのに(表現派風とも云われた)、最近作が最低。
近所のシネコンで、過去の名作映画といわれる作品を連続して上映するようになったが、第1回が「ローマの休日」とは、どうも。1年間のリストを見ると、アメリカ映画がほとんどで、見たいものは2,3本しかない。
古いフィルム映画を映画館上映で見たいという欲求があるのに、システムはなくなってしまった。名画座がなくなった今では、この方式でもしょうがないが、上映作品がつまらないものばかり。そこがなんとかならないか。
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二月の庭師

2010年02月07日 | 日録2
朝より快晴。日差しも温かい一日。
自分としては、今が一番いい季節なのに、写真を撮りに行けない週末が続いている。
去年もそうだった。

しかし2月ともなれば、庭の植物も地面の下で動き始めている。
庭師(アタシのこと)の勝負もすでに始まっているのだ。
一年の計は、二月にあり。
ということで、狭い庭を歩き回ってみる。

有機肥料をやる時期だし、剪定もして置かなければならない。
つるバラは水平に誘導しろと云われるけど、そんな簡単には言う事を聞いてくれない。
去年は、シダをグランド・カバーにしようとした。三鷹の国立天文台のシダの群生がよかったので、それをマネをしようとしたのだ。しかしちっとも増えてくれず、冬には早々に枯れてしまった。あのシダは地下茎ではまだ生きているのだろうか。
ユリの球根も10個ほど埋めたままになっている。深く植えすぎた気がするが、あれは春には芽を出すのか。
デイゴも植えたが、枝が枯れている。沖縄じゃないんだから、やはり無理だったのか。
土もたくさん入れておきたい。
目標は「昭和戦前の庭」。失敗したら、「武蔵野」でいいやと。
さて今年はどんな苗木を植えようか。
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生月の遠見番

2010年02月06日 | 日録2
生月島の番岳には異国船の接近を見張る「遠見番」が置かれていた。番頭補助役の富永氏の日記に、異国船漂着の時のなまなましい記録がある。
その内容が面白いのと、もうひとつは「志方治平」という名に興味を引かれた。松浦党に仕方氏があるらしいことは知っていたが、文献で見たのはこれが初見。

七月二十一日 南風 雨
一、今四ツ時イギリス船へ志方治平殿並ニ御船手小頭一人同道乗船最モ拙者共乗船一艘ヅツ品物積船一艘門川権五兵衛乗船都合四層仕立下被候也、品々滞リナク相渡シ候也
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一、船印弐枚左ノ通リ但シ天気次第早々出帆候様申シサトシ候コト・・・
一、夕、八ツ半時頃右異船錨ヲ取リ館浦出帆致シ度島ト薄香口、角島辺沖へ漂ヒ居リ候処暮ニ及ビイヅ方へ乗リ行キ候ヤ相分カラズ


クリント・イーストウッド監督の「インビクタス」を観る。1995年南アフリカでラグビー・ワールド・カップが行われた。その時の、マンデラ大統領と代表チームの話。近年のCEの作品は、人間や社会に対する理解の深さが行き渡っていて、民族や文化の対立を超えて一歩を踏み出そうとする姿勢が目立っている。八十歳の、かつてダーティー・ハリーをやっていた人とは思えない充実した作品が続いている。自分が変化することと、それによって人に変化を求めるという考え方への共感が見て取れる。
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生月における鯨漁

2010年02月04日 | 日録2
司馬江漢が江戸期に生月島を訪れて、鯨漁を見聞し、その様子を「江漢西遊日誌」に書き残している。

天明八年(1778)十二月十六日
朝食事をしていると、クジラが来たと知らせて来た。そこで見に行くことにして、飯に水かけ一碗食い、舟に乗る。乗るが早いか、櫓を押すが早いか、まるで矢のようである。それから、こなたかなたと一日中漕ぐがクジラは見えない。そこで生月に帰ろうとすると、沖の方で旗を振る舟がある。船は帰るのを止めて、その方へと漕いで行く。もう夕方である。
すっかり弱りきったが、加子たちは平気である。こうしてやっと、クジラに追いつた。すでにすっかり暮れて、海の上に満月が上った。ずっと沖合なので、網どりではない。四方から寄って行って、銛を打ち込む。船をクジラの二、三間のところまで漕ぎ寄せ、刀刺が艫に立って銛を打つのであるが、十七艘の船から十七本の銛が投げかけられ、クジラは十七隻の船を引いて行く。ようやく弱ってきたとき、一人がクジラの頭の潮吹きのところへ上がって、刃で穴をあけて綱を通す。すると次の一人は綱を持って海に潜り、クジラの下側を回って向こうへ抜ける。全く命がけである。
さて綱を下に回すと、大きい船二隻がクジラの両側にぴったりと寄り添い、丸太を二本横に渡し、それにクジラをつりあげてくくりつける。クジラはまだ生きていて、尻尾は動いている。月はこうこうと冴えて、中天にかかっている。生月の浜に着いた時には、夜も一時を過ぎていた。
クジラを解くのは明朝ということになったが、まだ全身を見ていない。夜中に見ておこうと思って、納屋に泊まることにし、十二時になったら起こしてくれ頼んでおいた。一寝入りすると、起こす声がするので、外に出てみると、師走の月は冴えきって、空は透明な青白い寒さである。
十七日
早朝からクジラ解きがはじまる。数十人が長刀をもってクジラの背にのぼり、切っていく。まず両あごを切り落とし、頭の上を切る。それから尾を切り、背を切り、両脇を切る。そしてろくろでその肉塊をひく。人は切った肉を納屋に運ぶ。納屋には肉納屋、骨納屋、腸納屋があり、納屋の中で骨肉を細かに切り、十七の大鍋に入れて煮る。油は桶で土蔵におくる。油は二百樽で四百両になる。
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Hiding Christian Gospels

2010年02月02日 | 日録2
Hiding Christian Gospels


カクレキリシタンのオラショ。
これはひょっとして、田北耕也が戦後間もない時期に撮影したした16mmではないだろうか。
「そもそもてうすと、うやまい奉るは、天地の御あるじ。人間万もつの御おやにて」と始まっているので、これは「天地始之事」で間違いないと思う。
とすると生月島ではなくて、西彼杵半島の黒崎地方の行事と思われる。
初めて聞いたが、陰々滅々として、聞く者をして地の底に引きずり込むような朗誦である。
こういうものがYouTubeにあるなんて、思ってもいなかった。非常に貴重なものである。
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だんじく様 生月島

2010年02月02日 | 日録2
Middle-quality「かくれキリシタン・だんじく様」"Hiding Christian・Danjiku Sama"


「だんじく様」は、殉教した、ジゴクの弥市兵衛と妻のマリヤ、その子のジュアンを祀る祠で、現在、船原家が祀っている。
ジゴクは地獄ではなくて、洗礼名のディエゴ(Diego)の転訛と云われている。
船原一族には、「松浦船原弥六 諧」(1336)、「船原与市兵衛」(1563)というような名の人物もあるので、「弥市兵衛」との関係が気に掛かる。

ダンジク様のお歌

んー参ろうやな参ろうやな
  パライゾの寺にぞ参ろうやなあーあ
  パライゾの寺とわ申するやなあーあ
  広いな寺とわ申するやあーあ
  広いなせばいは我が胸にあるぞやなあーあ
んー柴田山 柴田山 今わな涙の先なるやなあー
  先わな助かる道であるぞやなあーあー

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Hidden Christians - Japan

2010年02月02日 | 日録2
Hidden Christians - Japan


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百万遍念仏

2010年02月02日 | 日録2
なーもいで

想像していたのと違って、数珠の繰り方が随分速い。
一遍上人の時衆の「踊り念仏」はどんな踊りだったのだろうか。

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