おーちゃんの 「目指せ。日本200名山!」  そして最近、いい加減な家庭菜園 (^^♪ 

日本百名山トレッカー(悪名高い?)を目指して人生後半ラストスパート!

100座完登後は、200名山を目標に!

断捨離のはずが その4

2012年12月11日 06時13分01秒 | 雑記

1971年7月23日

3日目。

天気は、曇りのち雨だった。

 

すでに予定より1日遅れている。

しかし、少年たちは冒険好きだった。

国師ヶ岳を北に下ったところに梓川岩室がある。

岩室・・・・・・

わくわくする響き。

どんなところだろう。

 

今日は、国師ヶ岳・奥千丈岳(奥秩父最高地点)と廻って岩室に宿泊だ。

そんな計画で、23日は梓川岩室に宿泊することになった。

ところで梓川岩室までコースタイムで1時間下らなければならない。

翌日は広瀬(西沢渓谷)に下山する予定だから、1時間半登り返さなければならない。

今だったら頭の片隅にもそんなことは考えないであろう・・・・・1時間の下り。

若気の至り。

 

岩室は何の変哲もない岩の庇の突き出たくぼみだった。

下は砂地で平である。

想像していたのは「石の室」である。

確かに雨はしのげたが、ビバークそのものであった。

 

前日に金峰の下の大日岩付近で熊が出たという話を聞いていたので、少し恐ろしい一夜を過ごした。

夜の内、外に出してあった食べ物を何者かに食べられてしまったような記憶がある。

 

今のガイドブック ↑ 

梓川岩室への道は「岩屋林道」であるがルート荒廃・迷いやすく登山コースでは表示されていない。

 

 

1971年7月24日

4日目。

今日は国師ヶ岳へ登り返し(1時間半!)てから天狗尾根を下って広瀬に下山予定だ。

楽勝のはずだった。

予定より1日遅れているため、下山しないとそろそろ騒ぎになるだろう。

 

少年たちは頑張った。

天狗尾根を下っているはずだった。

道を失った。

倒木をまたぐ時、つるっと滑り、したたかに股間を打ちうけた若者がいた。

倒木やら伐採跡で下山路が判らない。

 

どうすりゃいいんだ。

少年たちは無理に下ることはしなかった。

沢筋を下っていけば危険である。

実際、西沢を下っていれば大変なことになっていたであろう。

冷静に判断したのは、あの股間を打ちつけた少年だった。

「元に戻ろう。」

さすがに岩室には戻らなかった。

 

すでに食料は尽きていた。

大弛小屋に戻ろう。

一泊2食付・3名の料金、3300円也。

ということは1名1100円。

 

 

1971年7月25日

5日目。

すでに下山予定日よりまる2日遅れている。

国師ヶ岳から天狗尾根の下山路を必死に下り、ところどころ枕木が抜けていて怖かった

森林軌道跡を下り、七ツ釜五段の滝を見て広瀬に下った。

当時、広瀬ダムはもちろんなかった。

バスで塩山に向かう。

少年たちの四泊五日の冒険は無事終わった。

 

・・・・・・・・・・・・・

 

無事じゃないだろう。

まる2日も行方知れずだ。

世間ではこれを「遭難」というのである。

 

遭難騒ぎであった。

本人達は楽しい苦しい山行だったけど、いたってのん気であった。

そして山にのめり込むきっかけになったのである。

 

こんな思い出のある ↓

小汚いなんの役にもたたないガイドブックであるが、断捨離なんて出来っこない。

 

ああ、片付かない・・・・・。

 

おまけ

今では天狗尾根も破線コースになっている。

一般登山者の通行は危険とある。

40年の歳月。(正確には41年の歳月)

 

大昔の話だ。 

 

 

 

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コメント (2)
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