ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

銀幕/小林稔詩集「白蛇」より

2016年07月21日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年刊

銀幕
小林稔

      男の子は 姿見の前に立ち、額に ゆかたの紐を結わえた。
  
     一昨日、姉と見に行った映画館の、銀幕に映し出された若武

     者になりたい、と思った。

      上目使いに 鏡面に映った男の子を睨(にら)んだ。肩を

     はだけて、剣を傾け 闇を切り裂く。
 
      死角から現われた男がいた。男の子は身を翻(ひるがえ)

     すと 男の胴に刀を滑らせた。どっしりとした手ごたえがあ

     ったので、男の子は よろけた。

     「えい、えい」
    
      たちまちにして 姿勢を正し、見えない敵に向かって剣をか

     ざし、畳の上を進んだ。
 
      不覚にも 男の子の胸元を突き刺す敵の刃(やいば)があ

     った。傷口から血が噴き出している。
  
      男の子は身をよじって、もがき、倒れた。

     「オノレ、にっくきやつ、覚悟いたせ」
 
       男の子はしろ目を出しながら 畳の上を這い 叫んだが、

     ようやく立ち上がった。乳首の下の裂けめから 地が流れ、
      
     股を伝って 踵で止まった。
    
      一人の敵に斬(き)りかかったとき、男の子は力つきて、

     身を仰向けにして倒れた。
 
      男の子は信じていた。こんなとき 味方の男たちが 馬を

     走らせて やって来るんだ。きっと 夜明けの樹々が男たち

     のうしろに 次々と倒れ、灰色の雲が 煙のように流れてい

     くのだろう。蹄(ひづめ)の音が男の子の耳元に響くのだが、

     男たちは姿を見せない。息が絶えそうになり、男の子は 身

     を小刻みにふるわせ、瞳を閉じた。
 
      一瞬、息を取り戻したとき、男の子は味方の男の胸に し

     っかりと抱えられていた。手足と首を ぐったりと垂らし、男

     の子は しばらく そのままにしていた。

      男の子は 他にだれもいるはずのない八畳間の真ん中から、

     すうっと立ち上がって 障子を開けた。
 
      日は暮れかけていた。男の子はいなくなった。部屋いちめ

     んが 闇に包まれた。


泉/小林稔個人誌「ヒーメロス」22号より

2016年07月20日 | ヒーメロス作品



小林 稔




水が足首に触れ流れてゆく。わたしは立ちつくして時間を遡る。足

底にまといつく疲労が泉に溺れた視線を探して。


いくつも重ねられた帳の奥に

見知らぬ者の瞳の閃光。


旅はいつまでつづくのか。おそらく命あるかぎりとはいえそれほど

の長い刻(とき)ではなく、われらの瞬きの間(ま)に間(ま)に跳ぶ矢の一投のように。


それをアランブラーの裁きの内庭に喚起しようと、イスファアンの

王の聳え立つ円蓋の青にこころを塗られつくそうと、あふれんばか

りの光に照らされ称えられてある誕(はじま)りの喩ではないのか。


泉よ、わたしをさらにわたしの暗処に曳きずり込む水の竪琴よ。巻

貝の螺旋を辿るように、いくえにも広がる波動のゆくえをわたしは

追っている。いく度も行く度によみがえり再生する魂は、滅びゆく

身体から剥離することを切望し、羽化する瞬時を狙っている。いか

なる宿命の生に記憶されたのか、僧侶の想いの伽藍の奥に、あなた

の限りある命の音が瀧のように煙っている。


                 アランブラー・アルハンブラのスペイン語読みで赤い城壁のこと。



カテドラルへの道/小林稔詩集「砂漠のカナリア」より

2016年07月17日 | 小林稔第5詩集『砂漠のカナリア』

砂漠のカナリア 第一章「カテドラルへの道」部分
小林稔


 海からの陽光と潮風が飛び込んでくるランブラス大通りは、コロンブスの記念碑から真っすぐに伸びている。通りの右手の道の一つに入ると、ふぞろいに並んで建物がその両側にある、カーブを描いている石畳の道があった。広い通りに出たかと思うと、またその先に細い道が続いている。その道にも左右に枝分かれした細い道が走っている。歩いていくうちにカテドラルにそびえる塔が建物の上部に見え隠れする。さらに歩くと、通りの前面にカテドラルの壁が立ちふさがる。到着して三日目だというのに、すでに私は懐かしさに駆られている。このゴシック地区の建物の二階にある安宿に、私は昨日から移り住んでいた。目の縁が黒ずんだ、宿の女主人が出て来て、アビタシオン、と子供みたいに叫ぶ私に笑みを浮かべながら、部屋に私を案内した。ドアに料金表が貼り付けてあったが、私が支払った宿代と違っている。シャワーを浴びようと別に料金を渡してシャワー室で衣服を脱ぎ、蛇口をひねった。いつまで待っても流れているのは水だ。騙されたと思った途端、女主人の頓狂な顔が浮かび怒りを覚えたが胸に収めた。
 石畳を踏みしめ、建物の一つ一つの窓を見上げながら歩いた。ランブラス大通りという幹から伸びた枝分かれした道を辿っていくと、路地の両側に立つ建物の窓から道を越えてロープが張られ、色とりどりの洗濯物が万国旗のように吊ってあった。その一角にピカソ美術館があった。十代のころに描いたという古典主義的手法の絵は、彼の破壊的な形状の絵に見慣れていた私には一種の驚きだったが、「狂人」と名づけられた小さな線画の前でしばらく立ちつくした。牧神のような風貌、毛髪の一本一本、宙に浮いた両手の指の先まで神経が張りつめ、正面から私を見つめている。どことなく精神が解放された心地になって、美術館を背にカテドラルのある道を目指して歩みを進めていくと、視界を白いものが過ったように思った。振り返った時、同じように振り向き立ち止まる青年がいた。彼の視線からそらすことが出来ずに見つめ、しばらく沈黙の時間が流れた。なんという優しい眼差しなのだろう。鏡に映る自分を不意に覗いてしまった時の、胸を刺すような痛みと驚きとためらいが私にあった。彼には旅行者に見えない落ち着きがあり、この街にすっかり慣れ親しんでいる住人のようだ。小さいショルダーバックを左肩にかけ、幼い顔だちをしているが大人びた表情も時折見せ、私と同じ年齢と思われる細身の日本の青年であった。彼と私は見えない糸に操られるように、ほぼ同時に頭を下げた。カタルーニャ広場前のカフェに入った。会話が自然に運ばれたが、ここでは日本語を話すことに事欠かないくらい日本人が似よく会うんだ、という皮肉を忘れない。彼が昔からの友人のように感じられて仕方がなかった。会いたいと思うときに連絡が取れないというただ一つのことを除いては。旅の道が私の脳裡に横たわっていて、それ故に名前も住んでいる場所も聞くことをしなかった。私より二歳年下のおっとりとした物腰の留学生であることが分かった。先生からイギリス旅行に誘われているが費用がなくて行かれないんだと、と彼は寂しげに言った。私の止まっている宿に行こうという話になり、店を出て二人して石畳の道を歩く。どっしりと構えたカテドラルが曲がりくねった道の建物の向こうに見える。左手の小道を辿り宿の前に来た。階段を上って部屋に入った。閉じた鎧戸の隙間から縞模様の光が寝台に落ちていた。私は寝台に座り、青年は洗面台の前の椅子に座った。闇に慣れた私の視線は、かすかに浮かび上がる彼の唇と瞳と眉の消えていく辺り、闇に被われている耳のくぼみに向けられた。少年時代の彼の幻影が私の脳裡に立ち上がっては闇に投げ出され、再び眼前に現われたように思われた。


 あたりの静けさの中で、毀れた窓ガラスのかわりに張ってあった、黄色く褪せた古新聞がかすかな神秘的な音を立て ていた。「なんて微妙なんだろう」とわたしは思った。(略)いったい、誰がー―あるいはなにがーーこの貧しい部 屋の中で、このようにひそかに自己の存在を告げているのだろう?(略)「あれはスペインの新聞だ」と、わたしは さらに思うのだった、「わからないのは当たり前だ」ジャン・ジュネ「泥棒日記」朝吹三吉訳


 一九三二年、二十歳であったジュネはバルセローナのランブラス通りを横に入ったところの支那街巣食っている乞食集団の中にいた。そこでスティリターノという男に出会った。セルビア人の脱走兵であった彼の片方の腕は手首から下は切断され、なかった。ジュネはサルバドールという男との暮らしを捨て、スティリターノのもとに走った。背が高く、逞しい体格の、淫売婦たちを美貌で引きつけていたこの若者に誘われて彼の安宿に転がり込み、彼の窃盗行為の片棒を担ぐことになる。男色家相手に稼ぐこともあるが、スティリターノは彼らを軽蔑していた。彼は綿をつめた作り物の葡萄の房をズボンの内側にピンで留め、男色家たちの気を引いていたのだが、部屋に帰った彼のそれを外すのが右腕となったジュネの役割であった。ある日、その房を両手に入れ頬擦りをした。それを見たスティリターノはジュネを足で蹴り、拳で殴った。いく日かして、明け方近くに彼が帰ってくるのを待っていた時、古新聞のかすかな音が彼を不安にした。


 わたしは異郷にある思いをひしひしと感じ、そして神経の昂ぶりが、わたしを、――ほかに適当な言葉がないため――わたしが詩と呼ぶものに浸透されやすい状態にするのだった。(同前)


 私は明日にもここを去り、スペインの他の街を彷徨うだろう。旅の意義はどこにあるのか。雲のようにさすらうだけではないか。彼のいなくなった部屋で一人、胸の空隙を埋められずにいた。もう陽は落ちてしまったようだ。光の射し込まなくなった部屋を濃い闇が満たしている。壁に架かった絵のマリアの頬を伝う、血のような紅い涙も今は闇に消えて見えない。



マドリード発、パリ行き/小林稔詩集「蛇行するセーヌ」より

2016年07月14日 | 小林稔第6詩集『蛇行するセーヌ』

詩集『蛇行するセーヌ』(全127ページ)



目次
           
                      表紙の写真〓ウジェーヌ・アジェ「ATGET PARIS」より

1・マドリード発、パリ行き
2・ノートルダムの黒い男
3・ルーブル美術館初訪
4・アンバリッドとロダン美術館
5・Rue Herran 75016
6・カナリア諸島
7・アンモナイト
8・アリアンス・フランセーズの日々
9・シャルル・ド・ゴール空港
10・美の薔薇
11・ドーバー海峡を越えて
12・ストラッドフォード・アポン・エイボン
13・アンブルサイド
14・スカイ島
15パリとの再会
16・コンコルド広場
17・異国に死す
18・ヴィンセント
19・マルセイユ
20・コート・ダジュールの白い波
                          (許可なく本文の転写を禁止致します)

連載第一回
 1・マドリード発、パリ行き




マドリード発、パリ行き





 時の流れに残され夜の闇に沈んでいる旅の記憶が、踏みしめると枯葉
が崩れる乾いた音、路上を疾走する車が通り過ぎて私の身体をすり抜け
る微風に、今ここぞとばかりに甦る気配で歩みを止め空を仰ぐ。あの時
も確かに脈打っていた心臓の鼓動、青春時の苦悩と夢が胸を締めつけて、
人生という旅の途上にいる私にその在処を伝えている。


 アフリカのスペイン領セウタから渡航して再びアルへシラスに還った
のだが、モロッコのタンジェールに向かう時の心境とはなんという相違
だろうか。イスラムの影に引き寄せられるように彷徨し見たスペイン、
ポルトガルでの事物が、私の感覚に何ものかをすでに刻み、ジブラルタ
ル海峡の彼方の土地を踏もうとする私は、歓喜と不安で張り裂けそうな
胸を抑えられずにいた。アンダルシアの街々に足跡を残しアフリカ大陸
に近づいて行った時の、心の動揺をなだめすかしたスペインの明るい光
は、私に放浪の持つ喜びを与えた。今振り返れば、青春の盛りを迎えて
いたあのころの私を、石畳の路地裏に置いて来てしまったように思える。
だが、モロッコというイスラム圏を通過し終えた私は、スペイン人の鈍
く弛緩したような眼差しに苛立ちさえ感じていた。モロッコから帰還し
た私の心は、その先の未知なるものに向かっていたのである。


 海沿いの大通りを横切って、鉄道駅を左手に見ながら緩やかな坂道を
登って行くと、右にカーブして細い通りに出た。古びた民家を挟んで宿
屋が軒を並べている。扉を背にして椅子に腰を降ろし身を屈めている一
人の老いた男がいた。私の足の動きが眼に入ったのだろうか。疲労と眠
気からか焦点の定まらない眼差しで私を仰ぎ見た。
「どうだい、泊まっていかないかね」
一週間前に宿泊した私を憶えていないのだろうか。あの時と寸分違わぬ
表情である。モロッコの帰りに寄ってくれ、と私に約束させたではない
か。おそらく分かっている。だが私のような旅行者がとりわけて特別の
ことであるはずがない。
にわかに夕闇が辺りに立ち込めていたことに気づいた。そうだ、一週
間なんてあっという間に過ぎ去る時間なのだ。一つの旅が終わった、と
いう思いがいっそう明確に感じられた。私は老人に眼で別れを告げ鉄道
駅へ向かった。今来た坂道を下りて行くと、アルヘシラスの小さな駅に
着いた。灯りを燈さず駅舎が闇に包まれている。掲示板に書かれた白い
文字で、夜行列車の発つ時刻をようやく確認した。


 マドリード行きの列車が静かに発車した。冬に向かう季節の中で、新
しい旅が何を私にもたらしてくれるのか、期待と不安で胸をいっぱいに
しながら、残照が落ちて血のように染まった海、静かだが一時も休息す
ることのない海を見ていた。運命の手がいつも私を携えて行ったが、不
定の未来に私を導き入れたのは、詩人であることの内的要請であった。
こうして私に書き継がせているのもまたそれなのである。


 翌朝、列車がマドリードに着くと、リュックを受け取るため、ペンシ
ョン、サン・ミカエルに駆け込んだ。右目が義眼の女主人が以前と同じ
ような笑顔を浮かべて私を迎えた。アンダルシア、モロッコを旅してい
た一ヶ月にも満たない期間であったが、懐かしく感じられた。私のリュ
ックは食堂の暗がりで口を紐で結わえられ、預けた時と同じ位置にあっ
た。すっかり慣れ親しんだマドリードの街。都会に特有の喧騒と群集に
紛れ込む爽快感を全身で受け留めた。サン・アントニオ通りを歩いて、
いつしかグラン・ビアと名を替えている、大河のように広がる通りに面
して大きな書店があった。通りに向けたガラスの棚に置かれた分厚い画
集を飾っているミケランジェロの絵が、私の視線に飛び込んで来た。シ
スティナ礼拝堂の天井に描かれた有名な絵、神の指がアダムの指に触れ
ようとする瞬間を捉えた絵である。マドリードにプラドがあるようにパ
リにはルーブル美術館がある。しばらく絵を見ていなかったことに気づ
いた。ヨーロッパの中心に一刻も早く身を置き、芸術家の天分に触れ、
創造というものが持つ精神の流動に巻き込まれたい。明日はこの街を去
り次の寄留地と決めていたパリに赴き、そこで冬を越すだろう。春にな
れば旅を再開する。イタリア、ギリシアに遊びトルコから陸路でインド
まで辿る、気の遠くなるような旅の時空が横たわっている。だがほんと
うに可能なのか。触れたことのない国の文化に寄せる想い、その渦中に
身を置き、何を考え何を感覚でつかむことになるのか知りたい、という
想いだけが私を前方へ突き進めていた。


 脳髄を鉄の車輪が轢いて行く、雷鳴のような轟音を鳴り響かせて。マ
ドリード発パリ行きの列車が記憶の闇から闇を走っている、一つの旅の
終わりからもう一つの旅の始まりに向けて。こうして私がペンを走らせ
ているのも記述という旅の始まりである、歌うことによって死者を甦ら
せるオルフェのように、言葉に綴ることによって息を吹きかけられた事
物が、私という身体が欲した旅の経験にどのような意味をもたらすのか
は誰にも分からない。なぜ書くのかという命題が誰にも知り得ないほど
に。だが、記述する経験を終える私は、確実に変わることができると信
じられた。私は書き続けなければならない、旅の意味を解読することが
私の未来を切り拓いてくれることであるという限りにおいて。


 列車のコンパートメントに独り私はいる。どのコンパートメントにも
乗客の姿が見当たらない。今日は十一月十二日。七月二十九日に出国し
たので持って来た服装は、ほとんどが夏物であったが、青いセーターを
一枚入れていたことに気がついた。パリはずいぶんと北に位置する。寒
さが厳しいのではないだろうか。そんなことを思いめぐらしていると、
レールを転がす扉の音がした。そこに異様に背の高い青年が現われ、頭
を下げくぐり抜けるように入り私のいる座席の向かいの座席を占領した。
私と同じような身なり、ジーンズとくたびれたシャツを纏っている。私
たちは挨拶をしてすぐに口を閉ざした。細い黒のフレームの眼鏡をかけ
ている彼は、レンズを通して、時々私の方に視線を向けて、リュックを
開き、衣類、本などを一つ一つ取り出し確認している。視線をこちらに
向ける彼の青い瞳がどことなくうつろに見える。夏が終わって出会う若
い旅行者には寂しげな様子がつきまとってしまうものだ。私もそうした
一人に違いない。私はスペイン、ポルトガル、そしてモロッコで過ごし
た日々を回想したかったので話しかけずにいた。そんな私を察知してか、
青年は荷物をしまい込むと、リュックを肩にかけ無言で出て行った。別
のコンパートメントに行ったのだろうか。私と話をしたかったのかもし
れない。コペンハーゲンの青空市場で買った薄手の古着のジャンパーを
取り出して着た。思いついて、マラケシュで値切り手に入れたジェラバ
をリュックの底から出し頭から被った。立ち上がって車窓の闇に映る自
分のきつい眼差しを見た。フードで切られた視界から、扉の硝子越しに
見える通路に視線を投げた。ちょうど紺色の制服を着た中年の駅員が通
り過ぎるところであった。私の視線に遭い、ちょっと怪訝そうな眼つき
で私を見た。一瞬立ち止まったが、私に声をかけることもなく、そのま
ま立ち去った。仕立てられた一枚の布。それだけでイスラムの国の青年
になりきれる自分がおかしかった。モロッコで出逢った男たちには、彼
らの鋭い視線から、時間の概念を超えた物静かな旅人の様相が読み取れ
た。この世こそは旅であり、さらにこの世は仮の住まいという、日本人
の無常観とどこかで通底しているものさえ感じた。スペインでもポルト
ガルでもイスラムの影が感じられはしたがキリスト教文化と混血した独
自のものであり、過去の遺産として今も存在しているところがモロッコ
との違いである。グラナダでは滅びを寸前にしたモーロ人の、イスラム
と渾然となったこの世への想いの深さがアルハンブラの庭に具現したの
ではないか。そこで私が過した時間との絆は生涯断たれることはないだ
ろう、と思った。私の旅は、要約すれば「私」の探求なのである。美に
喚起することは己に目覚めること、もう一人の自分に出逢うことなのだ。
自分を見つめるもう一人の自分がいて、静かに流れる水の音を聴きなが
ら、大理石の列柱が林立する閉ざされた庭で想いを廻らした時間。それ
は私のうちでいく度となく反芻されるに違いない。見上げれば甍の向こ
うの、抜けるような空の青さが、吸い取られそうな私の心の鏡面を照ら
した。


 車窓には、夜の闇を隔てて私の身体が映し出されていた。列車はパリ
と私の距離を狭めるために全速力で走っている。北欧を南下して来たの
だが、パリを避けてさらに南下したのは、旅する私を全否定するような
予感があったからだ。今は迷わずパリという都会に向かっている。これ
までの旅に決着をつけるために行くのだ。この街に着いたら、真っ直ぐ
に中央郵便局に行き、両親と友人からの手紙を受け取る。旅先から手紙
で伝えておいたからきっと届いているだろう。旅には、訪れる順序とい
うものがあるのではないか。なぜなら、旅においても人は成長するから
だ。国境を越えて隣国に入ると、その相違に驚いてしまうが、ほんとう
はそれほど突然ではないのだ。旅をする人の心も同様である。その時々
に考え、必然の意図を手繰り寄せていく時、道は拓けるだろう。計画通
りに進行しなくてもよい。その時々考えればおのずと道は拓けるだろう。
何もかもが新しい体験である。私の前に立ちはだかるのは混沌とした何
ものかであり、生きる時間の流れの中で明晰にしていけばよい。この作
業は忍耐を必要とする。創造行為に携わるすべての人々が耐えようとし
た。明晰化することは言葉を発見することである。それを怠ってはなら
ない。パリをこよなく愛し、憎悪したシャルル・ボードレール。私に詩
を書くことを決意させたアルチュール・ランボー。数え切れないほどの
芸術家を呼び止めたパリが、伸ばせば手の届きそうなところにある。初
めて会うパリは、異邦人の私をどのように迎えるだろうか。

 
 列車がガタンという音を立ててカーブした。よろけた私はジェラバの
裾に足を取られ座席に転げ落ちた。心臓が早鐘のように鳴り始める。ア
ディオス、エスパニョール。かつて耳にしたスペイン語の乾いた響きが
脳裏でざわめき出した。旅の途中で出逢ったいくつもの顔が眼前に浮上
して、おかしくなり独りで笑った。心はフランス国境を通過したばかり
の列車を離れ、パリに飛び立ち始めた。眠りについて小刻みに揺れてい
る私の身体を置き去りにして。


 (第一回終了)
 





永遠と夏/小林稔詩集「砂の襞」より

2016年07月13日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』

永遠と夏
     小林 稔


かつてテラと呼ばれたこの島
古代の遺跡から掘り出された壁画の
赤土のような皮膚をした彼らの裸体
首筋を剃り 巻き毛を垂らして腰を突き出す
ボクシングをする二人の少年のように
どうしたことか 君とぼくはサントリーニ島にいて
照りつける夏の陽射しに 全身を焼かれている
海を少し隔てひっそりと浮かぶ小島
海底に沈んだという 伝説のアトランティスの火山から
灰がこちらに吹き寄せられた断崖に
レストランやカフェのある
外壁に視界をさえぎられた坂道を 
ぼくたちは歩いていた

七つの島を廻るぼくたちの脳裏に絶えずあった
アテネで見た巨大なブロンズのゼウス像
世界を統治する力と調和に全身をゆすられ
兄弟であろうとさまよい出たぼくたちに
一撃を喰らわせる父なる存在
君を倒そうともくろんだことはなかったが
家の庇が影を落とすように ぼくの存在によって
君は傷口をひろげ 化膿している
(すべてを失いつつある兄であるぼく)
知と財産を共有できないのは当然だ
生きるとは不可逆性であるから
(二つの道はどんどん離れてゆく)
富の不均衡と嫉妬は消滅しない

ミューズに導かれたぼくは
いっそう不可解になる迷路で
運命にあそばれる狂人のように
他者になる夢を棄てられない
北極の氷塊に立っているような断崖で
海と空の青に溶け合った 
青春の残された日々が染められる
この白い建物とゆがんだ道を
裸で歩き回ったぼくたちの
宿命のボクシングは 終わりそうにない