ヒーメロス通信


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ルートヴィッヒの耳/小林稔詩集「遠い岬」より

2016年07月10日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

ルートヴィヒの耳
        小林 稔


深夜、部屋でひとりピアノソナタを聴く。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの、
記憶から放たれた無垢な音の跳躍が始まり
歳月を紡いでいく旋律がページを繰るように
つぎつぎと変奏され、螺旋をつくりながら
翳の深みへと墜ちていくのであった。
だが一小節目を耳にした瞬間から、
今日は何かが違うのだ。
いつも支えていた足場が引き抜かれたように
意識がその先へ先へと墜ちていく。

ピアニストになぞらえ、身体が動く。
音の高低の距離を指先と腕の所作で計り、
想像裡の鍵盤の左右に十指を落とす。
突然の沈黙にそのまま指を宙に浮かせ、
軀の動きを同時に停止させ間を取る。
腹部に重心を据えペダルを踏んで、
左手の人差し指を白鍵に深く沈める。
稲妻のようなアレグロからアンダンテに移ると、
一音一音が右手の指から静かに浮き立ち留まる。

外套を脱ぎ捨てるように
自己から退却したベートーヴェンが、
最高峰の頂から地上の己に視線を向け、再び地上に還ると
創造者である己の運命を受け入れた。
芸術家とは詩人とは、群衆にあって孤立した存在。
不可逆なこの世の生を修練しつづける。
一日を一生の喩えに日々を迎え送る
芸術家像に詩人像に、己を近づける。

もうひとつのピアノソナタが流れている。
三連符がしづしづと闇にひろがりつづけ、
夜の静かな海に月の光がこぼれ落ち
波に運ばれ腕の入り江に寄せてくる。
次の楽章の凡庸さが何事もなく通過し終え、
いつのまにか第三楽章に転移する、
プレスト・アジタート、きわめて速く激情的に。
悔恨と焦燥の馬が地上の果てから果てを駆け抜け、
残された命を燃えつくそうと力走する音たち。
これはルートヴィヒの耳だ。
世界の事象を流動する音に変えた、ルートヴィヒの耳だ。

  すべての生きるものが死を遁れえないならば
  街々を越え、群衆を越え、山々を越え森を越え、
  国境を越え、河川を越え大陸を越え、海原を越え、
  突然に失速し、踵を返して振り向くと
  遠方に塵のように矮小な己の姿が見えるだろう。
  すべての生きるものが老いを迎えるならば、
  老いを加速させ疾走した時間を遡行せよ。
  生まれたばかりの嬰児の視線で世界を見つめよ。

今夜、いつも聴いていたベートーヴェンの音が、
初めて耳に触れたように意識の深みへと墜ちていく。
古井戸のつるべに石を降ろしていくと、
もう一方のつるべから花々が立ち上がるように
この一瞬が永遠の輝きに満ちあふれて。


 詩集『遠い岬』以心社2011年10月20日刊 初版200部 2000円 ISBN978-4-9906200-0-4C0092
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