ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

轍ー記憶を滑り落ちた三つの断片/その二・小林稔

2016年06月13日 | ヒーメロス作品

轍ー記憶を滑り落ちた三つの断片/その二・小林稔

二、分岐と共有

 

  「さあ、修行僧たちよ。わたしはいまお前たちに告げよう、――もろもろの事象は過ぎ

去るものである。 怠けることなく修行を完成させない。久しからずして修業完成者は

なくなるだろう。これから三か月過ぎたのちに、修業完成者はなくなるだろう」と。

    尊師はこのように説いたあとで、さらに次のように言われた。――「わが齢は熟した。

わが余命はいくばくもない。汝らを捨てて、わたしは行くであろう。わたしは自己に帰

依することをなしとげた。汝ら修行僧たちは、怠ることなく、よく気をつけて、よく戒

めをたもて。その思ひをよく定め統一して、おのが心をしっかりとまもれかし。この教

説と戒律とにつとめはげむ人は、生まれをくりかえす輪廻をすてて、苦しみも終滅する

であろう」と。(大パリニッバーナ経 第三章五一 中村元訳)

 

 商店が所狭しと軒を並べている大通りに人びとがあふれ往来している。人々の投げる眼

差しは温和で、インドで見た雑多な民族の鋭いそれとはなんという違いであろう。仏教徒

本来の優しさが感じ取れるようであり、次第により近く日本が迫ってくるように感じられ

たのであった。ヨーロッパのさまざまな国、アフリカのモロッコを彷徨した後、それらの

文化の終結地、パリの屋根裏での滞在、Aとの日本での離別とパリでの再会、そこからイ

ギリス、イタリア、ギリシアからトルコと、イスタンブールから東へ東へと向かった私の

一連の旅は、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インドへと刻んだ足跡を、私の記憶

の渦中に置き去りにして、老いに向かう時間の高波に翻弄され、いまも生成をしつづける。

「書く」という祝福とも悲惨ともいうべき「宿命」に身を任せながら、人生の終わりまで

止むことはないであろうと思い定める。

 

 十二月ともなれば寒いのは当然である。衣料品店を覗き、ヤクという動物の毛で織った

ショールを買い求め、首から胸を包んで歩いた。この一枚ですっかり土地の若者に変身で

きた気になれるのが不思議である。彼らと見間違えられるほどに長旅で服装は汚れていた。

私たちの視線は還るべき場所をなくした人のようにどこか虚ろであったが、ネパール人と

血の近しさを感じたのであった。ヨーロッパからの貧乏旅行者も多く見かけたが、彼らに

は異文化体験の地であり、私がヨーロッパで感知したものと同様であったであろう。

 

 ハヌマン・ドーカという宮殿があり猿の神様の彫像が私たちを睨んでいる。通りを挟ん

で生き神に選ばれた少女を住まわせる習慣のあるクマリ・デヴィと名づける寺院がある。

ヒンズー教の寺院であろうが、インドのそれとはなんという違いであろうか。黒の木彫り

の窓枠がどこか日本の民芸品を思い起こさせる。渇いた土の匂いを感じさせる美学は、こ

の国独自のものだ。インド人の視線は彼岸に注がれているのに、ここではすでに彼岸に辿

りついた人の穏やかな視線と感じられる。それは彼らの造った真鍮の、大きな頭を傾けた

黄金(きん)の仏像に表象されていると思われた。

 

パタンは首都カトマンズから数キロ離れたところにある古都である。その張り巡らされ

た路地を抜け出ると石を敷いた広場があり、そこを囲むように二重の塔、三重塔がつつま

しやかに姿を見せている。Aと私はそれらを見て廻る。私たちの旅の終わりに何という似

つかわしい光景だろうか。かつて訪れた興福寺や法隆寺を思い起こした。放浪を重ね辿り

ついた私たちにもろ手を挙げ、大きな胸に抱え込んでしまいそうな存在に感じられ、きつ

く締めた紐の結び目を緩めてしまいそうで、いっそう胸が締めつけられた。Aはこらえき

れず涙で頬を濡らしている。喜びと哀しみに同時に襲われたような感動が私にあった。源

泉を同じくする異文化と言うべきか、一つに共有されるものがあり、しかも道を分(わ)か違(たが)え

しなければならなかったという宿命。互いに異国人であるのは偶然に過ぎず、その、私た

ちを結ぶ闇の彼方、歴史の長大な時間と空間を突き抜けて、眼前に見えるものを通して、

感覚が奔走したような経験であった。それを証とする言葉が、私の中から生まれ出ようと

もがいていたのである。こうして旅の営みを観想する、四十年後の私もまた――。

 

パタンからさらにバスに乗りパドカオンというもう一つの古都を訪れた。王宮の茜色の

土壁にいくつもの黒い木製の窓が嵌め込まれ、いっそう郷愁を呼び起こす光景である。こ

のかつての王宮は現在博物館として使用され、密教の曼陀羅が展示されていた。王宮広場

を囲む煉瓦のいくつもの建築物と寺院、それらを通り抜け交差する道の佇まいを透視する

私の眼には、私の放浪のすべての意味がここに凝縮され具現化されているように映った。

見えるものが私の旅の思考に内省を強く要請しているようであった。

 

――父よ、ぼくは旅に出ようと思います。あの山、この海の向こうに、ぼくの知らない

世界があるといいます。どんな人々が暮らしているのかを見たいのです。

――おまえのような臆病者が行けるところではないだろう。

父は息子に笑いを返したが、自分が遂げられなかった若い頃を思い、わが子の決意を誇

りに思うところがあった。そして長い旅から故郷に戻った息子を喜び迎える父に息子は心

を移さず、直ちに踝を返し再び旅発つのであった。

パゾリーニの映画「アラビアンナイト」の、この一場面が私の旅立ちを後押ししたので

あったが、「 書く」ことを求めつづける生の「真理」から考えるならば、この話の意味す

るものは何かを、私はこれからも探しつづけるだろう。

 

人生は旅の途上であるという諦念にも似た想いで輪廻を体得している人の、全ての物象

に対する一期一会への想いが彼らの物を見る眼差しから感じられた。おそらく風土が彼ら

の宗教心を育み、町の外観を構成し、彼らの表情を変えたのであろう。中国人とも日本人

とも違う彼らの慈愛の眼差しは、旅人がこの世を見つめるそれなのだと思った。日本に帰

りたいとしきりに願うAの眼に映るこれらの光景はどのようなものだったのであろうか。

横浜の埠頭で、私の出発を見送ったAのその時の想いと、私の身を案じて一人パリにやっ

てきた時の想いを、これまで私は深く考えてみることはなかった。そのAが自分を喪失し

たと嘆いているのであった。

 

「私は何を見て、何を感じ、どのように変わるのかを見とどけよう」と旅の日記に、ある

日の私は書き留めた。旅の途上で旅を思考する、それは思考する自分を観察するもう一つ

の眼差しをもちつづけることではないか。旅で出逢う事物の深みに思いの錘を降ろすこと

だ。旅から帰還しても私の旅は終わらないだろうと思った。人生が旅である限り、私を見

つめるもう一つの眼差しは絶えず存在し、事物の意味を解き明かそうとするだろう。水の

ように流れ行く時間の中で、自然と出逢い、事物と出逢い、その表層が見せる美こそが存

在の本質ではないのか。それゆえ世界は生きるに値するし、旅人の事物に注ぐ眼差しには

惜別の哀しみがある。存在の本質は問いをいつも含んでいて想いを流離(さすら)わせなければなら

ないのだろう。そして、いつかついに存在の深みで虚無に出逢うのだ。


長期エセー「自己への配慮と詩人像」(二十五)その二・小林稔

2016年06月13日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

長期連載エセー「自己への配慮と詩人像」(二十五)その二・小林稔

48日本現代詩の源流を求めて

萩原朔太郎における詩人像(二)

朔太郎の詩が抵触したヨーロッパ詩の経験

 

 日本の詩という文学は、それの発生上における文化的『必然性』が欠けているのである。……もし超現実派という言葉を皮肉に使えば、生活的現実性がなく、現実を遊離していることにおいて、日本の詩はすべて皆超現実派であり、日本の詩人はすべて皆シュルレアリストである。この一切の原因は、要するに日本の詩人らが、真の理性的批判力を持たないことに帰着する。……いったい日本の詩人という連中は、昔の歌人や俳人時代から、伝統的に感応や趣味の上で鋭い感受性を持っているが、理性人としてのエスプリを少しも持っていないのである。……彼ら(ヨーロッパ人)の芸術の中に本質している、エスプリとしての哲学を掴むことができないのである。

     (朔太郎、一九三七年刊エッセイ集『詩人の使命』所収の「理性に醒めよ」からの一節、途中省略)

 

 

朔太郎には日本近代詩のヨーロッパ経験に対する批判を述べた多くの評論がある。全てを現代詩に当てはめることには無理があるが、現代詩の詩人に内在する問題を指摘すると思われる箇所もきわめて多い。朔太郎の初期の詩には、フランスへのあこがれを歌った「旅上」という詩があるが、実際にヨーロッパに行っていない。しかしヨーロッパの模倣から出発した日本の近代詩を深く探求することで、朔太郎の詩が初めてほんとうの意味でヨーロッパの詩に触れたと言ってよいのではないかと思う。つまり朔太郎は詩作という創造行為でヨーロッパの詩の中核に触れたということである。そのことを篠田氏の評論から示唆されるままに論じてみよう。

ヨーロッパの詩、特にシェイクスピア、テニスン、ロングフェローなどの英詩が『新体詩抄』では紹介され島崎藤村らの文語自由詩に影響を与えたが、その後、象徴詩は、北村透谷から試行され、蒲原有明や薄田泣菫によって進められた。象徴詩と言えば、篠田氏の言を待つまでもなく、ボードレールに始まり、マラルメに引き継がれた近代ヨーロッパの基本的な詩法に集約する。このフランス象徴主義を唱導する詩が日本の詩壇にも登場し始める。前記した三人の後に北原白秋や三木露風が後期象徴派として現われた。篠田氏によれば、これらはすべて「ヨーロッパの詩的意匠と、すでに枯渇化した伝統的な詩的形式(短歌や俳句)との安易な接木作業」であり、朔太郎の『月に吠える』において、「明治開国以来、ヨーロッパ文学を中軸とする、いわゆる世界文学のコンテクストをはじめて目前にして、ついにみずからのコンテクストに選ばざるを得なくなった近代文学の運命の最初の詩的実現」が可能になったという。しかし朔太郎の詩境は、口語自由詩の伸びやかな技法は決して意気揚々としたものではなく、朔太郎自身、「内面において危機を感じていた」であろうという。「自在に動き回る言葉と音に対応するだけの思念の世界の空白、もしくは欠落を痛切に感じとっていた」。しかし、『月に吠える』や『青猫』で展開した「ファンタジーの世界」に朔太郎は「耽溺することなく、これに対していわゆる自然主義的な目を向けて、四囲を観察し、自己の内部との距離をたえず目測し、夢が破れ、おのれの内部の空しさが露呈する瞬間をあまりにも敏感な姿勢で待ちうけていた」という篠田氏の鋭い詩的は傾聴に値する。つまり勝利を得るのは夢か、自然主義の目か(自然主義の定義が問題であるが)ということであり、そのことを見失っては『氷島』の世界は理解できないであろうという。そこでは「夢はますます深く、深刻な様相を帯びてくる。夢みることがもっとも深刻な現実であることを、物の見事に実現したのが朔太郎晩年の詩境」である。そこにおいてこそ、「詩のイデー、つまり詩形式によってはじめて把握でき、さらに理解されるイデーが確立されたのである。」これこそ朔太郎が「ヨーロッパ・アメリカにおけるサンボリスムの現代的展開の一環としてその正当な位置を要求することができる」と篠田氏は主張する。つまり西洋模倣の時代を朔太郎は終結させたのである。その後現われたモダニズムの文学運動とプロレタリア運動に分化して戦後詩に問題を残していくが、朔太郎の詩境におけるヨーロッパ詩の経験において、日本の詩がヨーロッパの詩の伝統に初めて接続された。要因として考えられるのは、朔太郎の文学に初めから一貫して見られる、文学と現実の一致、あるいは一致を可能にしようとする強烈な願望であると私は考える。朔太郎の詩は、『氷島』に向けて生成したと言ってよいだろう。

さらに留意すべきは、朔太郎の詩的世界はボードレールが近代ヨーロッパに果たした同じような意味を、ひとつの巨大な水源地になっていくつかの水脈が流れ出すように、日本の近代詩や現代詩に持っていると篠田氏は主張する。その水脈のいくつかは、三好達治であり西脇順三郎であるという。水脈とは、かつてヴァレリーが『ボードレールの位置』で語ったように、水源から溢れだした一部分である。ヴェルレーヌの、「内奥の感覚及び、神秘的感動と官能的熱烈の力強く混濁した混合」、ランボーの「出発の狂熱、宇宙によって掻き立てられる焦燥感、諸感覚とそれらの諧調的反響との深い意識」、マラルメの「形式的並びに技術的探求、完璧と詩的純粋性」の延長というように分化していったとヴァレリーはいう。

それでは三好達治と西脇順三郎に流れた水脈とはどのようなものか。篠田氏は、『月に吠える』は日本の「近代詩」の独立宣言であったというが、詩的言語の輝かしい顕示であるとともに詩の危機も暗示していたという。「陽のあたる部分」と「影の部分」があり、朔太郎自身が「影の部分」に自ら復讐され、「郷土望景詩」と『氷島』で必死の脱出をしたのであったが、被害妄想に冒されていた彼が、この脱出をどれほど自覚していたかは疑問であるという。その「闇の部分」を継承したのが三好達治であり、「陽のあたる部分」を継承したのが西脇順三郎であると篠田氏は指摘する。「影の部分」とは何かは後述することにして、三好達治も朔太郎同様、口語自由詩形の確立を追い求めたが、伝統的定型詩形も可能性を認めていたという。彼を理解するには、初期の『測量船』だけでなく後期の作品を論じなければならないが、それは別の機会に譲ることにして、今回は、「朔太郎の詩業を世に伝えた最上の詩人」と篠田氏が称する三好達治が、朔太郎をどのように分析していたのかを読むことで、彼の朔太郎像を掘り下げ、その賛否を考えてみよう。

 

「ロマン的気質における志気」

昭和三十九年刊行の三好達治全集第五巻には、萩原朔太郎についての評論が集められている。その中の「萩原朔太郎詩の概略」に朔太郎の自然主義文学精神が指摘されている。朔太郎の詩の出発は「愛憐詩篇」にあったが、その中でも初期の作品である「夜汽車」や「こころ」の詩を引用し、北原白秋の『邪宗門』『思い出』の「粉飾体」の影響が朔太郎の詩にいかに少ないかを指摘する。「こころはあぢさゐの花」「こころは二人の旅びと」「わがこころはいつもかくさびしきなり」といった「素朴でぶっきらぼうな日常口語に近い口吻」など、白秋の詩からは「遠く異質の本質に根ざしたもの」であるという。

 

静物のこころは怒り

そのうはべは哀しむ

この器物(うつは)の白き瞳(め)にうつる

窓ぎはのみどりはつめたし。「静物」

 

右に引用した、「夜汽車」「こころ」の一年後の「静物」に至っては「簡素をきわめた作」であり、朔太郎自身が「きっぱり明確に自分の道を見出し始めたことだろうと推測される」といい、「再会」においては、「論理の飛躍、時間と空間の先にいったような錯雑と混乱」があり、「ふだんはかくれて睡ってゐる精神の潜在能力が触発され目ざめる」という満足を「再会」を前にして覚えるという。つまり「白秋における象徴主義は朔太郎におけるそれに転化して新しい展望を得た」のだと述べている。中村稔氏は最近の評論集『萩原朔太郎論』(ニ〇一六年二月青土社刊)において、室生犀星の『抒情小曲集』の「小景異情」には「短歌的抒情がまったくない」ことを指摘し、朔太郎の短歌的決別に大きな影響を与えたという。

三好氏は、「夜汽車」「こころ」から「静物」「再会」に至る間に朔太郎は何かを発見したのだと指摘する。それらを三つに要約すると、一つ目は後期象徴詩の粉飾と、外面上の均整と、無用の積み重ねと、横すべりと思わせぶりへの洞察、二つ目はその反撥としての素朴な人生への結びつきと、生活感情への直接な話しかけ、三つ目は、詩句の連関連想からする切り崩しあるいはその組み換えである。三つ目の発見は『月に吠える』への大きな飛躍に有力な契機を見出し実現されたという。

 

自然主義、この語をあの人(朔太郎)は徹底的に毛嫌いし敵視していたけれども、その半ばは当の自然主義に対するあの人の身勝手な誤解に根ざしているもののように、私には考えられる。歌人としての石川啄木に自然主義精神の浸潤が根底を成しているのを見るその同じ意味で、同じ程度に根ぶかく、一つの大きな気運としての時代精神、自然主義的精神は、それこそあの人をその前時代詩人たちのグループからきっぱり切り離すところのあるものとして、あの人における最深奥部の支配的なものとして潜在していたのではあるまいか。(三好達治「萩原朔太郎詩の概略」

 

三好氏はさらに朔太郎の蕪村論において、蕪村俳諧の「艶美風流ないしそのロマンチック趣味」には触れず、蕪村の「自然主義的人生観察の鋭い眼差し」に偏り過ぎていることを指摘した。だが三好氏の自然主義の概念は正当なのだろうかという疑問は否めない。三好豊一郎氏の論考『自然主義と象徴主義』によると、朔太郎が反論した自然主義は、エミール・ゾラの「没主観の科学的観察によって描き出そうとした厖大な企て」ではなく「ゾラのペシミスチックな決定論的宿命観のみを、仏教的諦念に養われた日本人独特の生活心情に結合させた私小説ないし心境小説の消末主義と、それへの安住を意味した」のであった。また「彼自身の中の自然主義――宿命観、諦念、因果律、虚無感――との抗争でもあった」。「朔太郎の詩の本質は、常に詩人の情緒的反応が経験を優越し、外的現実が自我の内面に引き起こす感情の主観的リアリティを描き出そうとする傾向の強さ」であるという。文学をその遊戯性から引き離し、現実の生活の次元から哲学的思惟を、普遍性(イデア)へと羽搏かせる朔太郎の詩学は、私にはどこかランボーの「生の変革」を想起させるところがある。前回の論考で私が朔太郎に興味を覚える理由として挙げた、詩人と詩人が生きなければならない現実と詩作行為が一体になっているということである。結果として創られる作品は、単に現実生活を題材にした「身辺雑記」とは非常に異なってくる。

三好達治の朔太郎論をさらに続けると、蕪村論や石川啄木の短歌への共感などにみられる朔太郎の「日常生活の極めて些細な具体的な寒酸な現実への凝視」から判断し、「その詩的世界はある意味では極度に狭められ、それだけ鋭く直接に人生そのものに素朴に接触交渉しようとする傾きが認められる」というのである。つまり、白秋の「装飾体」から切り離したものこそが三好氏の指摘する自然主義であった。この傾向はかすかながら初期の詩から存在し、やがて「郷土望景詩」で完成に達し、『氷島』において極点に達し「無残な頽唐と破産とが同時に併せ齎された」と三好達治は主張するのである。明治後半以後の「時代思潮としての自然主義文学精神と深く気息の相通う一線、手っ取り早く言えば甚だ簡卒に実人生的な傾向を持つ一線は、始終貫いている」と指摘し、「郷土望景詩」の詩境に至ってついに「風霜の気」と呼ぶべき飛躍を示したというのである。「風霜の気」とは世の中の厳しい苦難に立ち向かおうとする意気込みを言うのであろう。そこに「宗教的雰囲気」と「病理的なもの」が加わるが、前回述べたのでここでは省く。三好豊一郎氏が「自然主義と象徴主義」という論考で指摘するように、自然主義というよりも「ロマン的気質における志気」によるものであり、ロマンチシズムの特徴と見るべきであろう。「啄木の自然主義的文学精神が具体的現実的社会的な生活実感の上に成るものであるのに反して、朔太郎の文学精神は、生活なき生活者の夢幻的観念、単独者的観念、単独者的情念を掻き立てる、いわば青年のロマン的気質と人間存在にまつわる実存感による」とし、「魂の安息を導き入れる生活への郷愁にとどまる」。ロマン的反逆精神をボードレールに見、共鳴したとしても、どこまでも現実の生にしがみつき、人間の悪の正体を暴かずにはいないボードレールとは違い、東洋的な諦念のもとで遠いイデアを憧憬しているに過ぎない。かつて朔太郎は、日本の詩人が「現実を遊離している」ことを解いたが、それは自戒でもあった。「理性的なものは全て現実的である」というヘーゲルの言葉を朔太郎は引用したが、理性の長い歴史を持たない日本人とは違い、ボードレールやランボー、シュルレアリズムにおいても、現実を超えることがいかに困難なことであったかは、詩と詩人の人生、その言葉の闘争の痕跡を辿れば知ることができる。私たち日本人は日常と非日常に関心を集約させ、現実と超現実的感覚に疎く、西洋における詩的感覚を共有しない特質があると言える。朔太郎の日常の内実は詩人としての特異なそれであり、己を直視しようとし、己の生を実験現場とする現実であった。