ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

轍ー記憶から滑り落ちた三つの断片(その一)小林稔

2016年06月12日 | ヒーメロス作品

詩誌「ヒーメロス」33号の詩作品の一部を掲載

轍(わだち)――記憶から滑り落ちた三つの断片-その一

小林稔

 

 

一、パトナの渡し

 

    やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。わたしは、あらかじめこのように説いたでは

   ないか、――全ての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。

およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないように、

ということが、どうしてありえようか。アーナンダよ。そのようなことわりは存在しない。

アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身

とことばとこころとの行為によって、向上し来れる人(ゴ―タマ)に仕えてくれた。お前は

善いことをしてくれた。努めてはげんで修行せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう。   

(大パリニッバーナ経 第五章十四 中村元訳)

 

ヴァ―ラーナシー(ベナレス)を発った列車が、パトナ駅に着いた頃には、夜の帳がす

っかり降りて、停電に遭ったように町の建物が暗闇に佇んでいた。窓際にはところどころ

に明かりが点っている。通りに目を向ければ、まばらな人影が往来している。友Aと私は

リクシャを駆って、ガンジス河の船着き場へと急ぐ。岸辺に降り、人の声のする方に歩い

て行くと、すでに停泊している船に乗客が乗り込んでいた。

 

銅鑼を叩く音が暗闇で舞い上がった。ランタンが一つ、甲板に吊り下がっていた。船は

静かに動き出す。水しぶきを立てる大きな車輪が廻っている。暗い船底には、白い布を被

った男たちが座して対になった眼球があちこちで光っている。己にまとわりついた宿命を、

船の横揺れで目測しているような静かな眼差しであった。

 

Aはヴァ―ラーナシーで同宿の男から渡されたハッシシに手を出し吸飲したが、その幻

覚から覚めないと思い込んで脅えるAを気づかい、いったんはインドを去らなければなら

なかった。一か月の滞在であったのに、この闇が私を離れがたくさせる。

 

一時間ほどで船は対岸の町に着く。降りた乗客は一同に鉄道駅に向かう。すでに列車は

ホームに停車していた。船から降りた人々はどこへ行ったのだろうか、列車に乗り込んで

車窓から顔を覗かせる乗客は予想外に少ない。ここからムザファプールへ行き、乗り換え

て、さらに北上し、ネパールとの国境の町、ラクソールへと向かう。ムザファプール駅で

下車し、駅の食堂で遅いカレーを指でつまんで食べた。ラクソール行きの列車が発ち、い

くつもの駅に停車した。

 

夜が深まり眠気に襲われる。途中の停車駅で強盗が乗ってくるかもしれないという恐怖

があった。空いた列車が危ない、と旅行案内書に書かれてあったことを思い出した。パス

ポートと旅費をくるめ込んだ腹巻を手探りし、網棚に載せたリュックを見上げた。

私は少し前から腹痛を起こしている。卵カレーがいけなかったのか、野菜カレーを食し

たAは腹痛を感じていない。乗客の疎らな車両を見渡し、深夜になるにつれ不安が掻き立

てられ抗ったが、睡魔に敗北し闇に溶け入ってしまったのであった。

 

 目覚めると朝だった。列車が停車している。少年の澄んだ瞳が車窓の淵を滑っていく。

内側から追う私の視線と合うと、ヤカンと籠を持って少年は乗り込んできた。お茶を買わ

ないかという。少年は仕事をしているのだ。籠から素焼きの器を取り出しヤカンから注い

でAと私に手渡した。ミルクティーであった。最後の一飲みをしようとすると、舌にざら

ざらした触感が感じられた。砂が混じっているのだろうと思ったが、そのおいしさと少年

の爽やかな笑顔に心が晴れ、久しぶりにAにも笑顔が戻った。

二十分、三十分しても列車は一向に走ろうとしない。あの少年がまた戻ってきてお茶を

買わないかという。しばらくして列車が動き始める。一時間ほどで目的地のラクソール駅

に着いた。下車してリクシャを拾い、一気にヒマラヤ山麓の斜面を登らなければならない。

 

国境を越えると検問所でリクシャを待たせ、ヴァ―ラーナシ―で取得したネパールのヴ

ィザを提示した。そこから細い山道をリクシャは抜けて、ビルガンジーという村でリクシ

ャを降りた。少年たちは私たちを取り囲む。訝し気な視線で私たちとの距離を測りながら、

少しずつその距離を縮めている。土色の肌に黒曜石のような瞳であった。一人の男の子を

先頭に私たちを安宿に連れていくという。後ろを他の少年たちがついてくる。部屋に入る

と腹痛が激しくなり、就寝の間に幾度も目を醒ましてトイレとベッドの往復をくりかえす。

そのようにせわしなく動く私を見て、不安に脅えていたAは思わず笑った。

 

翌朝、薄暗い中をカトマンズ行きのバスに乗るため宿を発つ。バスは山道を激しく揺れ

たが、衰弱した私は眠りで意識を失って、バスの窓ガラスに頭を何度も打ちつけた。Aは

大声を出し私の顔を叩くが、感覚が麻痺している私はAの声を遠くで聞いているようであ

った。霞んで見える車内が夢の光景のようでもあり、眠りの底深く意識は沈み込んだ。

 

どのくらい時が経ったのであろうか。眠りの淵から浮上してわれを取り戻したとき、車

窓から山の斜面に作られた棚田が整然と広がっているのが見えた。Aもそこに視線を向け

ていて、目を醒ました私に気づいていない。一人取り残されたようで心細かったに違いな

い。どこか日本の田舎の風景を彷彿させるこの景色を、Aもまた懐かしい気持ちで見てい

るのだろうか。バスはやがて家々が姿を見せる村の道に入って行った。ついにカトマンズ

だ、と私は心の中で呟くと、胸に熱い一すじの流れが零れ落ちたように感じた。