ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

小林稔第5詩集『砂漠のカナリア』(2001年、旧・天使舎刊)以心社、第一章「カテドラルへの道」から

2012年05月07日 | 小林稔第5詩集『砂漠のカナリア』
詩集『砂漠のカナリア』2001年以心社刊(旧天使舎)
小林稔
第一章 カテドラルへの道 2バレンシア


噴水のあるロータリーを音立てて自動車が通り過ぎる。排気ガスでくす
んだ空の下、ペンションを探し歩いて一日が終わった。私はいつも街から
街を辿り、安宿とレストランを求め、迷路のような道を廻って教会に辿り
着こうと懸命だ。スペインという国は私に心の余裕を持たせない。私を疲
れさせうんざりさせる。だが、私は必死だ。スペインは想像以上に貧しい
国であった。建物が密集して並ぶ都会に、不器用に暮らしをする市民たち。
一体、誰がこれほど多くの車を乗り回しているのか。物乞いの姿も目につ
く。カフェのカウンターの向こうで、十三、四歳の少年が働いている。私
に笑顔でビールを差し出す。窓越しに通りをじっと眺めている無邪気な視
線は何を捕らえているのだろうか。灰皿はないかと、と聞いたら、少年は
床を指差した。床全体が灰皿なのであった。カフェを出て人混みを歩いて
いると、太く大きな声が私の背中で叫んだ。跳び上がって振り向くと、ス
テッキに体重を乗せて歩く、肉付きのいい盲目の女の姿があった。「ロッ
テリアー」再び彼女は叫んだ。歩きながら宝くじを売っているのだ。道端
の椅子を置き、いろいろな煙草を並べて売る老人がいた。私が唯一名前を
覚えた煙草、フォルツーナを買うために名前を発音すると、フォルツーナ
を一本よこした。
 

 教会の扉を開けると、祭壇の前に集う人々がいた。離れたところから祭
壇を敬虔深げに覗き、キリストの像に視線を送ったまま胸で十字を切る、
黒いネッカチーフ巻いた老婆がいた。祭壇の前に跪く人たちに聖体拝領を
施しているのだろうか。司祭は一人ひとりに薄く切ったパンのようなもの
を、彼らの舌にのせている。大きな木彫りのマリア像が祭壇の後に立って
いた。私は仰ぎ見た。マリアの顔から視線を逸らさずゆっくりと祭壇を過
った。あまりにも写実的なマリアの表情に驚く。息子を亡くした悲しみの
涙が、落ちんばかり目頭から頬に点在している。私は荘厳な気持ちになり、
視線を床に落として祭壇の裏手に廻った。再び仰ぐと、脳裡に焼きついた
マリアの顔が一瞬にして、ひっくり返された。私の眼前には後姿が聳え立
っていた。私は誤った感覚をもとにつなぐのにしばらく時間を必要とした。
正面で見たマリアの顔の記憶を、眼前の後頭部にひりつけてしまったのだ。
マリア像の後に立っていることを忘れて影像を持ち上げたのであった。裏
手まで歩いた時間が私の脳裡から喪失していたことになる。現実の時間に
意識が舞い降りたとき、眠っている人が突如起こされ、意識が間隔に遅れ
て夢の領域に留まっているときのように、自分が何者であるか一瞬忘れて
いたのであった。


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