ヒーメロス通信


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コンサートホール、小林稔第八詩集『遠い岬』以心社2011年10月20日刊行より

2012年06月17日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』
小林稔第八詩集『遠い岬』以心社2011年10月刊行より


コンサートホール



闇の深淵から聴衆の咳が響いた
左手から燕尾服の男が姿を現わす
拍手は滝壷に落ちる飛沫のように沸き立ち
瞬時にして沈黙がホールを制す
男は対座するピアノのまえ 不動の姿勢を保つ
恒星からの贈り物 億光年の光の波動を全身で受けるべく
鍵盤に両腕を沈める 一瞬遅れて不協和音が炸裂する
闇を充たし浮遊する音 ゆっくりと
客席の足許の暗がりに消滅する直前
従順な兵士たちの隊列がつぎつぎと倒れるように
男の十指が 左端から右端の鍵盤を駆けぬける

彼は調教する きわめて静謐な猛獣を
老いた機械のハンマーが叩く音の粒子の戯れ
作曲者Fを全身で満たした魂の運動
五線譜に書き留められた音符と表音記号
生涯を音の世界と対峙した演奏者は
Fの追い求めた空の階梯を翔けあがる
事象を星辰のように地上に輝かせながら
さらに越えて浮揚し顕現する場(トポス)に
もはや言葉(ロゴス)がとどくことはない
乱反射する音の敷物の透き間をつらぬく
鉄線のような旋律は 水をえた魚のように
語り伝えられた古い旋律に邂逅する
楽譜をつぎつぎに白紙にし走りぬけた
獰猛な機械になりはてた指という〈いきもの〉は
主のいない情念の痕跡をたどり始めては消されてゆく
(ここに歌というものはなく)
音の原子が地上の喩を解き放ち
凋落しつづける肉体の先端で
かつて戯れ愛でた軌跡を牽引する動きをやめない
あふれる光が事象にふりそそぐとき
ひらかれた扉のむこうに静かに夜の海がひろがる

コンサートホールの前方
光を一点に凝縮させた舞台の中央に
夜の鏡面を展翅板のように立てる一台のピアノ
聴衆たちは にぎやかな街にまみれてゆく






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