ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「火」小林稔詩集『遠い岬』2011年以心社

2016年03月21日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

小林稔

         万物は火から生成し、またそれへ解体する。

                              ヘラクレイトス

 

 

 

鯉がアルミ箱の浅い水に尾をばたつかせる。

火粉を上げる炎が狭いお堂の真ん中で勢いづき

経文が女祈祷の口から怒声のように吐き出され、

炉のまわりにいくつもの赤い顔が数珠のようにつらなり

忍従している――隅々に視線をめぐらす幼い私がいる。

 

燃えている! 斜向かいの家から飛び出した老爺が

手術跡の喉穴から木枯らしのような音を発し、

かろうじて聴き取れた声。大通り百メートルつきあたりに火があふれ、

人だかりを影絵のように現出させた。

小学生の私は魅せらた、事の終末の美しさに。

家の台所で真っ赤になった窓ガラスが熱に耐えている。

 

―――職をなくした男が借金に追われガソリンを浴びて火をつけました。

 

液晶テレビの画面にニュースが流れ、私の耳と眼を引き寄せる。

「黒くこげて倒れる直前にあの人は口から煙を吐いたのです。」

インタビュアーの差し出すマイクに妻は朴訥(ぼくとつ)と語る。

男の焔の影像がふたたび脳裡をよぎり中空に立ち上げる、

引き裂かれた己の存在をかろうじて持ちこたえて。

 

十三階バルコニーの向こうに弧を描く海がひろがり

垂直に昇りつめる太陽。命あるものを廻る水。

その真昼の渇望に水はどこまで耐えられるか。

赤い太陽が忘れられた岬の先端に沈んでいく。

記憶の果てにさらなる闇。絶えざる夜戦がある。

沃土、すなわち経験の地層に撒種(さんしゅ)された未生のロゴスが千のコード

に群がり絡まる。私を呼びとめた言葉を紐解く者よ。あなたを求め、

死後も、ロゴスである〈私〉はさすらうだろう。

 

眼の一撃で世界は燃えつき凍りつく。生まれるまえに捥(も)がれた翼が

ゆるやかに痙攣する。あなたの後ろ姿に叫びつづける。

エクスタシーの波動に導かれ、私はすでにあなただ。



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