ヒーメロス通信


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宗教のはじまりについて。井筒俊彦『神秘哲学』再読(八)小林稔

2015年12月06日 | 日日随想

井筒俊彦『神秘哲学』再読(八)

小林稔

 

 第一部 自然神秘主義とギリシア

 第二章 自然神秘主義的体験Ⅱ

 

存在の謎

 あらゆる存在者の相対性、存在者は在りつつしかも無いものであり、ないものでありながらしかも有るという有無のパラドックスは、存在の核心に纏綿する最大の謎であると井筒はいう。このオルフェウスの宗教的存在体験を最もよく近代文学に再現した詩人としてリルケを挙げ、その有名な詩「秋」を、井筒は俎上に載せ解読する。紹介してみよう。

 

  木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように

  天空の遠い園生が枯れたように

  木の葉は否定の身振りで落ちる

 

  そして夜々には 重たい地球が

  あらゆる星の群れから 寂寥のなかへ落ちる

 

  われわれはみんな落ちる この手も落ちる

  ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ

 

  けれどもただひとり この落下を

  限りなくやさしく その両手に支えている者がある

                      (富士川英郎訳)

 

「リルケが凝視する物たちは、いなむ身振りをしながら降りしきる秋の枯葉のように小やみなく、刻々に、無の暗黒の底深く陥落して行く。しかも、一瞬の休みもなく落下して行くこれらのものを、何処かに一つの者があってそのやさしい両手にそっと受けとめ、刻々に新しい存在を与えている」という。一般的に人は物に名を与え、物を固定化する、つまり相対的事物であることを忘れ絶対視する。人間だけが有する特権である、一切のものは絶えず無に顚落し、その同じ瞬間にまた有に向ってつき上げられながら、永遠にそれを自覚することなく、ただそのまま「永遠の交換」(ヘラクレイトス)を繰り返すばかりであるが、人間のみが忽然としてこの実相が開示される瞬間が来ると井筒はいう。そのとき無の深淵を覗き、絶望の叫喚を上げるとともに、自己と万物を優しく受け止めてくれる不思議な愛の腕をあることに気づき、幽玄な一つのものに対して、懊悩と憧憬を感じることが「宗教の初め」であると井筒は解釈する。

 

 絶対否定的肯定

「宗教的懊悩とは相対的存在者が自己の相対性を自覚した結果、これを超脱しようとして、しかも流転の世界を越えることのできない苦悩であり、宗教的憧憬とは、それでもなお霊魂が永遠の世界を瞻望し、絶対者を尋求してこれに帰一しようとする切ない願いにほかならない」と井筒は主張するのである。

 

 不思議な愛の腕、と井筒は言った。万物は絶えず落ちて行き、再び存在に還される、万物流転を動かす「一なるもの」とは何者なのか。「それは神羅万象の生命の源泉,あらゆる存在の太源、いや「存在」そのもの」であろうという。「それでは、宇宙的愛の主体としての「存在」は窮極に於いてそも何者であり、かつ人はいずこに求めて、この「一なるもの」で逢着できるのであろうか」と井筒は自問自答する。自然神秘主義が一つの解答を提出したというのだ。それは「渾然たる一者としての宇宙、汝自らにほかならない」ということ。自らの奥に神を求め、求めつつ汝の心の底を打ち破って大宇宙に窮通せよ。これがオルフォイの神託「汝自身を識れ」の神秘主義的解釈であると井筒はいう。このことは「人は直ちに神だ」ということであり、「自然的宇宙がそのまま絶対者だ」ということを意味するだろう。しかし、自己や万物の相対性を知り、あらゆるものが無の暗中に絶えず陥落しつつ、何者かに受け止められ危うく存在を保つ光景を見たその人が、「何者か」であり宇宙的詩の主体であることが果たして許されるのか、ギリシア人が神々の忌み憤るところのものとされる倨傲(ヒュプリス)ではないのかと井筒は自問する。もちろん先の論の神秘主義的解釈を肯定するための迂回路である。

「世界は神の世界である。故にひとり神のみ世界を救うことができる。この世から神への連続性はなく、そこには絶対的裂罅がある」というカール・バルトの言葉を引用し、神と人との懸隔を強調し、人はひたすら跪き無限の彼方の見えざる神に祈るしかない。この「絶対隔絶的結合」こそが宗教的真髄であるという。さらにピンダロスの「人間の身は影の夢」を引き合いに出し、無益なはからいは棄て、全身全霊をあげて神にささげるべきであり、このように自らを滅し,自我が完全に破砕されたとき、無限に隔絶する神と人は、隔絶するままに超自然的愛の不思議ないとなみによって結合されるという。しかし井筒はいう、自然神秘主義はこれらに厳しく異を唱えると。絶対乖離的結合を成した人間は、依然として「人」であり、否定された人は、新しい人として神と和解している。反抗を放棄した自我が生まれ絶対者と新しい関係において対峙していることになる。絶対者を障礙(さまたげ)している。

 このように自然神秘主義では、一度否定された自我がさらにもう一度否定され、絶対空無が現前するに及んで、はじめて絶対者は真に絶対者として自己を露現するという。このときにはいかなる自我も相対者と隔絶対立する絶対者もない。いかなる意味の相対者もないということがすなわち絶対者なのであり、絶対否定即絶対肯定と言われる所以であるという。つまり、人が自性を保持し人である限りは絶対者は渾然たる全者として現われることができない。人が完全に完全無欠に消滅したとき、絶対否定の虚空のうちに、絶対者が露現するという。このような境位を神秘主義では「人が神になる」と表現したのだという。もはや人の体験ではなく神が神になり、絶対者が絶対者になることだ。右に述べたことだが、相対的人間意識の超越的無化があって絶対者の覚存が現証されるというのだ。超越的絶対意識の出現を人間の「神化」と名づける所以である。(スコトス・エリウゲナ)人は窮極的に殺されることによって、徹底的に生かされ、絶対的に否定されることによって否定的に絶対化されるという。人間意識が無に帰することによって否定的に宇宙意識になるという。そこからいかなる思想が発展するのかは後に述べることにして、その前に自然神秘主義思潮勃興の背景をなすギリシア精神の盛衰をホメロスまで遡って検討したいという旨を伝え、次章に続く。


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