ヒーメロス通信


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井筒俊彦『神秘哲学』再読(七)小林稔

2015年12月03日 | 日日随想

井筒俊彦『神秘哲学』再読(七)

小林稔

 

 第二章 自然神秘主義的体験Ⅰ

       ――全体否定的肯定――

 

 無の深淵

 

青春の日を楽しめよ、わが胸。

やがて他の人々の生まれ来てわれは息の緒絶え、

黒き土塊となりてはつべし。

 

 メガラの抒情詩人テオグニスの、有為転変を常とする世の中において、生の儚さを青春の日々の栄光を讃えることで生滅無常を歌う詩の一節を引用し、井筒はこの章で、人間の宗教的欲求から生起する神秘主義への憧憬を抽出しようとする。

 紀元前六世紀に、自然神秘主義的思潮はギシリア世界に興隆し、西洋の哲学と西洋の自然科学は誕生したと井筒はいう。つまりソクラテス以前のイオニア、イタリアの思想家たちは自然神秘主義という新宗教運動体験の主体であったのである。

 それでは自然神秘主義とは何か。井筒は「無」を人はいかに捉えたかを説明することから始める。「あらゆる存在者の根底には必ず無がひそんでいる」という。絶対的に有と言いえるものはない。「あらゆるものは無の絶壁上に懸けられた危うく脆い存在である」という。万物の存在の基底にひそむ無の深淵を覗き込み慄然とする。存在そのものがすでに存在否定的要素を不可避的に抱いている事実を知り、「実存の不安」に苛まれる。この「無の深淵」の不安として自覚されるとしても、「存在者の有が無に裏付けられ、無を含むということは、それが本質的に相対的存在であるということにほかならない」。「存在の無とは自己のうちなる無であるとともに、他者に対する無でもある」という。つまり「すべての存在者は他者を否定することなしには自らの存在を確保することのできない罪深いものなのである」と井筒は解く。イオニア的考え方では、存在そのものが「不義」とされるという。個別的相対者の存在は、絶対者に対する罪ではなく、個別相互間の「罪」であり「不義」なのだという。

 

同一の河流に我々は足を入れしかも入れず、我々は在りしかも在らぬ。(ヘラクレイトス)

 

それらのもの(存在者)は己が不義にたいし、『時』の判決に従って互いに罰を受け、償いを払わねばならぬ。(アナクシマンドロス)

 

 存在の根源的悪に対する哀傷、存在者の相互否定的相対性は、紀元前六世紀イオニアの精神的空気であるという。「他者を否定することなしに自ら存立することのできない相対者の存在はいわば存在することによってすでに他に対して不義不正の罪を犯しているという考えは、個人が正当な権利を主張する反面、他者の権利を侵害することを禁じる法的国家の成立を背景として理解されるという、イエーガーの論述も尊重すべきであるが、「存在の相対性」をアナクシマンドロスは社会的法的人間生活のアナロジーとして表現しようとしたことを忘れてはならないと井筒は主張する。それであればこそ、アナクシマンドロスのみならず、「不断に成壊去来して常なき事物の実相を徹見」し、「イオニアの詩人たちは、常住不変の彼岸の世界に憧れ、イオニアの哲人たちは永久不滅の絶対者、「根源」(アルケ―)を尋求したのではなかったのか」と問う。


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