ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

連載エセー⑯存在の深層意識的言語哲学理論その一、井筒俊彦『意識と本質』解読。小林稔

2013年01月11日 | 井筒俊彦研究

連載/第十六回

存在の深層意識的言語哲学理論その1

小林稔

 

 前回(連載第十五回)では、井筒氏の考案した深層意識領域の構造モデルを辿ってみたが、ここで復習しさらに井筒氏の説明を読み進めてみよう。

 深層意識領域全体を円柱とその底に逆さにつけた円錐で表す。円錐の頂点は意識のゼロポイントである。逆さになった円錐の底面と接するその上にある円柱の一番下の層が、言語アラヤ識の領域である。仏教の唯識哲学から井筒氏が借用して説明する領域である。意味的「種子」(ビージャ)が「それ特有の潜勢性において隠在する場所」でありユングのいう集団的無意識あるいは文化的無意識の領域に該当し「元型」成立の場所であると井筒氏は解釈する。この言語アラヤ識の層の上に「想像的イマージュの場所」がある。その上が表層意識の領域であるから、言語アラヤ識領域と表層意識の領域の間にあることから、井筒氏は中間的意識空間をM領域、あるいはM地帯と呼んでいる。

 言語アラヤ識領域の元型がM地帯において、根源的形象、すなわち「元型」イマージュとなり表層意識領域(経験的世界)に出てシンボルとなる。M地帯は強烈なエネルギーが充満する内部空間であり、「創造的」エネルギーを保持したまま、シンボルは経験的世界にやってくる。このエネルギーの照射を受けると、平凡な日常的事物がたちまち象徴性を帯びて、今まで見た物質的事物がただの物質的事物ではなくなってしまうと井筒氏はいう。しかし井筒氏は、このような「元型」イマージュの機能は二次的なものであり、言語アラヤ識の生み出すイマージュは経験界に実在する事物のイマージュが圧倒的に多いが、しかし本来、「元型」イマージュは外界に直接の対応物をもたない。つまり、表層意識に上がっていかない。たまたま表層意識に現われても幻想になってしまうという。

 このような「元型」イマージュが本来の場所であるM地帯で果す役割とはどのようなものであるのかを、Ⅹ(P220~)で井筒氏は考察している。今回はそこを読みとっていきたい。

 

深層意識的世界像 

「元型」のイマージュの「想像的」エネルギーが表層意識にまで昇っていくとき、表層意識の次元における事物が異様な光彩を帯びて象徴化されるが、世界の事物のすべてを、つまり経験的現実全体を象徴化するのではないことに井筒氏は注意を喚起する。部分的、局所的であり、存在世界をそっくり一つの象徴的体系に変貌させることはないという。しかしM領域においては一つの象徴体系をなしていて、現実の存在世界が見慣れぬ姿で現われるという。経験的世界と同じ事物があっても存在分節がまったく違うので、存在視覚をまったく異にし、性質も機能も違うのであり、それが深層意識的世界像といえるものである。

その存在分節の基礎単位が「元型」イマージュであると井筒氏はいう。表層意識と無意識の中間地帯である深層意識であるとともに、存在論敵には物質的、物理的リアリティーと純粋精神的リアリティーの中間に位置する第三のリアリティーであるという。言語アラヤ識にひそむ意味「種子」の潜在エネルギーの発動により、無分別の存在リアリティーが分節され事物や事象が現出する。そのようにして起こるイマージュのうち、即別性を持つものと非即物性を持つものに分かれ、前者は表層意識に出て、事物の有「本質」的認知に参与し、後者は経験的事実性に裏打ちされないイマージュでM領域に本来の場所を見出すことになると井筒氏は説明する。私たちは一般に目の前の事物をイマージュ抜きで見ていると考えるし、後者のイマージュが表層意識に現われたとき夢まぼろしとして処理してしまうが、M領域の存在構造を、マンダラのような深層意識的絵画を見ても表層意識的に見ているだけで深層意識的に感応することはないという。しかし深層意識的事態として受け止める人たちもいる。彼らは後者に比重を置いている。理論的展開をし言語哲学を生み出す可能性があると井筒氏はいう。それは普通の言語哲学ではなく、深層意識的言語哲学であるという。空海の阿字真言やイスラムの文字神秘主義などである。

 

「天使学」angelologie

 ヒルマン(アメリカのユング派心理学者)が「コトバのあたらしい天使学」という言葉を使って、深層意識的言語哲学を発展させた。コルバン(フランスのイラン学者)の影響のもとで叙述した。ヒルマンによると、コトバなるものには「天使的側面」があり、普通一般の意味の他に異次元的イマージュを喚起する意味がある。この異次元的可能性を語の「天使の側面」と名づけた。そこに焦点を合わせ言語哲学を展開させた思想家が東洋にもいると井筒氏はいう。シャマニズムが一つの例であるが、広く、呪文、祈祷、ダーラニー、マントラのかたちで発音された言葉に、霊力を想定するところはどこにでも言語呪術は生きているという。例えば、ユダヤ人が神の真の名「ヤハヴェ」を口にすることを避ける理由は、発音された言葉に促され言語アラヤ識から立ち昇る「想像的」イマージュが意識のM領域に立ち籠め、人を威圧するからであるという。このようなコトバの呪術的力を、深層意識を表層意識と混同し、M領域に出現する「想像的」イマージュを、ただちに外界の存在現象と同一視してしまうところに問題があると井筒氏は解く。しかし同一視してしまうことこそ、コトバの呪術的特徴なのである。理性的であろうとする近代人には言語呪術言語は未開人的現象としか映らない。東洋思想の伝統のなかでそれを「元型」的「本質」観想に基く言語哲学にまで発展させた思想家たちには、上記の二つの存在次元の混同はないと井筒氏はいう。つまり、言語呪術とは、一次的には、深層言語空間への「想像的」イマージュ、つまり「元型」イマージュの喚び出しであり、第二次的には、表層意識の認識機能に作用し、表層意識の世界像を「元型」イマージュ的に変貌させる可能性があるということに過ぎないと井筒氏はいう。

 ユダヤ神秘主義カッバーラーの「セフィロート」と呼ばれるものは、根源的イマージュの構造体系をあくまで神の内部における存在構造の形象化であって、経験的世界の存在構造と考えているわけではなく、経験的世界とのつながりは、経験的事物の「元型」的「本質」を形象的に呈示することにあると井筒氏はいう。つまり「セフィロート」は象徴的に呈示することである。「有無中道の実在」を説くイブン・アラビーの、それを神の自意識の内部分節とする立場も同様であるという。空海は、コトバの深層意識的機能を、呪術的側面と存在論的側面を同時に注目し、ついに「真言」の哲学に至り深層意識的言語哲学を確立したのであり、彼らは大筋においては同じであると井筒氏は捉えている。

 井筒氏は「セフィロート」やマンダラの「元型」イマージュ的構成を語る前に、P220から、イマージュの生起自体をめぐる深層意識的言語理論をさらに詳しく語ることになる。

 

 次回、第十七回では本書のやま場を迎える。つづく。

 

Copyright 2013 以心社


コメントを投稿