ヒーメロス通信


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睡りの岸辺・小林稔、詩集『遠い岬』より

2013年07月11日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

  小林稔第八詩集『遠い岬』(以心社)2011年10月20日刊より

睡りの岸辺

小林稔 

 

眼をこらすと夜が明けかけている。波が岩礁に砕け飛沫をあげて

いるだろう。いまはその音だけが闇に溶け入っている。額から鼻す

じ、ひらきかけた唇、顎の窪みに鈍い光が輪郭を浮き立たせ、少年

の息が頬に吹きかけられた。少年の吐息に呼吸を重ねてみる。する

と睡魔に襲われ、私は身を引いた。

どのくらい時が流れただろう。ふっと私は意識を取り戻した。砕

ける波が私の頭上を越えて行く。首に何かが絡んでいる。確かに腕

であった。胸元には少年の顔があり、両腕でしっかりとしがみつい

ている。青い水がひたひたと少年の髪をすいているではないか。一

瞬戸惑いを覚えたが、そのままの姿勢を保つ。少年から乳のような

匂いが放たれ私は眼を閉じた。いくつかの声が制しようもなく重な

りながら私の脳髄に押し寄せた。

 

 息を切らして少年は私のうしろについて歩いている。前方に霧が

立ち上がって、少年はこれ以上無理だと言わんばかりに立ち止まり、

私に抗議の視線を向ける。リュックの紐が肩にくい込んでいる。

 

どこまで行くのですか? と私に訊く。

かあさんからはなれたいんだろう? 

そう言って少年の顔を覗き込むと、首を縦に下ろした。

ついてきてくれればいい。帰りたければ帰ってもいいのだよ。

私はそのように告げて、ふたたび霧の中を歩きつづけた。

 ……背後に少年の気配は感じられなくなる。

 少年を帰らせてしまったことを悔いた。

 かつて私の前に現れた十歳の少年の、両親の庇護のもとですくと

育った姿態を記憶の片隅によみがえらせた。好奇の眼差しで私の瞳

の奥を覗き込む。すると幼い日の思い出が私に連れ戻された。十二

歳を越えたころから少年に微小な変調が見え始めた。愁いの兆しが

表情に影を射している。私はこのときに決めた、導く者になろうと。

 いまとなってはそのような想いも泡と消えたのだ。母親を裏切り

父親から少年を奪うことに過ぎないだろう。少年との関係に心を痛

めても、時間を取り逃しているだけではないのか。

 霧はさらに濃く立ちはだかった。視界から光が奪われ、私は両の

手を宙に泳がせた。少年は家路に着いているだろう。少年が母親に

反抗し父親に背いたとて、私との交わりは、やがて帰る道草に過ぎ

なかったのだ。私はさらに霧の中に踏み込んだ。

 そのときである。霧がぱっと晴れ青空が見えた。その下には一本

の道がまっすぐ地平線へつづいている。

 私の名を呼ぶ少年の声を聞いた。私は心勇んで振り返る。

 たしかに少年の姿を見た、が一瞬のうちに消えてしまった。

 

 いや、違うのだ。私はすべてを賭けてきみに向かおうとしているのだ。

あなたの顔がぼろぼろに壊れていく…・…。

少年は脅えるような声でつぶやいた。

いけない! 

私は大声で叫んで眼が覚めた。

となりの枕には少年の顔がなかった。

 

 

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