ヒーメロス通信


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献身-ー生まれくるものたちのために 小林稔第八詩集『遠い岬』以心社2011年刊より

2012年06月15日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』
小林稔第八詩集『遠い岬』以心社2011年10月20日刊より

献身―――生まれくるものたちのために



木々の葉ずれに波音を聴く。反復する記憶のかけらをあつめ、から
めとる時の空隙に忍び寄る闇。なしくずしの萼(うてな)。
ハネてきなさい、種子たちよ。殻を破って忍従の衣をいまこそ脱ぎ
捨てなさい、あわせたてのひらをひらき、掬んで。

忘却の岬から駆け込んでくる一羽の鳥が稲穂の垂れた藁をくわえ陸
を見つめる。虚空に舞う羽虫を狙いつつ、はじまりの予兆にふるえ
ている、卵を孵し了えるまで羽ばたきを律するように。

白鍵を叩く指の一音。胸を突き刺す痛みが涙腺に走る。穿たれた眼
孔が見定める夜の深みで、暴風、稲妻、瀑布のオーケストレーショ
ンの濁流に抗うようにグラビアから一筋の光の矢が闇をつらぬいて
いる。岩窟を歩む足許に密生する花々がつぎつぎにひらく。砂時計
の隙間を落ちる砂のように堆積しくずれるかたちに、たましひは牽
引され、滅びと再生を反芻(はんすう)しつづけている。

ピストルから昇る白煙で飛び出る走者たち。遅れて発砲音が観客の
耳朶を打った。フィールドにいくつもの弧が同心円を描きはじめ、
だれもいなくなったスタート地点に煙は浮遊しひろがり消える。

偶然なんだ、いまここにいることが。ロープが振動しないように、
落ちついて。一秒後のきみはもう自分がだれだかわからない。桜の
花びらが水面を埋めつくし、落日で西の空が焼かれ、海水が陽光の
照り返しで煌いていても、きみの眼差しはそれらを捉えていない。
きみを見つめる私の眼差しをも。

朝のラッシュアワー。激流に引き込まれ片腕を後方から必死でぬき
とり、圧搾され宙づりになった両脚はとつぜんホームに投げ出され
る。――オレたちは帰還したぞ。あいつはどうした、戦死したのか。
瞳を輝かせ揶揄しあう少年たちの背後、東と西に夢遊病者の群れが
エスカレータに載せられ降下する先は広告塔の乱立する廃墟。

この悪の符に魔王はいない。東京、ローマ、マドリード、イスファ
ハン。人たちに撒種(さんしゅ)され生きながらえている寄生虫。な
ぶられ、くいちぎられ、放射される。それがきみの世界を所有する
方途であることをこころえよ。獲物を仕留める被虐の柵を逃れた青
年に善なるダイヤモンドの輝きの戴冠(たいかん)を。

       ★

遅すぎた、うんざりだ。知りすぎた、たくさんだ。
時が終わりを迎えぬうちに祝祭(バッカナール)を繰りひろげよう。
きみ、四つ足で歩いてみないか。歴史の闇に棲まう魔物のように。












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