ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

小林稔第8詩集『遠い岬』(以心社・2011年10月20日刊行)から一部を紹介。

2012年06月12日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』
小林稔第八詩集『遠い岬』(以心社刊)2011年10月20日発行

遠い岬
  失われた記憶のためのエピグラフ


昨日 私の垂れた釣り糸を引くものがあり
苦心惨憺(さんたん)のはて岩にひっぱり上げると
鎧に身を包む一メートルほどの大きさの
得体の知れぬ生き物であった。
赤い眼から一滴の血を落したので
私は悲しみのあまり海に返した。

風が海原を押し寄せ
波動を胸の湾に伝えるべく迫る。
荒波の岩礁に砕け散る飛沫を宙に舞わせ
新たな始まりをいくども告知する。
とも綱を解き 舟を沖へと向かわせる薄明の水際に
まといつく藻屑から放たれ 舟はいよいよ屹水を深める。
空と海の微かなる境に一条のひかりが直線を曳き
私に航路を示唆するように手招きする。
遠くなる空のした 波に遊ばれて行方が危ぶまれ
それでも太陽が垂直に昇ればにわかに身体が軽くなり
陸地はもはや視界から離れ 頭上には白い海鳥が舞うばかり。
海面には夥しい数の稚魚の一群が旋廻しつづけている。

時の傾斜を墜ちる身体に耐え
測定しがたい死のゴールまでの射程を測り
折り返しの最後のコースを辿る疾走者のように
背に翼の羽搏きを感受してはロゴスの鍵盤(キー)を連打する。
かつて私にもあった 若葉の輝きに溢れた日々よ。
それは失われた天界の日々への追憶に過ぎぬと
今にして私は識るのであった。

何も奪われなかったし縛(いまし)めるものもない。
大海原の一点となりはてた私が還るべき邦の
指を突き出す忘れられた遠い岬を想い櫂を引く。
艫(とも)に立てる穏やかな波の音を聴きながら
時に風が紙片を翻す戯(ざ)れ音のように。

註・〈失われた天界の日々〉。
プラトンのミュートス(神話) に示唆された想念である。それ
によると、我々の魂は一万年間、そこからやってきた天上の世
界に還りつかないが、知を愛する心と美しい人を愛する想いを
一つにして生を送る者は三千年目に翼を持ち還りつくとされる。


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