ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

小林稔第6詩集『蛇行するセーヌ』2003年12月31日以心社刊(旧・天使舎)からの引用(4)

2012年01月03日 | 小林稔第6詩集『蛇行するセーヌ』
アンバリッドとロダン美術館
           小林 稔



 ポートロワイアルからモンパルナス通りを歩くと、年上の青年にいく
度も声をかけられた。フランス語を解さない私はきょとんと立ち止まっ
た。困ったという表情で彼らは立ち去った。ロダンの反り返ったバルザ
ックの銅像を見上げていた時、車が一台舗道に乗り上げているのが見え
た。車から背広を取り出し、行商人だろうか、男が道行く人にそれを見
せ声をかけている。道を一直線に進んで行くとモンパルナス駅が見えた。
近代的な建物があることに驚く。地図を見ながらさらに歩いて行くとア
ンバリッドに辿り着いた。ナポレオンの霊廟である。石棺を取り囲んで
中学生が先生の話に聞き入っている。いく人かは私の存在が気になるら
しく視線を向けている。見学が終わると、彼らは急に騒がしくなり、廻
廊のある中庭に飛び出して行った。男の子たちが声を上げて追い駆け合
ったり、円柱に背を凭れて睦まじく話をしたりしている。私にもあった
のだろうか。あんなふうに友人と時の経つのを忘れ楽しんだ時代が。


 通りを越えるとロダン美術館があった。庭のあるこじんまりした建物
である。接吻する男女の彫刻を見て、愛に満ち足りたエロティシズムに
引き込まれ、官能的でありながらしかも動物的ではない、かつての他者
と接触した記憶が、見ている私の肉体に引きずり込まれ、意識の淵で溺
れているような想いに陥った。階段を上ったところ、『 青銅時代』と名
づけられたブロンズ像が、硝子窓から注ぐ光を背後から浴びて、青年の
裸体の美をシルエットのように伝えている。ロダン美術館を出てあても
なく歩いた。路地から路地を迷子になる快さを感じながらしばらく歩き
続けた。地図にはサンジェルマン通りとあるが、この通りがそれか確証
はない。教会があり、扉のまえに張り紙があったが、モーツアルトとレ
クイエムの文字が目に留まった。ステンドグラスの嵌った廻廊に椅子が
礼儀正しく並んでいる。その半数近くに聴衆が背を向けて座っていた。
しばらくすると演奏が始まった。壮厳な空気が礼拝堂を充たしてしまう
と、男性のコーラスと女性のそれが螺旋を描きながら追いかけるように
舞い上がって行った。モーツアルトはこの曲を未完のままにして生を終
えた。かつて彼は母を連れてこの街に来たことがあった。ピアノソナタ
作品三三一。第一楽章の、春の喜びにあふれた主題を指で鍵盤に辿る時、
少年の本質にどこかで触れたような気持ちになる。主題の後に五つのヴ
ァリエーションが続く。彼はこの街で母を亡くしたのであった。モーツ
アルトとは、少年から老成へと一気に走り抜けた、一人の悲劇的な芸術
家に思えて仕方がない。パリに着いたばかりの私が、名も知らぬ教会で、
レクイエムに魂を揺すぶられていることが不思議でもあった。


 サン・シュルピス広場に立った私は、いくつかある小路に視線を走ら
せ、ホテルと書かれた小さな看板をつけた建物を見つけた。雨風にさら
され汚れた石の壁が手まえに傾いている。二階に導く階段を昇ってドア
を叩いた。ここがホテルの入口に違いない。厚化粧をした女の微笑んだ
顔が、引かれるドアの奥から現われた。「部屋はありますか 」と訊ねる
私に、彼女は囁くように早口で何ごとかを語った。老いと疲労から、塗
りたくった白粉が肌に浮き上がっている彼女の顔に眼を奪われ、動けな
くなった私に気づき、彼女の眉が歪んだ。私のような旅行者の来るべき
ところではなかったのだという想いに駆られ、立ち去ろうとした。パリ
で暮らす女の隠された生活の襞に触れてしまったのだろうか、私は足裏
を石段に吸い取られるように重く感じながら降りた。


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