ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「アンブルサイド」 小林稔詩集『蛇行するセーヌ』2003年より

2016年01月25日 | 小林稔第6詩集『蛇行するセーヌ』

小林稔第六詩集『蛇行するセーヌ』2003年(旧天使舎)以心社刊


P104~107
アンブルサイド




 ウインダーミア湖の北岸にアンブルサイドという村がある。ユースホ

ステルのまえでバスを降りた。潅木の茂みの下に湖水がきらきらと光を

反射させている。湖岸に辿る斜面にユースホステルの建物があり、受付

を済ませ私たちのあてがわれた部屋へ行くと、六つのベッドが配置され

てあった。廊下を歩くにつれ、この建物の大きさが分かってきた。最下

位にリビングがあった。庭を挟んで湖岸が近くに見えた。壁際のソファ

ーに若者たちが座ったり立ち上がったりして、ここで初めて出逢ったで

あろう見知らぬ者たちが会話を楽しんでいる。あちらこちらと歩き廻っ

ていた三人の中学生が、私たちのいるソファーのところにやって来た。

一人が十二歳で、あとの二人は十四歳であることがやがて話から知れた。

私のこれからの旅程を話すと、とても信じられないといった表情で眼を

剥いた。食堂で夕食を済ませ、またリビングに戻り、庭に出て暮れてい

く岸から対岸の、さほど高くない山々を見た。リビングに帰ると宿泊客

は寝室に戻って行ったらしく、数少ない若者たちがいた。私たちが寝室

に戻ると、ベッドに入り本を広げて読んでいる者、すでに眠りについて

いる者もいた。決められた消灯の時間まで一人一人自由な時間を楽しん

でいる。うつ伏せになって私はノートにペンを走らせ、疲労を感じて目

蓋が重くなって、そのまま眠ってしまったのかもしれない。

目を覚ました。部屋の電灯は消えて真っ暗闇であった。どこからか声

がかすかに聞こえる。切れそうな糸を紡ぎ出しているような声。扉のカ

ーテンの合わせ目から光が部屋に射し込んでいる。月の光だろうと思っ

た。声を引き寄せようと耳をこらした。窓際の、外から射して光が床に

落ちている辺りから声がする。抑えられずにこぼれる声は、すすり泣く

声であった。私は戸惑いためらったが、思い切って起き上がり、ベッド

を抜け出し、部屋の隅で行き場をなくしている声を探り当てようと、そ

っと歩いて行った。闇に慣れてしまった私の眼が、泣き声の主のいるベ

ッドを辿るのに、それほど多くの時間を必要としなかった。



 闇におびえ光を放っている両の眼があった。子兎のそれをすぐに連想

したが、ほんとうは人間の子供の、涙に濡れた眼差しであった。この眼

差しには見覚えがある。そうだ、さっきリビングで話をした一番幼い少

年だ。いつの間にか私の背後に友人がいて、少年を覗き込んでいる。

「どうしたの? 」と小声で友人が少年に訊くと、「歯が痛いんだ」とい

う返答があった。友人は自分のベッドに戻り、リュックからビニール袋

を取り出したらしく持って来た。「日本の薬だよ」、と小声で言って少年

に渡した。私が水を差し出すと、素直に少年は薬を口に入れ、それから

水を飲んだ。少年の顔の近くに顔を寄せて、私たちは、あどけない少年

の面差しを見つめていた。薬が効いたのだろうか、それとも安堵からか

少年は涙で濡れた枕に頬を沈めて目蓋を閉じた。寝息が、眼前の闇で細

い糸を曳いているようであった。



 翌朝、さらに北にあるグラスミア湖を訪れるため、なだらかな丘陵を

歩いた。詩人ワーズワースの家を見てから、樹木に被われた古い民家が

軒を並べている村道を、観光客に紛れ込んで歩いて行った。



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