ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「カナリア諸島」と「アンモナイト」 小林稔詩集『蛇行するセーヌ』より二篇

2015年12月26日 | 小林稔第6詩集『蛇行するセーヌ』

カナリア諸島
      小林 稔


アンダルシアの野を縫って行くのろい列車が
とある駅で停車したきりいっこうに走らない
シエスタにも飽いた私のかたわらに
私と同じ一人旅の青年がやってきた
夏を取り込んだひまわりの種を頬ばりながら
イビサは地中海に浮かぶすばらしい島だという
瞳が海に照り返す光のように輝いている
夏の名残りの陽光が射した列車で

だが私がほんとうに行ってみたいのは
アフリカ大陸の西、海を隔てたカナリア諸島
スカンジナビア半島からイベリア半島に南下する私を
砂漠のカナリアになぞらえたがついに果たせなく

アフリカの夜
サハラに太陽が沈んで一つの町が消えると
世界が再生するのをひたすら待つしかない
海峡に揺られモロッコから還った私は
ヨーロッパの心臓、剃がれた神経の中枢
私がそう呼んだパリに、青春の導火線を抱え
ためらうことなく一直線に翼を広げた
運命にもてあそばれたかつての苦い記憶
 





アンモナイト
      小林 稔


 屋根裏の住人になって一ヶ月が過ぎた。午前五時。不眠症に陥ってい
る私がクロワッサンを買いに行く時刻である。外気を入れようとしたが、
小さな両開きの窓が凍り付いて動かない。いつものように階段を降りた。
この螺旋状の階段を日にいく度となく昇り降りしているが、廻りながら
私の脳髄にアンモナイトの形状が刻み込まれていく。左に巻かれたネジ
が降りる時には右に巻かれるので、かろうじて脳髄の平衡感覚は保たれ
ていた。三階の裏口を通過しようとした時、昇って来る若い女性に逢っ
た。手には、三本のフランスパンのバゲットの突き出た籠を持っている。
 「ボンジュール、ムッシュウ 」
消え入るような声が彼女の口から洩れると、私とすれ違うためアンモ
ナイトの薄汚れた内側の壁に彼女は体を寄せた。緊張した様子が彼女の
こわばらせている顔の引きつった表情から窺える。私が通過すると彼女
はすぐに昇り始めた。どこかの階の女中なのかもしれないと思いながら
私は降りて行った。中庭の片隅にはまだ夜の空気が押しやられて逃げ場
をなくしているような気がした。
 十二月初旬の朝は皮膚の毛穴を針で刺されたように痛い。エラン通り
を歩き、メキシコ広場に伸びたロンシャン通りに出ると、黒人の労働者
が舗道を清掃している。メキシコ広場まで来ると、一対の弧を描いて並
ぶショイヨー宮が見え、さらにセーヌを越えたところにエッフェル塔が
聳えている。ロンシャン通りに戻ると、勤め先に足早に向かう人々の姿
が一定の流れを作り始めている。果物屋には真っ赤なりんごがきれいに
顔を揃え、カフェが開店の準備をする。パリの日常生活があちらこちら
で動き出す。私はパン屋でクロワッサンを買い、あのアンモナイトの内
側の螺旋階段を左回りに廻って屋根裏に帰る。カフェオレを作って飲み、
クロワッサンを頬ばった後に休息を求めて眠りにつく。

 屋根裏に住んで一ヶ月をいく日か過ぎたころであった。家賃の支払い
をするため、マダム・Dのいる二階の扉の呼び鈴を押した。部分照明の
せいで薄暗いエントランスが開いた扉から見えて、マダムの姿が影絵の
ように浮かんだ。おっとりとした物腰で言った。
「あなたに逢わせたい人がいるの、来てくださらない? 」
彼女の背について歩き、廊下を折れ、私が一週間に一度だけ入りに来
る浴室の扉と反対側にある扉のところで立ち止まったマダムは、その扉
を叩いた。眼鏡をかけた小柄な青年が顔を出した。私とほぼ同年の小柄
な日本人の青年である。「昨日からここに住んでいるんですよ。」そう言
って彼女は紹介する。「 あなた、まだどこへも行かずにぶらぶらしてい
るようね。学校へ行ったらどう? 」私にそう言うと彼女は立ち去った。
私のパリ滞在の目的が彼女には理解できないのだ。部屋の中に入ると二
人の青年がいた。一人はサングラスをした大柄で体格のいい年上の青年
で盲目の針師であり、もう一人は二十歳ぐらいの痩せた大学生であった。
初めに顔を見せた青年は、フランス文学専攻の大学院生であることが分
かった。針師と一緒に日本から来たところに、旅をしている知り合いの
大学生が、かねてから約束していたパリで落ち合ったというのである。
私も自分の身の上を語り、いつのまにか話はランボーに及んだ。彼らの
眼には、私は詩を書かない詩人と映ってしまったようである。ランボー
は詩を棄て(中断?)アフリカの商人になったが、私はやがて詩を書く
ために、原初の経験に舞い戻ったのだ。ランボーの『イリュミナシオン』
を読まなければ、私は詩を書き始めることはなかったのは事実であるが、
詩を棄てようと思ったことは一度もない。私は言わば沈黙を強いられて
しまったのだ。築くべき生活をないがしろにして言葉の世界に深く沈潜
してしまった結果、日常生活から言葉を奪われたのだと思う。詩人は仕
事をこなし家庭を持ち日常にこよなく耐え、詩を開花させている。意識
では日常生活に抵抗するが、言葉だけの「この世の外」への脱出を夢見
ている。私が思い描く詩人に何と遠いのだ。言葉だけの世界で詩を書い
ていた以前の私は間違っていた。空白になった「生活」を移動する日常
で見つめ考え、築き上げようと旅立ったのだ。東京で暮らしていた私は、
混沌の海原に漂泊する一枚の葉のようであった。言葉は配列を忘れ、思
考はばらばらに崩れ、名づけられない物質たちが私を狙っていた。それ
でも詩を書く欲求は衰えなかったが、言葉は砂のように掌からこぼれ、
私を取り巻く世界は私によそよそしかった。一種の恐怖だけが私に残っ
た。詩を書くことは不可能であったが、そうであるだけに飢えを満たす
ように本に喰らいついた。言葉で世界を創造するには、なんと多くの経
験を必要とするかを知ったのだ。< changez de vivre >という詩人ラ
ンボーの叫びが詩を書く私から立ち去ることはないだろう。欠落してい
たのは密室の窓を解き放つことであった。私自身の変革が求められた。
生きるということを旅の過程で掌握しようと思ったのだ。書物は多くを
授けてくれるが、その真実は一人の〈私〉の行為に証されるのでなけれ
ば教養に終わる。まして詩人においては彼の生の他にどこに求められよ
うか。経験から世界を組み立てなければならない。そう思った時、砂漠
が見え、砂漠の向こうに、街々の喧騒があり、私を待ち受けているよう
に思われた。
 生活を求めて出発しよう。西欧から東に向けて辿り、目標は日本であ
る。私の出発を、このまま帰ってこなければ神話だ、と言った詩人は間
違っていた。私という身体に精神の根を張りめぐらすための旅であった。
一般にランボーについて考えられているような西欧社会(私にとっては
日本社会)からの脱出ではなかった。現実からの逃亡では無論なかった。

 それから二週間ほどしたある日、彼らの大学時代の教授で詩人でもあ
るランボー研究家のS氏が、一ヶ月の休暇を取ってパリに来ているとい
うので、彼らと親しくなった私はS氏のアパルトマンを、一緒に訪ねる
ことになった。S教授の語るところによると、フランス人は日本人が考
えるほどにランボーを天才詩人と思っていないらしく、「 道を歩けばラ
ンボーに当たる」と言うらしい。私が陸路でインドへ行くことをうらや
ましいと言った。詩人が小説を書くということが話題になっていた時期
であったので、その話になった時、そういう人はもともと詩人ではなか
ったのだ、登場人物を設定し話を作ることに興味がもてないのだという。
日本でランボー全集が企画され、彼が重要な訳者であった。ワインで眠
気を催したS教授はテーブルを離れ、ソファーに身を沈め目蓋をきつく
閉ざした。ジャコメッティの彫像を思わせる容貌の彼が、苦悩を耐えて
いるように眠り続けている。私たち四人はS教授に別れを告げ、地下鉄
を乗り継いでマダム・Dの住居に帰った。始終はしゃいでいる彼らの傍
らで、私は詩に導かれここまで来た自分を顧みて無口になっていた。S
教授にとって、詩とは言葉と行為を天秤の左右の皿にそれぞれ載せ、わ
ずかに重く傾く言葉の所在を探り出すことなのではないだろうか。私は
行為の果てに獲得する言葉を発見しようと躍起していた。

 早朝、地下鉄のクリニャンクール駅から地上に出てしばらく歩いて行
くと、ハンガーにつるされた洋服が迷路のようにいく列もの壁を作って
いた。防寒用のコートを買ってすぐに着た。ここがマダム・Dから聞い
ていた蚤の市であった。奥に進むにつれて洋服以外の生活必需品が見え
てきた。シャンデリアに使われていた一個一個の硝子の部品がばら売り
されている。椅子とテーブルなどの家具が道端に積まれ、その奥に電気
スタンドに囲まれ、椅子に腰を降ろして煙草をふかしている老婦人がい
た。その中の一つに付いた値札を見ると三十フランと書かれていた。薄
いベージュのレースを貼った傘が気に入り、モロッコでしたように値下
げをするよう老婦人に頼むと、彼女は頬笑んで頷き、小さな紙切れに鉛
筆を走らせ私に手渡した。二十六フランという文字があった。おそらく
それ以上値切るのは無理だろうと思い買った。さらに奥に入り、かなり
年季の入ったフライパンも買った。ここには生活に必要なものすべてが
ある。歩き疲れたので、蚤の市の入口近くにあるカフェに入った。苦い
カフェ・エキスプレスにずいぶん慣れてきていた。しばらくして店の一
角からジャズが流れてきた。若い青年たちのグループが演奏しているの
だ。久しぶりに聞くジャズに爽やかな気分になり、終わると私も思わず
拍手をした。ベースを弾いていた青年が黒い帽子を手に、カフェのテー
ブルをめぐり歩いている。客は硬貨を入れているようだ。私のテーブル
まで来た時、しぶしぶ五フランを一枚入れた。路上でなら立ち去ってし
まえるのに、ここではそうすることができないから仕方がないだろう。

 寒さが身に堪えるようになりマダム・Dにそのことを話すと、カーテ
ンの生地と古びた豆炭ストーブを持って私のいる屋根裏にやって来た。
布を切り針で縫い、素早くカーテンを仕上げた。内側まで凍り付いてし
まうことがある小さな窓にそれを掛けた。電気のコードに挟みを入れた
ので私が思わず叫んだが、火花が一瞬飛んで、マダムは目を丸くして身
をかがめた。差し込んだままのコードを切ったのであった。私が買った
電気スタンドのコードが短かったために彼女が長くしようとしたのであ
る。豆炭ストーブはすぐに暖まらなかった。こんな代物と思ったがない
よりはいいのだ。

 二階の日本人たちの帰る日が来た。マダム・Dのベトナム人の夫が車
に乗せて鉄道駅まで送って行くというので、私も便乗した。彼らと駅で
別れ、ベトナム人の運転する車がピーガールの歓楽街の人だかりのある
道に入り込んだ時、警察官が車の前方に立ち、不審そうに私たちの顔を
覗き込んだ。免許証の提示を求めただけであったが、アジア系やアフリ
カ系の人々が集い遊んでいる夜のパリと、そこで眼を光らせる警察官の
横柄な表情に、この街に巣食う欲望と退廃の一端を、偶然にも見てしま
ったような気がした。

 昼に私の部屋の扉を強く叩く音がした。鎖を固定し扉を少し開けると、
知らない日本人青年の顔があった。マダム・Dに聞いて来たのだと言っ
た。中に入るように伝え、扉の鎖を外した。あの日本人たちがこの間ま
でいた部屋を借りている、私よりいくつか年長の男であった。料理の修
業でパリに昨日来たのだという。彼はこの街の女性に興味があるらしく、
私が知り合いになった女の子はいないか訊くのであった。いろいろな人
がいるものだと思った。昨夜、近くのまだ歩いたことのない通りを散歩
していた時、新聞や週刊誌を売っている屋台のような移動式の店を見た。
週刊誌の表紙に性器をあらわにしたグラビア写真を目にして驚いたので
そのことを話すと彼は眼を輝かせた。娼婦が並ぶ通りがあるらしいこと
も旅行者から聞いて私は知っている。私には関心がない事柄である。






 

 屋根裏の住人になって一ヶ月が過ぎた。午前五時。不眠症に陥ってい
る私がクロワッサンを買いに行く時刻である。外気を入れようとしたが、
小さな両開きの窓が凍り付いて動かない。いつものように階段を降りた。
この螺旋状の階段を日にいく度となく昇り降りしているが、廻りながら
私の脳髄にアンモナイトの形状が刻み込まれていく。左に巻かれたネジ
が降りる時には右に巻かれるので、かろうじて脳髄の平衡感覚は保たれ
ていた。三階の裏口を通過しようとした時、昇って来る若い女性に逢っ
た。手には、三本のフランスパンのバゲットの突き出た籠を持っている。
「ボンジュール、ムッシュウ 」
消え入るような声が彼女の口から洩れると、私とすれ違うためアンモ
ナイトの薄汚れた内側の壁に彼女は体を寄せた。緊張した様子が彼女の
こわばらせている顔の引きつった表情から窺える。私が通過すると彼女
はすぐに昇り始めた。どこかの階の女中なのかもしれないと思いながら
私は降りて行った。中庭の片隅にはまだ夜の空気が押しやられて逃げ場
をなくしているような気がした。
十二月初旬の朝は皮膚の毛穴を針で刺されたように痛い。エラン通り
を歩き、メキシコ広場に伸びたロンシャン通りに出ると、黒人の労働者
が舗道を清掃している。メキシコ広場まで来ると、一対の弧を描いて並
ぶショイヨー宮が見え、さらにセーヌを越えたところにエッフェル塔が
聳えている。ロンシャン通りに戻ると、勤め先に足早に向かう人々の姿
が一定の流れを作り始めている。果物屋には真っ赤なりんごがきれいに
顔を揃え、カフェが開店の準備をする。パリの日常生活があちらこちら
で動き出す。私はパン屋でクロワッサンを買い、あのアンモナイトの内
側の螺旋階段を左回りに廻って屋根裏に帰る。カフェオレを作って飲み、
クロワッサンを頬ばった後に休息を求めて眠りにつく。

 屋根裏に住んで一ヶ月をいく日か過ぎたころであった。家賃の支払い
をするため、マダム・Dのいる二階の扉の呼び鈴を押した。部分照明の
せいで薄暗いエントランスが開いた扉から見えて、マダムの姿が影絵の
ように浮かんだ。おっとりとした物腰で言った。
「あなたに逢わせたい人がいるの、来てくださらない? 」
彼女の背について歩き、廊下を折れ、私が一週間に一度だけ入りに来
る浴室の扉と反対側にある扉のところで立ち止まったマダムは、その扉
を叩いた。眼鏡をかけた小柄な青年が顔を出した。私とほぼ同年の小柄
な日本人の青年である。「昨日からここに住んでいるんですよ。」そう言
って彼女は紹介する。「 あなた、まだどこへも行かずにぶらぶらしてい
るようね。学校へ行ったらどう? 」私にそう言うと彼女は立ち去った。
私のパリ滞在の目的が彼女には理解できないのだ。部屋の中に入ると二
人の青年がいた。一人はサングラスをした大柄で体格のいい年上の青年
で盲目の針師であり、もう一人は二十歳ぐらいの痩せた大学生であった。
初めに顔を見せた青年は、フランス文学専攻の大学院生であることが分
かった。針師と一緒に日本から来たところに、旅をしている知り合いの
大学生が、かねてから約束していたパリで落ち合ったというのである。
私も自分の身の上を語り、いつのまにか話はランボーに及んだ。彼らの
眼には、私は詩を書かない詩人と映ってしまったようである。ランボー
は詩を棄て(中断?)アフリカの商人になったが、私はやがて詩を書く
ために、原初の経験に舞い戻ったのだ。ランボーの『イリュミナシオン』
を読まなければ、私は詩を書き始めることはなかったのは事実であるが、
詩を棄てようと思ったことは一度もない。私は言わば沈黙を強いられて
しまったのだ。築くべき生活をないがしろにして言葉の世界に深く沈潜
してしまった結果、日常生活から言葉を奪われたのだと思う。詩人は仕
事をこなし家庭を持ち日常にこよなく耐え、詩を開花させている。意識
では日常生活に抵抗するが、言葉だけの「この世の外」への脱出を夢見
ている。私が思い描く詩人に何と遠いのだ。言葉だけの世界で詩を書い
ていた以前の私は間違っていた。空白になった「生活」を移動する日常
で見つめ考え、築き上げようと旅立ったのだ。東京で暮らしていた私は、
混沌の海原に漂泊する一枚の葉のようであった。言葉は配列を忘れ、思
考はばらばらに崩れ、名づけられない物質たちが私を狙っていた。それ
でも詩を書く欲求は衰えなかったが、言葉は砂のように掌からこぼれ、
私を取り巻く世界は私によそよそしかった。一種の恐怖だけが私に残っ
た。詩を書くことは不可能であったが、そうであるだけに飢えを満たす
ように本に喰らいついた。言葉で世界を創造するには、なんと多くの経
験を必要とするかを知ったのだ。< changez de vivre >という詩人ラ
ンボーの叫びが詩を書く私から立ち去ることはないだろう。欠落してい
たのは密室の窓を解き放つことであった。私自身の変革が求められた。
生きるということを旅の過程で掌握しようと思ったのだ。書物は多くを
授けてくれるが、その真実は一人の〈私〉の行為に証されるのでなけれ
ば教養に終わる。まして詩人においては彼の生の他にどこに求められよ
うか。経験から世界を組み立てなければならない。そう思った時、砂漠
が見え、砂漠の向こうに、街々の喧騒があり、私を待ち受けているよう
に思われた。
 生活を求めて出発しよう。西欧から東に向けて辿り、目標は日本であ
る。私の出発を、このまま帰ってこなければ神話だ、と言った詩人は間
違っていた。私という身体に精神の根を張りめぐらすための旅であった。
一般にランボーについて考えられているような西欧社会(私にとっては
日本社会)からの脱出ではなかった。現実からの逃亡では無論なかった。

 それから二週間ほどしたある日、彼らの大学時代の教授で詩人でもあ
るランボー研究家のS氏が、一ヶ月の休暇を取ってパリに来ているとい
うので、彼らと親しくなった私はS氏のアパルトマンを、一緒に訪ねる
ことになった。S教授の語るところによると、フランス人は日本人が考
えるほどにランボーを天才詩人と思っていないらしく、「 道を歩けばラ
ンボーに当たる」と言うらしい。私が陸路でインドへ行くことをうらや
ましいと言った。詩人が小説を書くということが話題になっていた時期
であったので、その話になった時、そういう人はもともと詩人ではなか
ったのだ、登場人物を設定し話を作ることに興味がもてないのだという。
日本でランボー全集が企画され、彼が重要な訳者であった。ワインで眠
気を催したS教授はテーブルを離れ、ソファーに身を沈め目蓋をきつく
閉ざした。ジャコメッティの彫像を思わせる容貌の彼が、苦悩を耐えて
いるように眠り続けている。私たち四人はS教授に別れを告げ、地下鉄
を乗り継いでマダム・Dの住居に帰った。始終はしゃいでいる彼らの傍
らで、私は詩に導かれここまで来た自分を顧みて無口になっていた。S
教授にとって、詩とは言葉と行為を天秤の左右の皿にそれぞれ載せ、わ
ずかに重く傾く言葉の所在を探り出すことなのではないだろうか。私は
行為の果てに獲得する言葉を発見しようと躍起していた。

 早朝、地下鉄のクリニャンクール駅から地上に出てしばらく歩いて行
くと、ハンガーにつるされた洋服が迷路のようにいく列もの壁を作って
いた。防寒用のコートを買ってすぐに着た。ここがマダム・Dから聞い
ていた蚤の市であった。奥に進むにつれて洋服以外の生活必需品が見え
てきた。シャンデリアに使われていた一個一個の硝子の部品がばら売り
されている。椅子とテーブルなどの家具が道端に積まれ、その奥に電気
スタンドに囲まれ、椅子に腰を降ろして煙草をふかしている老婦人がい
た。その中の一つに付いた値札を見ると三十フランと書かれていた。薄
いベージュのレースを貼った傘が気に入り、モロッコでしたように値下
げをするよう老婦人に頼むと、彼女は頬笑んで頷き、小さな紙切れに鉛
筆を走らせ私に手渡した。二十六フランという文字があった。おそらく
それ以上値切るのは無理だろうと思い買った。さらに奥に入り、かなり
年季の入ったフライパンも買った。ここには生活に必要なものすべてが
ある。歩き疲れたので、蚤の市の入口近くにあるカフェに入った。苦い
カフェ・エキスプレスにずいぶん慣れてきていた。しばらくして店の一
角からジャズが流れてきた。若い青年たちのグループが演奏しているの
だ。久しぶりに聞くジャズに爽やかな気分になり、終わると私も思わず
拍手をした。ベースを弾いていた青年が黒い帽子を手に、カフェのテー
ブルをめぐり歩いている。客は硬貨を入れているようだ。私のテーブル
まで来た時、しぶしぶ五フランを一枚入れた。路上でなら立ち去ってし
まえるのに、ここではそうすることができないから仕方がないだろう。

 寒さが身に堪えるようになりマダム・Dにそのことを話すと、カーテ
ンの生地と古びた豆炭ストーブを持って私のいる屋根裏にやって来た。
布を切り針で縫い、素早くカーテンを仕上げた。内側まで凍り付いてし
まうことがある小さな窓にそれを掛けた。電気のコードに挟みを入れた
ので私が思わず叫んだが、火花が一瞬飛んで、マダムは目を丸くして身
をかがめた。差し込んだままのコードを切ったのであった。私が買った
電気スタンドのコードが短かったために彼女が長くしようとしたのであ
る。豆炭ストーブはすぐに暖まらなかった。こんな代物と思ったがない
よりはいいのだ。

 二階の日本人たちの帰る日が来た。マダム・Dのベトナム人の夫が車
に乗せて鉄道駅まで送って行くというので、私も便乗した。彼らと駅で
別れ、ベトナム人の運転する車がピーガールの歓楽街の人だかりのある
道に入り込んだ時、警察官が車の前方に立ち、不審そうに私たちの顔を
覗き込んだ。免許証の提示を求めただけであったが、アジア系やアフリ
カ系の人々が集い遊んでいる夜のパリと、そこで眼を光らせる警察官の
横柄な表情に、この街に巣食う欲望と退廃の一端を、偶然にも見てしま
ったような気がした。



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