ヒーメロス通信


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「リルケ、芭蕉、和歌に見られる本質」 小林稔評論集『来るべき詩学のために(一)』より

2016年01月22日 | 井筒俊彦研究

連載エセー⑥井筒俊彦『意識と本質』解読。
小林稔

連載/第六回

『意識と本質』Ⅰが終わり、ここからⅡの記述が始まる。Ⅰでは、東洋的思考には
いかに「本質」否定の概念が徹底してあるのかをみてきた。井筒氏はこの『意識と
本質』を世に発表した一九八二年の後に、「本質」否定についてもう少し深く追究
した論文を発表している。このブログで紹介しようとしたが、厖大な分量になるの
で割愛した。しかし前回イブン・アラビーについてはやや詳しく解説してみた。い
つか新プラトン主義との関連を掘り下げて論じてみようと考えている。
資料としては下記の書物がある。

 『意識の形而上学』
 「Ⅲ存在と意識の構造」『超越のことば』
 「意味分節理論と空海」『井筒俊彦著作集9』
 「文化と言語アラヤ識」『井筒俊彦著作集9』

さて『意識と本質』Ⅱ を読み始めよう。

P34~39
「ものの心をしる」
 井筒氏は、東洋哲学の伝統には、これまで論じてきた「本質」否定とは逆に、
「本質」の実在性を全面的に肯定する思想潮流があるという。『意識と本質』Ⅱに
おいて論じられるであろう。
 本居宣長は中国思想にみられる抽象概念を「くだくだしくこちたき」として極度
に嫌ったことを井筒氏は指摘する。『玉勝間』の「「かの宋儒の格物到知窮理のを
しへこそ、いともいともをこなれ」として、抽象概念のもとになる普遍者、つまり
「本質」などは、生命のない死物にすぎなかったであろうと井筒氏はいう。
中国的思考の抽象的・概念的に対して「宣長は徹底した即物的思考法を説いた」と
し、その例として、「物のあわれ」があると井筒氏は指摘する。どういうことか。
井筒氏の説明によると、物にじかに触れる、そして物の心を内側からつかむ、それ
が正しい認識方法であると宣長は考えたのだという。「心ある人」と宣長がいうの
は、概念的「本質」の世界は死の世界であるのに対して、眼前にある事物は、生き
て躍動する生命あふれる実在性を具えているので、それを捉えるには「実存的感動」
を「深く感じること」意外にないということであると井筒氏は解釈する。
 眼前の「前客体化的固体」(メルロー・ポンティ)、認識以前の「原初的実在性
における個物」の心を捉えることは「言語的意味以前の実在的意味の核心」(メル
ーロー・ポンティ)を直感的に把握することであると井筒氏はいうが、「個物の実
在的核心を」「客観対象的に認知することはできないという。「xを花というもの
もの、自分に対立する客体として認知することそのものうちに、すでに「花」とい
う言葉の意味分節作用を通じて、xを普遍化する操作が含まれているからである」
と井筒氏は説き、「この普遍性をこそ「本質」と呼ぶ」のだという。このような見
方で考えると、宣長のいおうとすることとは、「本質」回避であり、直接無媒介的
直観知(非「本質」的直観知)とでもいえようかと井筒氏は解釈する。しかし「物
の心」を事物の「本質」とする別の立場も考えられると井筒氏は指摘する。つまり
二つの違った意味の「本質」を考えることができるのだ。

一、自然に人が見出すままの原初的事物の、個体的実在性としての「本質」。
 二、意識の分節機能によって普遍化され、概念化された形で事物が提示する「本質」。

 「一」を個体的「本質」、「二」を普遍的「本質」とし、井筒氏は「本質」の区
別を考察していく。イスラーム哲学にはこの二つの「本質」を術語的に区別して考
える伝統があると井筒氏はいう。

P40~45
「マーヒーヤ」と「フウィーヤ」
 イスラーム哲学者ジョルジャーニ(十五世紀)の『存在の階層』に対する註解を
井筒氏は次のように引用している。「いかなるものにも、そのものをそのものたら
しめているリアリティーがある。だが注意すべきは、このリアリティーは一つでは
なく二つであるということだ。その一つは具体的、個体的なリアリティーであって、
これを術語でフウィーヤという。もう一つは普遍的リアリティーで、これをマーヒ
ーヤと呼ぶ。
 「フウィーヤ」は「一般的意味での本質(マーヒーヤ)」といい、「マーヒーヤ」
は「特殊的意味での本質(マーヒーヤ)」と呼ばれている。
「特殊的意味での本質」としてのマーヒーヤは、アリストテレスの「本質」(それ
は何であるか)をアラビア語に移したものであり、その答えとして与えられるもの
は、「xの永遠普遍の自己同一性を規定するもの」として「本質」は定位されると
井筒氏はいう。これこそが完全に抽象化した「普遍者」、「一般者」である。
 「一般的意味での本質」としての「フウィーヤ」は「一切の言語化と概念化とを
峻拒する真に具体的なxの即物的リアリティー」であり、「フウィーヤ」は「これ
であること」という意味であると井筒氏はいう。
 「切れば血のほとばしる」実在性のおいて存在させているのは「個体的リアリテ
ィー」だけ、つまりフウィーヤだけであるとする考え方があるが、われわれの表層
意識がそれに視線を向けたとき、実在性の色褪せた、共同的な形姿で現われざるを
えない、それが普遍者としての「本質」、つまりマーヒーヤであると考える人がい
ることを井筒氏は指摘する。
また普遍的「本質」こそ、具体的、個体的に成立させる存在根拠であると考える人
もいるという。経験的世界に存続させる根拠としての個別のリアリティーを「個的
独自の個的実在性に認めないで、むしろそこに個的形態で顕現している普遍的「本
質」に認める人たち、「本質」は普遍的でありながらしかも実在すると考える人た
ちがいると井筒氏はいう。

P47~50
フッサール現象学における「本質」
 井筒氏によると、マーヒーヤ(「本質」の普遍性)とフウィーヤ(「本質」の個
体性)の不安定さは、フッサールの現象学の「本質」理解の曖昧さに露呈している
という。フッサールの現象学的還元と形相的還元の二重操作を経て本質直観的に把
握した「本質」は、上のどちらの「本質」だったのであろうかと戸惑うと述べてい
る。どういうことであろうか。
 われわれの意識経験に現われる具体的な事象は、「本質」を求め「類化」や「形
式化」をほどこせば、「具体的生の現実から遠く引き離された無色透明な普遍者で
ある」ことになろうと井筒氏はいう。フッサールの後裔者はその抽象性から脱出し
ようと解釈的努力をしているという。例えばエマニュエル・レビナスがいる、あるい
はメルロー・ポンティがいる。ポンティは、「引き離された本質」とは言語化され
た「本質」のことであるが、現象学的還元における「本質」は生きた現実の、躍動
するものであると述べていると井筒氏はいう。
 仏教におけるコトバの意味分節機能が及ぼす「妄念」の働きを考察した井筒氏は、
深層意識における意味的アラヤ識を考えれば、表層意識に現われていない「種子」
の働きがあることを指摘する。フッサールの「本質直観」は、前言語分節的意識が
語りかける何かを現前させるものであるとポンティの解釈からいえないこともない
という曖昧さを残してしまうと井筒氏はいう。

P50~53
リルケの「本質」
 マーヒーヤとフウィーヤという二つの本質を考えたとき、リルケのような実存的
体験を重視する詩人はフウィーヤ、つまり「個体的リアリティー」に強い関心を示
すことを井筒氏は指摘する。経験的事象にこそ詩の磁場であることは現代において
詩人であろうとする私においても共通するものである。経験の一回性は重要な意味
作用をもつ。しかもそこで感受した形象を詩人自身の内面世界に引き込んでいくだ
ろう。「そのものの純粋な形象を、日常言語より一段高次の詩的言語にそのまま現
存させようとする」のだと井筒氏はいう。言い方を変えれば、フウィーヤからマー
ヒーヤへの過程が創作行為であると私は考えるが、逆は真ではないであろう。リル
ケにとってマーヒーヤを通してものを見ることは、「ものの本源的個体性を最大公
約数的平均価値のなかに解消してしまうこと」だと井筒氏は主張する。しかし問題
は言語的意味分節において、つまりリルケが詩的言語で表現するときに起こる困難
さである。井筒氏によれば、フウィーヤ(個体的リアリティー)は表層意識には自
己を開示しないことをリルケは知っていたという。ノーラに送ったリルケの手紙で、
彼は次のようなことを述べていた。「内部の深層次元において、ものは始めてもの
として、その本来的リアリティーを開示する」と。このことは、事物の真の内的リ
アリティーが、すべてを言語意味的に普遍化する表層意識の対象にはなりえないと
いうことと、表層意識と異なる意識の次元の存在があるということを伝えているの
だと井筒氏はいう。その深層領域にあるフウィーヤ(個別的リアリティー)を言語
化する、つまり「フウィーヤを非分節的に分節し出さなければならない」のであり、
「表層言語を内的に変質させるによってしか解消されない」であろうし、「異様な
実存的緊張に充ちた詩的言語、一種の高次言語が誕生する」ことになると井筒氏は
結論する。

P53~61
芭蕉の「本質」
 宣長の関心のあった詩的言語は、リルケの高次言語とは違って「マーヒーヤの顕
在的認知に基づくコトバ」であると井筒氏はいう。それは「和歌の言語」であり、
「一切の事物、事象が、それぞれその普遍的「本質」において定着された世界」だ
からである。
 しかし普遍「本質」的に規定された世界に飽き足らない詩人たちがいたと井筒氏
は指摘する。平安朝の「眺め」を彼は解説する。「新古今」的幽玄追求において
「眺め」の意識は「茫漠たる情趣空間のなかに存在の深みを感得しようとする意識
主体的態度ではなかったろうか」と井筒氏は問う。眼前の具体的な事物を認知した
とたん、普遍的「本質」が見えてしまうのだが、「できるだけぼかすことによって、
本質の存在規定性を極度に弱めようとする」のだと解釈する。
 
ながむれば我が心さへはてもなく、行くへも知らぬ月の影かな
                          式子内親王

 井筒氏によると、「詩人の意識は事物に鋭く焦点を合わせていない。それらは遠
い彼方に、限りなく遠いところにながめられている」という。視線の先で、事物は
「本質」的限定を越え、そこに存在深層の開顕があるという。この「眺め」意識は
事物のマーヒーヤを否定するものではなく、肯定するからこそぼかそうとするのだ
と井筒氏は指摘する。
 
 さて芭蕉についての考察に入る。芭蕉は上のような態度は取らなかった。フウィ
ーヤを追求する激しさにおいてリルケとひけを取ることはなく、詩的実存のすべて
をかけて追求したと井筒氏はいう。しかし普遍的な本質であるマーヒーヤの実在性
を否認することはなかったもいう。事物のフウィーヤはマーヒーヤと同一であると
考えた。普遍的なものと個体的なものが具体的存在者の現前において結びついたこ
とになる。つまり「概念的普遍者ではなく実在的普遍者としての「本質」が、いか
にして実在する固体の個体的「本質」でもありえるのか。」このアポリアを以下の
ように井筒氏は解読する。
 普遍的「本質」を普遍的実在のままではなく、個物の個的実在性として直観すべ
きことを芭蕉は説いたのだと井筒氏はいう。芭蕉の俳句では、マーヒーヤがフウィ
ーヤに突如転成する瞬間が詩的言語に結晶するという、実存的緊迫に満ちた瞬間の
ポエジーであったのだと井筒氏は主張する。

  物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし
                            芭蕉
 永遠不易の「本質」、それは事物の存在深層に隠れた「本質」であると井筒氏は
指摘する。「物」と「我」が分裂し、主体(物)が自己に対立するものとして客観
的に外から眺めることのできる存在次元を存在表層と呼ぶとすれば、存在深層とは
存在表層を越えた、「認識的二極分裂以前の根源的存在次元」であると井筒氏は分
析する。この事物の普遍的「本質」、マーヒーヤを芭蕉は「本情」と呼んだのであ
る。
 井筒氏によると、芭蕉のいう「本情」は表層意識では捉えられず、直接触れるに
は根本的な変質が行われなければならない、この変質を芭蕉は「私意をはなれる」
と表現し、このような美的修練を「風雅の誠」と呼んだのだという。さらに、「本
情」は不断に表れるものではなく、ものを前にして突然「・・・の意識」が消える瞬間
があり、そういう瞬間にこそ、ものの「本質」がちらっと光るのだと井筒氏は説く。
「物の見えたる光」のことである。
 さらに井筒氏の解釈に沿って要約していこう。人がものに出会う瞬間に、人ともの
との間に一つの実存的磁場が現成し、人の意識は消え、ものの「本情」が自己を開示
するというのだ。「物に入りて、その微の顕われ」ることである。
 すなわち、永遠不変の「本質」が、芭蕉的実存体験において、突然、瞬間的に、
生々しい感覚性に変成して現れるのだと井筒氏はいう。普遍者が瞬間的に自己を感覚
化する、この感覚的なものが、その場のおけるそのものの個体的リアリティーであり、
マーヒーヤがフウィーヤに変貌する瞬間であるという。

 フウィーヤだけを意識し、マーヒーヤを概念的虚構とするリルケと、マーヒーヤの
形而上的実在性を認め、感性的表層に変成するフウィーヤの瞬間を捉えようとする芭
蕉との違いは明確になった。この二つの型に共通することといえば「即物的直視」で
あろう。しかし「即物的直視」を排し、マーヒーヤをイデア的純粋性において直観し
ようとする詩人がいると井筒氏はいう。顕著な例としてマラルメを挙げる。哲学的に
は普遍的「本質」の実在論につながるものであるといい、井筒氏は『意識と本質』Ⅲ
においてマーヒーヤ実在論を東洋哲学に探ることになる。

次回第七回につづく copyright2012 以心社



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