ヒーメロス通信


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アルチュール・ランボーにおける詩人像(ニ)小林稔

2015年04月24日 | ランボー研究

長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(二十一)

小林 稔

 47 来るべき詩への視座

 アルチュール・ランボーにおける詩人像(二)

 

 生成の詩学とエクリチュール

「生の変革」を詩作の要因とする詩人にとって彼と言葉の関係は、真理の探究を企てる試みから、一般的な詩人のそれとは甚だしく異なるものになるのは当然と言わなければならない。宇佐美斉氏はその著作『ランボー私註』で、『地獄の季節』のエクリチュールを際立たせているのは、「ことばと現実の生との相克が、もはやぬきさしならない程にまで、緊迫の度を加えてしまっている」のであり、「語られることによって、別の新しい方向を辿り始めようとする、現在進行形の生そのもの」なのだと指摘する。

 このようなエクリチュールの方法論は、六十年代後半、あるいは七十年前後の、私が詩作に着手した当時には特に新しい方法ではなかった。デビュー当初のクレジオの文体に特徴づけられるものの一つであったといえるであろう。しかし、そのような方法論は、「書く」ことに生のすべてを委ねるという覚悟なしに試行することは無意味であろう。あらゆる詩人に了解されている「書くことは生きること」ということほど曖昧なものはない。多くの詩人は、「書く」ことで人生のある部分を犠牲にしたり、人がすべきとされる日常事を疎かにしたと悔いながら「書く」ことにしがみついていることもあろう。しかしランボーのように「書く」ことが全面的に生と表裏一体となっている詩人とは事情が異なる。「書く」こと以外に帰るべき場所がない。文学の内側と外側の現実との境界がなく、そのことで、尋常ならぬ「地獄のエクリチュール」の語りを生み出していると言えるのである。宇佐美氏は、「切り裂いた自分の腹部から内臓をつかみ出し、苦痛に顔を歪めながら、その正体を見とどけてやろうとする、壮絶なまでの自意識との闘いが生んだ、前代未聞の語りであろう」と語るのである。

 文学の内と外との分岐線がないとはいえ、一冊の書物へのテーゼはあったはずである。「あと半ダースほどの、ぞっとするような物語をでっち上げなければならない」という作為をドラエー宛の手紙の文面から読み取ることができよう。つまり文学と現実世界との一致を目論みながら、詩人としての自分を詩作に追い込もうとする、現実に生きるもう一人の自分がいるのだ。前者を夢の実現を遂行する自分であると呼ぶとすれば、後者は批評家、プロデューサー的存在である。つまり彼の中に理想とする詩人像がすでに明確化され、それに向けて近づけようとしている。

 

おれは地獄にいると信じる、ゆえにおれは地獄にいる。(「地獄の夜」拙訳)

 

 デカルトのコギト、「われ思う、ゆえにわれあり」を模倣したこの表現でランボーは何を言いたかったのか。宇佐美氏によれば、「語ることが生きること」だったのであり、回想することで生き直すことではなく、回想するとみせながら未知の生を生きることに目を向けていると理解すべきであろうという。「彼はここで地獄を語ることによって、それをみずからの身にひきうけ、積極的に生きようと決意する」のだ。『地獄の季節』の執筆時期は一八七三年の四月から八月とするなら、ヴェルレーヌの発砲事件を含む、二人の親密な交流のあった時期と重なるが、先のような理由から、「愚かな処女(おとめ)」や「地獄の夫」がヴェルレーヌとランボーとすることは間違いであろう。宇佐美氏のいうように「ヒント」になったに過ぎないとはいえ、「現実の地獄」に自分を置いてみようと思ったに違いない。このように詩人としての自分を絶えず実験台に追い込もうとするもう一人のプロデューサー的自分がいるのだ。すでに生きられた過去を語るのではなく、「書く(エクリ)こと(チュール)」によってしか始まらない生の真実に出会おうとした。

 

三つの挫折

イヴ・ボヌフォアによると『地獄の季節』の「形而上学的企ての再検討」は、彼の「人生を変えるという問題への答えの探求」であり、三つの挫折がそれぞれの章に描かれているという。その導入部である「悪い血」は最初期に書かれた原稿であり、三つの挫折の紹介であるが、そのあとの章で展開されている。三つの挫折は何か。一つ目は見者の企ての挫折である。「錯乱Ⅱ」が相当する。二つ目は「道徳性の再発明の企ての挫折であり「錯乱Ⅰ」で語られる。三つめは真実を求める精神の挫折であり、「地獄の夜」で語られているという。ボヌフォアの『ランボー』という書物に付き従ってその論旨を少しずつ追ってみよう。

 それぞれの挫折を論じる前に、ボヌフォアは『地獄の季節』という詩集の偉大さと重要性について次のように述べている。「できあがった詩が万人にとって価値をもちうるとすれば、それは作者が、私的な体験において、一人の人間である以外の何事も望まなかったから」であり、「ランボーが普遍的なものに到達できたのは、自らの不安の中に引きこもったからこそなのだ」と指摘する。「僕の運命はこの本にかかっている」とドラエーに伝えたランボーの言葉、「自分を見出し自分を立てなおし、来るべき年月のための一つの契約を自分の意志に提出することを必要としている」のであるゆえに、「人に読まれたいと思ったりするものではない」とボヌフォワはいう。『地獄の季節』はランボーが生涯に唯一書物にしようとしたものであったが、その費用も捻出できないことは初めから分かっていたので、五、六冊の見本をもらえるだろうことは承知していた。書物が完成したときには、自分で書いたものにすっかり関心を失っていたのであった。

 この書物の難解性は、ランボーの人生と同様に、支配され秩序づけられないいくつもの思想の「同時併存性」にあり、したがって様々な矛盾にあふれているとボヌフォワはいう。「エネルギーと悲惨との矛盾」、「完全な孤独と疲れを知らぬ希望との矛盾」、「彼は矛盾こそ実在するものの宿命であることを理解した」とボヌフォワは指摘する。どういうことか。矛盾する項目を整然と取り上げ語ろうとするのではなく、『地獄の季節』の生成するエクリチュールのなかで生き直し、「勝利を得ずに力尽きる」ことの方がランボーの真実に近いとボヌフォワは言うのだ。

 

  ゴールの国の先祖譲りの、眼は青白く、狭苦しい頭と喧嘩のまずさを受けついたおれ。身につけているものと言えば、奴らと同じ野蛮さだ。だがおれは髪の毛にバターなど塗ったりしない。(「悪い血」拙訳)

 

「悪い血」はこのように始まる。「人間類型中のひとつに自己を同一視することによって普遍的なものの中に身をおく安息感を味わおうとした」とボヌフォアはいう。しかしその試みは失敗し、自分を例外的個人であると思い知ることになる。歴史に締め出された劣等種族の系譜に自分を置こうとする。その種族、ゴール人たちは十字軍に連れていかれキリスト教からも追放され、「神に渇えていながら、神に出会うためのかたちを人間に与えてくれる意識というものをもつ能力がない」種族である。劣等種族は「高貴さ」と「自由」を神から奪われ、「存在と自然」を同一視することによって、自然を自分のものにする科学に向かって集団的に救われようとしている」とランボーはいう。そしてランボーには「二重の欲望」が現われる。「肉体と魂への、救済と救済の中の自由、本能的で、即座の享受がもたらすあらゆる幸福にみたされた生活への二重の欲求が強く現われてくる」。キリスト教以前の人間であると同時に、キリスト教を超えた現実で、個人というものはどのようになりえるかという両義性が見られるが、異教徒の言葉しか知らないので沈黙し、劣等種族からも離れていくのだとボヌフォアは読み解く。

 

科学、新興貴族たち! 進歩。世界は動く。なぜ回らないのか? (「悪い血」より拙訳)

 

「新興貴族」とは、湯浅博雄氏によると、「キリストの教えの代弁者」であった領主貴族に代わる「新しい貴族」という意味である。近代主義者は自分が宗教の非合理性や宗教的呪縛から解放され、主体性を確立していると思い、対立し攻撃する宗教性の本質的な核とは対決していないと湯浅博雄氏は『ランボー論』で述べる。ランボーは対決するが、敵は外部ではなく内部にいると自覚することになる。自分の思考や感情などが、〈キリスト教的思考システム〉によって規定されていることに気づいたという。それは「私」の意思や思考に溶け込んでしまっている何ものかであると湯浅氏はいう。

 

  異教徒の血が戻ってくる。「精霊」は近づいている。キリストはなぜおれを助けないのか、おれの魂に高貴さと自由を与えておいて。ああ! 福音は去った。福音よ! 福音。(「悪い血」より拙訳)

 

「神は死んだのか?」ニーチェもランボーも神の実在は意味をなさない。「宗教的な個人性への、救済における意識への意欲というものが、彼を助けて最後の一歩を踏み越えさせるべき神の援助はないままに、常にもちつづけられてきた」。それは神が実在しようとしまいと、我々とは交渉をもたない。「はるか遠くにいる「怠惰ナル神」を目覚めさせる企て」であったとボヌフォアは解釈する。「福音は去った」のであれば自分の手だてに頼るしかない、つまり神なしに「神聖な」生活を築こうという「近代的な行為」を下書きするものだと指摘する。

 

おれは今、アルモニカの海岸にいる。なんと街々は夕闇の中で明かりを灯している。おれはヨーロッパを去る。

     …………………………

出発は見合わせた。この道をまた歩いていこう。(「悪い血」より拙訳)

 

 ランボーにヨーロッパを去ろうという考えが突然浮上するが、再度現実に戻される。そこには、彼自身の宿命だけでなく、ヨーロッパの宿命をも引き受けたランボーの姿を見ることができると橋本一明氏『アルチュール・ランボー』でいう。しかし現状そのままの現実の肯定ではなく、芸術家は自らの時間性を脱している創造の自由をもって臨むのだが、ランボーは過去を引き受けていることを橋本氏は指摘する。周囲の人たちは「人間の諸権利」にしがみついている市民であることをランボーは見て取る。ブルジョワジーを第一階級とする十九世紀、奉仕する作家は栄冠を得たが、ユーゴーやボードレールと同様にランボーはそれを拒否し、孤独者の道を選んだのだと橋本氏はいう。

 

異教徒の書、あるいは黒人の書

ランボーは見者の手紙を書いた後にヴェルレーヌに会いにパリに行くのだが、このころ「新しい韻文詩」と呼ばれる作品を書いていた。『地獄の季節』の「錯乱Ⅱ 言葉の錬金術」ではそれらの詩を引用し、過去の自分の詩を振り返っている。ところで『地獄の季節』はもとは「異教徒の書、あるいは黒人の書」というタイトルであった。黒人(ニグロ)という言葉でランボーは何を言いたかったのか。湯浅博雄氏によると、「黒人」とは現実に存在する黒人のことではなく、西欧近代社会の〈法〉とキリスト教的〈道徳〉に律せられた生活、人生、実存のなかで、失われ、不可能となっている何かを潜在的に秘めている人間のことであるという。ランボーは白人としての生から脱出しようと目論んでいるのだ。「生を変える」という叫びはヨーロッパからの脱出、ロゴス的なものからの脱出であり、自分自身が黒人になることなのであるが、言葉との関わりを変えること、「詩的言語を創り出す」ことでそうしようとするのだ。それが彼の詩作の目的である。彼は『地獄の季節』の最後の詩で次のようにいうだろう。

 

おれは、ありとあらゆる祝祭を、勝利を、劇を創造した。新しい花々、新しい星、新しい肉、新しい言葉を創造しようと試みた。(「別れ」より拙訳)

 

「錯乱Ⅱ 言葉の錬金術」では見者の詩作の失敗を告白するのだが、湯浅氏が指摘するように、たんに否定するのではなく「からかいながら浮き上がらせ、その価値を確認し、称揚してもいる。否定のうちに肯定が二重化し、両義的であり、それがランボーのエクリチュールにおいて本質的なことであるという。

『地獄の季節』は序章につづいて、「貧しい血」「地獄の夜」「錯乱Ⅰ」「錯乱Ⅱ」「不可能」「閃光」「朝」「別れ」という順序で並べられているが、粟津則雄氏によると、「不可能」以下の四篇はヴェルレーヌと完全に別れた後(ピストル事件以後)の作品であり、「苦悩からの解放」が感じられるという。それ以前の作品には、「見者の詩法」の実践と「あらゆる愛のかたち」の試みに対する「苦い挫折の思い」を味わいながら書いている点に粟津氏は注視している。

 

ヴェルレーヌとの愛のかたち

  

おそらく彼は人生を変えるいくつかの秘密を所有しているのでしょう。いいえ、探しているだけなのです、と私は自分に言い聞かせていました。とにかく彼の慈愛は魔法をかけられているのです。それで私はそこに閉じ込められているのです。他のだれの魂が、彼に守護され愛されるほど忍耐できる力を、そんな絶望的な力をもちえましょう。(「錯乱Ⅰ」拙訳より)

 

「錯乱Ⅰ」では「愚かな娘」「地獄の夫」を登場させ、「愚かな娘」の告白という形で書かれている。ランボーの伝記などで知られているからここでは詳細は省くが、二人の同棲生活からヴェルレーヌとランボーを重ね合わせて解釈する人が多い。しかしランボーが現実と詩の世界をどのように捉えているのかを知る必要があるだろう。先述したように、ランボーの詩篇から当時のランボーの現実行為を単純に読み取ることは間違いである。宇佐美氏によれば、現実の出来事は「表現のボルテージ」を高める喩の核」であり「作品の背後に秘められている」ものである。しかし、粟津則雄氏は「この作品の背後に、ヴェルレーヌとの生活のまだなまなましい記憶が生きていることは疑うことができない」とする。もちろん「忠実な記録」であることは否定しているが、ランボーが現実で知り得た事柄は詩作になくてはならぬものであった。つまり頭脳で虚構を創り上げる想像力を駆使しただけのヴィジョンと、現実の体験から知り得たものの上に構想したヴィジョンとは異なると言いたいのだ。詩作を「生の変革」とするランボーにとっての詩と現実の距離は複雑な関係を呈するだろう。ランボーを取り巻く事象はすべてが詩と体験との繋がりをもつことを忘れてはならないが、それらをそのまま記述するのとは違う。そのような意味でヴェルレーヌとの出会いは奇跡的であった。双方の何かひとつでも欠けていたら私たちが知るランボーではなかったであろう。このことをもう少し詳しく説明するために、粟津氏のランボーとヴェルレーヌについての人物分析を読み解いてみよう。

 ヴェルレーヌは両親の溺愛のもとで育てられた。流産した三人の子どもの後に生まれ、たった一人の子どもであったことを考慮すれば、仕方なかったのかもしれない。「彼の中には、母親が体現する、まさしく胎内のような、安全で、あたたかい、閉じた場所と、恐怖と不安にあふれた外部の間の、激しく対立した不和が作りあげられることになる」。世間でいうマザー・コンプレックスの持ち主で、胎内願望が強く年を重ねるごとに一層強まったのである。妻に対しても母親の代替物を求めていたという。ランボーもまた別の意味で母親の支配下にあったが、子宮に閉じ込めようとすればそれだけ強く脱出しようとしたのだ。ヴェルレーヌは胎内願望によって、外部や自由を拒否しようとするが、害日や自由の魅力に引き寄せられてもいる。しかし外部に飛び出しても自ら内部に引き戻ろうとする、それは胎内願望が生み出した幻に過ぎないからだと粟津氏は主張する。だがその幻は、具体的にランボーという少年の姿をとってヴェルレーヌの目の前に現われたことで生じたことになる。ランボーにとっては、反対に外部の自由を求めることと詩作は切り離せないものであった。前回にも述べたのでここでは省くが、人が置かれた様々な境遇は偶然に持たされたもので、そこから自由になれると信じたのである。自分が別の自分に変身できると夢想した。夢想を駆り立てるのは言葉の力である。それが神秘思想などの影響もあり急激に「見者の詩法」にまで発展する。胎内脱出はこの世界への冷徹な現実認識に及んでいった。ランボーとロマン主義の詩人たちとの分岐線は、ランボーは、遠い世界への憧憬へと向かわずに、この生きる現実にあるべき生き方、つまり「真理」を手中に収めようとしたことにある。ランボーは「見者の手紙」で書いた「あらゆる形の愛」を実践した。先に述べたように、頭脳で虚構するのではなく自分を修正するためには実際に行動する必要がランボーにはあった。宇佐美氏によると、『異端の書』あるいは『黒人の書』と題した詩篇は、今日私たちが読む『地獄の季節』とは違い、「虚構の回路を通ってはじめて実現される」「キリスト教文明社会の総体との、大がかりな対決を目ざしたものであった」という。それがヴェルレーヌとの破局で変更を迫られた、と言うよりは、「生活原理と詩学とのランボー特有の相互浸透」という観点から考えれば、むしろランボーは自らすすんで「現実の地獄」に飛び込んで行き、「書きつつ現実の生を生き、現実に生を生きつつ書き続けた」と言えるのだという。しかし再び繰り返すが、『地獄の季節』は現実にあった事実の報告ではない。書かれたテクストに生身のヴェルレーヌとランボーを読み取るべきではないのだ。詩に見出されるべき真理にとって現実の事象は現象に過ぎず、シーニュと言うべきもので、現実の行為を経由して知るべきことなのである。

 

『地獄の季節』の意味するもの

「錯乱Ⅰ」で書かれていることは、湯浅氏のいうように、エクリチュールの出発点になったのはヴェルレーヌとの友愛とその挫折であり、破綻の原因はどこにあったのかを書くことで問い続けようとしたのである。経験を基盤にしながら「物語」の次元に高められていく。Ĺamour est réinventer(愛はつくりかえなければならない)とランボーは詩篇の中でいう。Changer la vie(生を変える)ことで「愛」のエネルギーを回復させなければならないというのがランボーの提示すテーマであるという。つまりこの「詩の復権」は道徳や法、しきたりが定める愛ではなく、「相互に浸透し、交流するような愛へと転換させるべき」愛である。そのように「夫」は考えているが「処女(むすめ)」にとっては危険な思想であったのだ。「夫」が不幸な人々に優しさを見せることは認め賞賛するが、自分に向かっての夫からの愛には慈愛は感じられない。なぜなら「自分が位置している地点まで相手が高まり、昇るよう促す強い要請だと「処女」には感じられてしまうからであると湯浅氏は指摘する。社会から絶縁し、放浪に身をやつす夫婦の破綻劇。夫の側に立つランボーが愛を成就させようとする欲望を、ヴェルレーヌをモデルにした女性がどのように受け入れていくのか否かを、妻の側からの告白という形で進行する。生物的なジェンダーを越えて、男性性と女性性の対立の構図を浮き彫りにする。

 

  彼(夫)は言うのです。「おれは女なんか愛さない。愛は作り直さなければならないものだ。女どもは保証された地位しか欲しない。地位が手に入れられれば心も美もそっちのけだ。あとは冷ややかな侮蔑だけが残る、それが今日の結婚の糧なのさ。(「錯乱Ⅰ」からの拙訳)

 

ランボーの女性蔑視と受け取られかねない記述の根拠はどこにあるのか。社会のしきたりや道徳を越えた愛、つまり一人の人間の固有さを求め独特さに応える愛が自分に向けられたとき、女性は男性に引き寄せられ恍惚としながらも、だからこそ「純潔」に悖る罪深いことではないのかと意識に捉えられると湯浅氏は解釈する。自らの内側から込み上げてくる愛の力の強まりを肯定できない。むしろ「神聖な夫」を愛する方に愛を向けようとする。つまり宗教、道徳、法を愛することの方に傾注する。ランボーはこのことを「キリストの呪詛」「エネルギーの永遠の盗み」として批判する。ランボーはそれとは別の愛のかたちを模索していたのだと湯浅氏は指摘する。キリスト教から起因する愛は、「隣人愛」であり、ランボーはそれを拒否し、求めていたものはそれに代わるような新しい「友愛」である。それでは「隣人愛」を超えるような「他者への愛」とは具体的にどのような愛なのだろうか。

 

理想的共同体の愛

「錯乱Ⅰ」における「夫」と「処女(おとめ)」において、ランボーの求める愛のかたちは「処女」から語られる夫の主張や行為から読み取れるが、「処女」のそれらは女性性の愛の欲求という設定として描かれているといえよう。ヴェルレーヌの主張が反映されていると思われるが、それはキリスト教を基底にした「隣人愛」を越えてはいない。ランボーから見ればそれは腹立たしことであり、最終的には二人の愛が挫折した原因であった。モデルとなったランボーとヴェルレーヌの愛は、詩人である夫の放浪者の生き方に魅かれた「処女」が、ついには絶望的な苦しみを味わいながら破綻するしかなかったのである。キリスト教的共同体を越えようとする夫とあくまでキリスト教的共同体から越えることのできない妻の葛藤が描かれているのである。

 湯浅氏によると、宗教的共同体観は、民族国家や国民国家、党派のような共同体などすべての共同体観に深い影響を与えているという。キリスト教は十字架上のキリストに受難として同化するなら一般的に仕事をする個人ではなくなる。個的主体から離れて時間の外の時間―現在のない時間を生きるようになる。主体と客体の区切りが破れ、混沌とした両義性の感情、連続性の感情に浸される。この感情に呼びかけられ、広大な愛、忘我的な愛に目覚めさせられる、つまりイエスの普遍的な愛、人間の罪を贖う犠牲としての愛に参入し、分有することだとパウロたちの初期教会は了解したのであり、それを反復することが聖体拝領の秘蹟なのであると、湯浅氏は指摘する。

 パリ・コミューンの闘いにおいて、ランボーは友愛において結ばれていたと思った。しかし第二帝政期の支配階級に弾圧され敗北すると、その友愛に結ばれた連帯は失われていったのだ。革命運動においての友愛や連帯は闘争という共同性のなかでしか存在しない他者への愛であり、「永続する闘争」に中で成立するものであると湯浅氏は指摘する。ランボーは別のかたちの共同体、つまりヴェルレーヌとの二人だけの共同体を求めてロンドンに渡ったのであるが、その結果挫折に終わったことはすでに述べた。

 

カップルの共同性

ここでランボーが強く求めたカップルの共同性とはどのようなものなのかを明確にしてみよう。義務的な愛を超える「他者への愛」をもう一度創り出さなければならない。「生を変える」ことで「愛」に力強さやエネルギーを回復させるように交流する「愛」へ転換することである。(先述したように「処女」には困難なものであった。)湯浅氏はここで主体にとって「他なるもの=者」とは何かを考察している。

他なる事物は私の意識の外部にあり、「超越的」である。しかし対象として、つまり「真に私へと現前するもの」として経験可能なものと信じられている。現前化する可能性がア・プリオリに開かれている。他なる者は他なる事物とは違って、他なる自我であるから、主体としての「あなた」が対象としての「私」を認識し、了解するという相互性及び対称性があると想定されている。しかし、「愛の関係」においては、この主体―対象の枠組みと秩序が通常のままでは維持されなくなるという。「愛の関係」とは常に他者と向かい合う〈対(カップル)〉の共同性であり、同質性の結合とは違う。客観的に同一の内容が共同性を媒介しているのではなく、ある不思議さへと共に導かれているという感情であると湯浅氏は指摘する。

 この『自己への配慮と詩人像』で私が度々論じている「哲学と霊性」においてフーコーがいう哲学の定義、「主体が真理に至ることができるようにするものを問う思考の形式」と考えるならば、「主体が真理に到達するために必要な変形を自身に加えるような探求、実践、経験」を「霊性」と呼ぶことができるであろうという主張がフーコーから提出され、霊性の側面である、主体の立ち返り(コンヴェルシオン)が現在の主体の条件を引き離す運動であり、それをエロース(愛)の運動と呼ぶことができるとフーコーは主張する。湯浅氏の述べる「愛の関係」が他者との対称性、相互性を破るように働く〈対〉の共同性と関係があるのではないかと私は考える。「ある不思議さへと共に導かれる感情」が生じるのは、湯浅氏によると、〈愛〉のパッションが主体自身を変容させるから」であるという。さらに湯浅氏は、エロース的な欲望は、「自分を燃え上がらせ、焼失する」欲望であると指摘する。「自ら手にする力やエネルギーを激しく消尽させようとする欲望」なのであり、相手(、、)に(、)も(、)「私の欲望に匹敵するほど大きな欲望を目覚めさせたい」と願望しているのだと説いている。しかし自らを外側から考察する主体の思考に基づく私と他者の対称性は成立していないのであり、互いが主体でもなく対象でもなくなる次元において出逢い関係する愛であると指摘している。

 詩というものが言葉を媒介にする以上、他なるもの、他なる者との合体を夢見るものである。言葉による他者との合一の不可能性を分析しえたとしても、それによって詩人の孤独な夢は終わることがないだろう。

 

 ランボー的「愛の完成」

 湯浅氏の述べるエロース的な欲望に支配される「愛のかたち」を要約してみよう。まず主体がある強烈な動きに運び去られ、それが運命的であると思えるようになる。主体が魅惑される部分は秘められた部分である。それをつかみ出そうとしても不可能であり、そうすればするほど密かさは消滅せず、いっそう不思議なものに感じられる。世の中と絶縁した世界に二人だけが立たされているが、その一対一であるカップルの共同性は一体感に基づくものではない。「私」と「あなた」が客観的に同一の内容を分かち持つのではなく、互いに主体であることから離れることで実現されるように働く。このような愛の永続は、「他者の愛と欲望が絶えず深まりゆく」ことを通じてのみ維持される。また一方が他方の愛と欲望を自分の経験であるかのように生きるという体験が求められる。しかしそう考えるのは錯覚であり、他者はどこまでも他者である。つまり他者という現前性は、ある〈非―現前性の現前〉として現われる。それは言葉が事象そのものの現前ではないことと照応していると湯浅氏は主張する。言葉は事象そのものを現前させようと欲望して近づいても事象そのものを現前させることはできない。他者を他者たらしめている何かは、「沈黙、夜」の領域としてのみ現われると湯浅氏はいう。ところが私が他者の体験に到達することができると信じられたとき、私と他者は相似形であり、対称的であると考えられ、他者性を失ってしまう。私にとって絶対的に他なるものとなる次元を、そうとは気づかずに縮減し、同質性へと還元してしまうことになる。

「錯乱Ⅰ」のカップルの破綻はこのことと関係があると湯浅氏はいう。夫は自分の理想を相手に納得させ共有させたいと願う。妻が異議を唱えたいと思えば、夫は説得させようと思う。妻からは夫の強制的な、攻撃的な動作にしか感じられなくなる。しかし詩人は一人になろうと他者への合一を放棄することはできないだろう。ランボーの『イリュミナシオン』の「Genie」(天才)という詩には、彼が他者との合体を夢見たヴィジョンが描かれている。

 

 GENIE(天才あるいは守護神)拙訳

 彼は愛情だ、現在だ、泡立つ冬に夏の騒めきに、家を開け放ち、彼は飲み物や食べ物を浄め、遁れ行く場所の魅力と停止の超人的な歓喜である彼ではなかったのか。彼は情愛(affection)だ、未来だ、力だ、愛(Amour)だ、私たちは熱狂と倦怠のただ中に立ち、嵐の空と恍惚にはためく旗を越えて過ぎてゆくのを見ている。

 彼は愛だ、再び発明された完璧な尺度だ、思いがけぬ驚くべき理性、それに永遠だ。生まれついた資質の愛される機械なのだ。私たちは皆、彼の譲歩と自分たちの譲歩の恐怖を抱いていた。おお、私たちの健康であることへの喜び、能力の躍動、自分勝手な愛情と情熱、限りのない生に向って私たちを愛する彼のために……

 私たちが彼を思い起こす、すると彼は旅をしてくる。…もし崇拝が消え去れば、鳴り渡る、彼の約束が鳴り渡るのだ。「それらの迷信、それらの古い身体、それらの世帯、それらの年齢を投げ棄てよ。そんな時代は失われてしまったのだ!」

 彼は退去したりしないだろう、天から再び降りてこないだろう。女性の怒りや男たちの陽気さ、すべての贖いを完遂することはないだろう。なぜなら、彼がいて、愛されていれば、それは済んだことなのだ。

 おお、彼の息、彼の頭、彼の疾走、形態と行為を完成させる恐るべき迅速。

 おお、精神の豊饒、世界の広大さ!

 彼の肉体! 夢見られた撤回、新しい暴力の交わされた恩恵の破壊!

 彼の視線、彼の視力! 次から次と解放される、すべての古めかしい跪拝と数々の苦悩。

 彼の日! いっそう激しい音楽の中で高鳴るすべての苦しみと運動の粉砕。

 彼の歩み! 古代の侵攻より並外れた移住。

 おお、彼と私たちよ! 失われた慈愛より善意に満ちた誇らしさ。

 おお、世界! 新しい数々の不幸の澄んだ歌!

 彼は私たちすべてを知り、私たちすべてを愛した。知ろうじゃないか、冬のこの夜、岬から岬へ、激しく揺れ動く極地から城館へ、群衆から浜辺へ、視線は視線と溶け合い、力や感情は疲れ果て、彼を呼び留めて彼を眺め、彼を再び送り、潮をかいくぐり、雪の砂漠の高みに昇り、彼の視線、彼の息、彼の肉体、彼の日につき従っていくことを。

 

(次回は『地獄の季節』における「挫折の処理」と『イリュミナシオン』の試みから詩作との決別までを取り上げます。)



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