ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

ランボー論 小林稔個人詩誌「ヒーメロス」より掲載

2015年12月23日 | ランボー研究

長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(二十二)

小林 稔

 

 

 

 47 来るべき詩への視座

 

アルチュール・ランボーにおける詩人像(三)

 

 

主体の形成と言語

ボヌフォアが指摘した『地獄の季節』で描写された三つの挫折のうちの一つ、見者の企ての挫折を考察することで、ランボーが文学と決別した理由を明確化してみようと思う。

私たちが外的世界、例えば、自然を前にして言葉を失うほどの感動を受けたり、他者との出来事において強い印象を与えられたりしたとき、感覚がいつもとは違うほどに刺激を受け、ポエジーと呼ぶべき源泉を探りあてたような気持になる。そこで何とかそのときの興奮を言語化しようと必死になる。そのときの詩人の主体は、私たちが日常生活を営んでいる主体とは異なる。

ランボーの初期の詩の特徴として、湯浅博雄氏は『ランボー論』(思潮社刊一九九九年)において「野生状態にある水や大地や大気などのただなかへ、直接的に参入する感覚作用の生々しさに、またそれに伴う印象の生気溢れる新鮮さに忠実な言葉へと鍛え直す〈感覚と印象の詩法〉」を指摘している。私も初回の論考で、『感覚』や『わが放浪』などの作品から受けるものは、詩人のみずみずしい感覚が読み手の感覚を刺激し、まるでランボーの身体に触れたように感じさせるものだと述べた。湯浅氏はプルーストを例に挙げ、ランボーと共通する、「印象のうちに伝えられた真実」の探求を目的とする文学行為を解き明かす。〈私〉を取り巻く外界のイマージュに強烈な印象を与えられた経験、例えば「一片の雲、一つの鐘塔、一輪の花、一個の小石」などに精神を集中させ眺める経験の後、「きっとこれらはなんらかの徴しであって、そうした徴の下には全く別のなにものかがあり、〈私〉はそれを発見しなければならない」という思いに駆られる。それは私たちの知性が解き明かすものよりずっと深く、感覚を媒介にしたとき感受されるものである。感受した後では小説は詩と異なり知性の力を駆使し語ることになろう。だが忘れてはならないのは、それらがどれほど「直接的」に感じられようとも、言語はほとんど文化的、歴史的参照の体系に属していて、固定した観念の及ぼす効力に染められているということである。私たちの心を導く慣性の力であると指摘する。もしかろうじて可能性があるとするなら、私たちが必死に読み解くものだけであり、ランボーが見者の手紙」で訴えた「錯乱の詩法」を駆使して、「未知なるもの」へ至ろうとするものだけであろうと湯浅氏は指摘する。

「生を変える」ということを詩作の第一要因と考えたランボーにとって、詩的言語を創り出すことは、人生を変革することでもあった。私たちが信じている自己同一性、自己自身に常に立ち会っている〈私〉がいて世界を捉えるときの起点になっているという考えは錯覚に過ぎないことにランボーは気づいていたと湯浅氏はいう。ランボーやニーチェが先陣を切って指摘したそれは、以後フロイトやメルロ・ポンティらによって深められることになる。「われわれは言葉が制度づけられている一世界に生きている。われわれはその世界を世界そのものと区別しなくなり、われわれが思考活動を行なうのは、既に語られ、語られつつある一世界の内側においてなのである」(メルロ・ポンティ『知覚の現象学』)を引用して湯浅氏は解読している。

湯浅氏の説明を要約してみよう。人間は死を怖れ意識するようになることで、自然的な直接性、すなわち動物性から離脱し、ノンを突きつけ、シンボル的なものの次元、つまり言語的なものに参入するようになったという。この言語なるものの法則性をもって、「社会的、歴史的、文化的な伝統として継承されている共同主観的なものを受容し、自分のものとしていく」、つまり、そのように「人間主体」が形成されていくという。仏教哲学者、井筒俊彦氏が『文化と言語アラヤ識』で述べていたように、「世界は始めから、一定の形で分節された存在秩序として、我々の前に現われている」という。実際には逆に「母国語の中にある分節の仕方、区切り方がすなわちそうした恣意的な価値づけが、〈言語の外の〉現実に作用を及ぼしているのであって、現実を分節化し、秩序づけているのだ」と湯浅氏は指摘する。このような認識に立てば、デカルトのコギト(われ思うゆえにわれあり)の明証性は疑わしいものになる。疑わしいものと考えている「私」もまた疑わしいものになろう。そこで「私とは一つの他者である」というランボーの言葉が甦る。湯浅氏によれば、「自らのうちに、他なるものとの関係を含んでいる」ということである。そしてランボーのいう「主観的な詩」(ランボーは手紙で客観的な詩を主張している)とは、自己同一性を確信して疑わない詩のことであろうと推測する。

『地獄の季節』の「錯乱Ⅱ 言葉の錬金術」において、ランボーは一八七二年に書いた「新しい韻文詩」(後期韻文詩)を自ら引用し、見者の詩法の挫折した理由を語っている。その口調は完全に「済んだことだ」という思いで書かれている。湯浅氏も言うように、「新しい韻文詩」ではランボーは言葉のかかわり方を根本から変えようとしていたし、新しい文体を創り出そうとしていたのである。それらの作品をここで披露しながら、嘲笑し、揶揄していると湯浅氏はいう。「からかいながら浮き上がらせ、その価値を確認し、称揚してもいる」。注意すべきは自らの作品を否定しながら肯定するという両義性であり、ランボーにおいては本質的なことだと湯浅氏は指摘する。それはランボーという行為する詩人の叛逆性や、人生のすべてを文学に賭けた潔さの魅力と関連する。

 

 思想の開花に立ち会う

 いわゆる「見者の手紙」をランボーは一八七一年五月に書いた後、ヴェルレーヌに会い、翌年一八七二年の夏にかけて「新しい韻文詩」を書く。そしてその見者の詩法が壁にぶち当たり、ヴェルレーヌとの共同生活の破綻もあって、この二年余りに及んだ文学的探求に内省を課す必要に迫られたのであった。(この時期のランボーの人生の時間は何と迅速に過ぎていったことだろう!)それが『地獄の季節』を記述する引き金になったのは確かである。湯浅氏の指摘として先述したように、自身の文学的試みを称揚することと、否定しようとすることの両義性を示しながら、「ぼくの運命はこの本にかかっている」と言わしめた。彼はエクリチュールに賭けたと言えよう。そして私は「ランボーからデリダへ」を連結するエクリチュール理論を考察していこうと考えている。「ぼくは思想の開花に立ち会っているのです」(見者の手紙)というエクリチュールの本質を示す言葉が、『錯乱Ⅱ』の最後の、Cela sest passe. Je sais aujourdhui saluer la beaute.(済んだことさ。今では美に挨拶することができる)という言葉と響き合い、文学への断念と以後の彼の人生の結末に思いを馳せるとき、(ハラルの道端で禅僧のように座るランボーの写真を見よ!)小林秀雄の「文芸の道は人が一生を賭して余りある豊富な真実の道の一つだ」という言葉ともさらに響き合い、私は複雑な気持ちに襲われ眩暈を覚えるのである。

 ランボーに触発され詩作を始めた私が、ランボーが詩作を放棄したにもかかわらず続行する理由がどこにあるのか、まずはランボーが詩作を放棄した理由が何だったのかを明らかにしなければならないだろう。湯浅氏は『ランボー論』でそれを推測しているので要約してみよう。それはまさに「錯乱Ⅱ 言葉の錬金術」の短い物語でランボー自身が語ってもいるのである。外界のさまざま事象が感覚に作用する印象を読み解こうとするが、しかし、「世界を制度づけている言葉」によっては読み解くことができない。法的効力を持つ言葉の世界では知性や理念が論理的な真実を行使することになるが、強烈な印象を伝達しようとする、つまり「過剰な出来事を生きる経験」を言葉にしようとするとき、どうしても沈黙を強いられてしまう。湯浅氏によると、言葉はある現実を浮上させることはあるが、それを〈意味を持った現実〉、〈実際の世界〉と信じてしまう。しかし、言葉によって現出する世界は、事象そのものの現前ではなく、「事象それ自体が消え去り、無化し、不在化することによって、その不在化するものの現前になっているのではないか」という。なぜなら、「言葉というシーニュ(記号)は、直接性から切り離された間接性の次元」であり、「実体のレヴェルとは切り離されたシンボル性のレヴェル以外にはありえないから」である。「言葉が出現させる現実は、つねに事象の模擬、擬態としての現前であり初めから現前を模擬している」と湯浅氏は説明する。

 一般的な伝達世界では、言葉の機能が間接的であろうと不具合を生じることはない。しかし、ポエジーの訪れが詩人に降下し、ポエジーが伝達しようとし言語化しようとする謎を解き明かそうとするとき、真実を伝達することが不可能性を帯びてくるのだ。この「過剰な出来事の経験」こそがまさにポエジーを感知した経験である。一瞬言葉を失うが、つまり沈黙へ誘われるが、詩人はさらに語ろうとするだろう。湯浅氏が言うように、言い表せぬものを書き留めることこそが、言葉の本来の使命であり、栄光であると詩人は熟知しているからである。だからこそランボーは、新しい詩的言語を創ろうとした。(「A(アー)は黒、E(ウー)は白、I(イー)は赤、O(オー)は青、U(ユー)は緑。いつの日か、あらゆる感覚に通じうる詩的言語を発明するのだとひそかに思い込んでいた。」)この「母音」で試みたような世界言語は比喩に過ぎないだろう。実際は言葉使いや文体の創出である。ランボーにおける文学的な試みは、それにとどまらずつねに「生を変える」試みと一体化しているのだと湯浅氏は指摘する。「生を変える」とは、〈世界〉や〈人生〉の見方を一新させることであり、〈生〉や〈存在の仕方〉を変えることである。それはランボーから見れば、「白人的生」から「黒人的生」に変革することであった。ここでいう「黒人」とは実際の黒人ではなく、西洋近代社会の〈法〉やキリスト教的な〈道徳〉に従属していない、近代的な科学や理性から閉ざされている黒人の「眼」を意味すると湯浅氏はいう。

 

 ポエジーの到来

 

 おれは数々の沈黙と夜を書いた。言い表しがたいものを書き留めた。様々な眩暈を定着させた。

「錯乱Ⅱ 言葉の錬金術」より拙訳

 

 やって来い、やって来い

 われを忘れる時よ。

 

こんなにも忍耐した

 永久に忘れよう。

 怖れや苦しみは

 空の彼方に立ち去った。

不健康な渇きは

おれの血管に影を落とす

…………

見つかったぜ!

何がって? 永遠さ。

それは太陽に溶け合った

        海。

 

おれの永遠なる魂よ、

おまえの誓いを見守れ、

ひとりっきりの夜であろうと

燃え上がる昼であろうと。

 

すなわちおまえは解き放たれる

人間たちの同意から、

ありふれた高揚から!

思い通りにおまえは飛んで行く

 

―絶対、希望なんてない、

昇天なんてない、

学問と忍耐さ、

責苦は確かだぜ。

 

明日はもうない

繻子の燠火

   おまえたちの熱烈こそ

   果たすべき義務というもの。

 

見つかったぜ!

何がって?

それは太陽に溶け合った

        海。

        

「錯乱Ⅱ 言葉の錬金術」より拙訳

 

湯浅氏によると、「日常的に生きている時間が途切れる瞬間」、それは「濃密で強烈な質としてのみ内的に生きられる時間」であり、「私」が主体として明確に意識する能力が危うくなる時間である。こうした時間に起こる出来事は、通常の経験とは違い、「真の現前性の関係によって関係できる出来事にはなりえない過剰性を内包している」から、「時間の秩序から解き放たれた」ようになり、「私はもう現在にいるかどうか」分からなくなる、「現在がいつも自己の外へと開く時間である」という。わたしはこの瞬間をポエジーの「私」への到来と呼びたい。

宗教的存在論では、「永遠の生」は天国の王国において、来るはずの彼岸において到達する真の存在だが、ほんとうは「苦悩するこの時は、後に来るはずの時のおかげで償われ、救済されるのではない」。「この時は、それ自体として究極性を持つやり方で消失される」、つまり「消尽」されることが義務なのだ、とランボーは考えていた。カトリック教徒の厳格な母の帝国から逃れようとしたランボーは、自然から感受した強い印象と感覚的な交感を通して真実とリアリティを見つけ出そうとしていた。「この大地に実存する、心身的存在としての人間が今まさに生きるこの瞬間、他者への開きと交流のこの出来事こそ、〈永遠の生〉なのだ」と湯浅氏はいう。したがって、引用したランボーの詩、「太陽に溶け合った海」は、ランボーが現実に目撃した「永遠」なのである。

 

文学的ディスクール

ランボーが経験したような過剰な出来事、つまりポエジーを言葉にすることは苦痛を強いられるが、それは「言葉が潜在的に秘めている力を復権させること」であると湯浅氏はいう。通常の言述では、言葉の力とは再び現存させる能力として不都合が生じることはなく機能し、言葉の仕組みや言葉に内蔵している規範性とその法的効力は疑われることはない。しかしポエジーにかかわる過剰な出来事においては、適合できる言葉に出会うのは困難であるが、その模擬、擬態、喩としての現前ならば可能である。あくまで事象そのものの現前ではなく、〈現前すること〉の模擬、パロディであると湯浅氏は指摘する。

 

 おお季節よ、城よ!

 無疵な心がどこにあるというのか?

 

 おれは幸福の魔術を究めてきた

 誰にもそれから逃げられぬ。

 

 幸福に挨拶だ、ゴールの国の

雄鶏が歌うそのたびに。

 

ああ!これ以上望むまい

幸福におれの人生はゆだねられた

 

この魔力に身も心も奪われて

努力する思いは吹き飛んだ

 

  おお季節よ、城よ!

 

ああ!幸福の逃げ去る時こそは

この世からの撤退の時となるだろう

 

  おお季節よ、城よ!

 

       「錯乱Ⅱ 言葉の錬金術」より拙訳

 

 宇佐美氏の指摘によると、「ゴールの国の雄鶏」という表現は陽気で猥らな意味、すなわち「倒錯の愛欲」という意味を持つという。そう考えると、「幸福」はヴェルレーヌを直接意味することになる。しかしあくまで作品を書く動機として作用したに過ぎず、「錯乱Ⅱ 言葉の錬金術」の中での意味を考えることが大切であるという。「おお季節よ、城よ!」という嘆きは、見者の詩法に全身全霊をかけた二年間を振り返ったときの、詩への決別の思いを込めたものであろう。「幸福の魔術」とは、倒錯的愛を人生の代償にして狂気と錯乱に身を投じ、未知に到達しようとした月日への思いを、「すでに済んだことだ」と言いえる現時点で、文学的創作の中で絶望と矜持の思いを込めて語っている。またそのことがランボーという生身の詩人を考えたとき、私たちに深い哀しみを誘うのである。

 Representation(再現)の能力で事足りる一般的な言述では、言葉の本来の力、言葉という特有のシーニュがどのような力をふるうのかという問いは発せられることはない。それに対して文学的ディスクールでは、「言葉の、言葉としての存在そのものを深く気づかうようになる」と湯浅氏は主張する。「言葉はただ、事象それ自体を消滅させ、無化し、不在化させることによってのみ、そしてその不在化するものの出現として現前させることによってのみ、事象に結ばれている」という。先にも述べたように、言葉は事象そのものを現前させるのではなく、事象そのものの模擬、擬態として現前させると指摘する。したがってこのような文学的ディスク―ルでは真実に到達することは不可能であり、自らに異議を唱え、自らを変えようとする、無限に永続するエクリチュールにならざるをえないという。

 本来、寡黙であったランボーは、沈黙に引き寄せられながらも、言い表せるものの限界を越えようとしたと湯浅氏は指摘する。ランボーの経験する過剰な出来事、ポエジーに言葉が適合しないのは、言葉が始めから模擬的な根源を有しているからだという。つまりパロディやメタファーになるしかない。だが、ランボー自身がその模擬性を忘れ、真に現存することと混同しがちである。適合していると錯覚し、単なる饒舌になる。新しい詩的言語を創り出すことは「生を変える」こととつながっており、空疎な饒舌になってしまうなら、「生を変える」ことに寄与しないだろう。この『地獄の季節』では自らの言葉を揶揄したり嘲ったり、皮肉ったりして模擬的に言いかえていると湯浅氏は指摘する。「呪術的な詭弁」、「語たちの幻覚」、「狂気の詭弁」などと呼ぶ表現でもって、ランボーがこれまでの詩作や思想や行動に省察を自ら加えようとするとき、「私は何者なのか」、「私とはだれなのか」、「真実の私というものはありえるのか」などの問いを深く突きつめようとする動機が内在していると湯浅氏は指摘する。「生を変える実践がどこまで歩み、どんな障壁にぶつかってしまったのか」を根本的に問い直そうとしたのだと湯浅氏はいう。「擬態」となるしかない言葉は真実を告げることができず、「模擬する」ことのうちに真実を虚構することと、「嘘」であることが区別できなくなる。自分の語る言葉が、言葉というものが持つ根源的な模擬性であるのか、「擬(まが)い物」であるかの区別ができなくなる、そのとき詩人は言葉を書くことを断念しようとしたに違いないと湯浅氏は主張する。

 

 自伝とエクリチュール

 文学的試みが「生を変える」試みと深く関連するランボーのような詩人にとって、実人生と作品はどのような関係になるのであろうか。これまでかなり多くの人々が『地獄の季節』を「自伝」として捉えてきたと、湯浅氏はそれに疑問を投げている。「自伝」は、生きた経験をそのまま書こうとして事実だけを記すが、それに対して虚構を含んでいるのが「物語」である。湯浅氏によると、両者の根本的な違いは、言葉の働きをどのように捉えているか、言葉が潜在に秘めている力をどこまで引き出すかにあるという。

 ランボーが書くことによって生を変革しようと考えたとすれば、書くことと書くことに費やす以外の時間を生きることに必然的に差異が生じるが、全く無関係ではありえず、両者は補完的関係にあり、生成する未来を追い求めて絶えず前進し続け、休息することはない。このような関係にある「書くこと」が「エクリチュール」の行為と呼ばれるべきであると私は考える。このように考える詩行為が、普通の意味で、つまり現実体験をそのまま記述する「自伝」であるはずがない。それは湯浅氏が言うところの「テクストの次元における現実性」であって、「生活上の出来事や経験のなす現実性」と混同してはならないのである。しかし、日本の現代詩に特に強調されている「詩の虚構性」を題材とし、詩人の主体を消滅させ詩を成立させる方向性が顕著にみられるが、ランボーから私が触発されることは全く別のことである。ランボーの現実の経験は全て彼の書く詩に深く反映しているという事実がある。それは「自伝」と呼ぶことを否定することと矛盾しない。なぜなら、現実に喚起された事実から真実を発見することが彼にとって「書く」ことであり、自己の内面に向かうことは他者に自己を開くことであるからである。

 湯浅氏によると、『地獄の季節』で語られたことは、ランボーが実際に生きた経験や思考、感情であり、その再現であるという見方を人々に思わせてしまうが、ほんとうはそうではなく、生きた経験や思索や感情を出発点にしつつ、文学作品として物語るために、用語法、比喩法、統辞法などを錬成し、〈物語〉のレヴェルへと転置したのだという。つまり〈物語〉として書かれた経験や出来事は、テクストが書かれる以前に完了し、定まっていたものではなく、テクストの運動と共に起こる出来事という様態においてのみ生起するのだと湯浅氏はいう。すなわちそれはエクリチュールと呼ばれるものである。そしてエクリチュールは先述したように、エクリチュールは新しい読みを求めているが、詩人の経験が深く寄与していることを忘れてはならないだろう。しかし、ランボーは現実の出来事のレヴェルから文学的次元に転置させようと目論んだが、たんに文学作品として完成させようとして終わるのではなく、そこにほんとうの現実があると信じていたのではないだろうか。それゆえ、文学的次元からの超出、あるいはそれへの否定と考えてよいだろう。

 ランボーにあっては、言葉と生の間に密接な連関とアナロジーが観察されるように思われると宇佐美氏はいう。錯乱を通して未知のものに到達するという彼の方法も、現実生活における一つの激しい生き方を指示するものであると同時に、それがそのまま詩的創造の方法ともなりえたと主張する。実世界と想世界の仕切り壁を取り払ってしまおうとした。つまり、書くという行為は、現にみずからがあるところのものではないものに向けて、自己を超出しつづけることを意味していたと宇佐美氏は解釈する。私流に言えば、ランボーは自分を取り巻く世界は仮の世界であり、ポエジーが解き明かす世界こそほんとうに生きるべき世界であると考えたのではないだろうか。ポエジーは不意に詩人の脳裏に宿り、言葉によって分節された恣意的な世界に亀裂を与えるものであり、ランボーは言葉が本来持つ秘められた力を取り戻そうとしたのではないかと思う。言葉によって未来を切り開いていくことが生きる意味であった。

 

ランボー以後の詩の方向性

井筒俊彦氏は、表層次元の下に流動的な言語的意味を持つ深層構造層があり、「意味可能体」は絶え間なく生産され、「名」の世界、つまり表層世界に出現しようとしていると主張する。

 

 「何らかの刺激を受けて、アラヤ識的潜在性から目覚めた意味「種子」が、表層意識に向って発動し出す時、必ずそれは一つ、あるいは一聯の、イマージュを喚起するもの」である。「個々の語(コトバ)の意味作用とイマージュとの間には、ほとんど宿命的な緊密な結びつきがある。」

                              井筒俊彦『意識と本質』

 

 外的であろうと内的であろうと、どんなに些末なことでも、言語的であろうと非言語的であろうと、私たちのどのような経験もカルマの痕跡を残す深層意識の場所を、大乗仏教ではアラヤ識と考える。また個人の経験を越えて、人々の経験の総体のカルマの痕跡が内蔵されていると井筒氏はいう。カルマが意味種子に変成し表層意識に浮上してくる言葉が、いわゆるポエジーと呼ぶものでなくてなんであろう。「何らかの刺激」とは、例えばランボーの「錯乱」であり萩原朔太郎の「自動器械」と呼ぶものであろう。注意すべきは、ポエジーは私たちの足元に降りてくる、つまり、現実の経験の何ものかが呼応し呼び込むことなのだと私は思う。

 ボードレールに啓発された、ランボーやマラルメの行きついたところは、図らずも仏教哲学のテリトリーであったと言えるのではないだろうか。マラルメの、存在無化と偶然性破壊の彼方に、純粋に光り輝く新しい姿で、それらの事物は立ち現われてくると井筒氏がいう絶対言語を考えてみる必要があるだろう。(拙書『来るべき詩学のために(一)』を参照)

 

別れ Adieu

 

すでに秋だ!―だが、どうして永遠の太陽を惜しむのか、聖なる光の発見に身を投じた私たちであるなら、―季節のめぐりに死んでゆく人々から遠く離れて。(ランボー「別れ」の冒頭より拙訳)

 

 多くの人が指摘するように、この記述はボードレールの「秋の歌」を連想させるものがある。

 

 もうすぐ冷たい暗闇へ、私たちは身を投じるだろう。

 さらば、私たちの短過ぎる夏の鮮烈な光よ!

 私たちにはすでに聞こえている、中庭の敷石の上、薪の束が倒れ、

 不吉な爆発音を響かせているその音が。

            ボードレール「秋の歌」より拙訳

 

 時は一刻も休まず移ろい続け、生あるものは死へと向かうことを免れることはできない。それなのに「聖なる光の発見」の願望を捨てきれずにいながら、太陽の光が弱まることで有限な生命を嘆く。しかし、ランボーは永遠回帰の神話的願望に反抗していると湯浅氏は指摘する。だが、ランボーは何に別れを告げようとするのかを確定することは、矛盾しながら提示し物語っているので難しいという。もちろん自ら発する言葉が経験の真実に釣り合うことができなくなったと感じ、詩を放棄することであると思えるという。また、「愛を作り直す」試みが、「偽りの恋愛」となり、心の底から反省していることも確かであるという。しかし、自分が地獄と呼んだものに今までとは異なる視点を見つけ出し、これまでの態度や対応に別れを告げようとしたと考えられると湯浅氏は結論づける。「une saison」(一つの季節)に別れると語っているのだという。このように考えることで、以後に書かれた「イリュミナシオン」の存在が矛盾なく理解できるのであるが、文学そのものを放棄したのではなく、次に迎えるべき「季節」、つまりイリュミナシオンの詩作の構想を断念したことになろう。

 

「絶対に近代的でなければならない」というランボーの言葉は、近代という与件を「絶対に」引き受けるべきだという意味だと湯浅氏は主張する。「福音は去ってしまった」ということを受け止めることが「絶対に近代的である」ということの意味であろうという。「自らの心が統一されていないことに耐えるべきである」ということ。この論考で論じてきた、表層言語では自己同一性は成立しないことが理解できたであろう。今や深層意識の深みでポエジーの言葉を捉えようとする時が来たと言えよう。ここでも留意すべきは、かつてのシュルレアリズムという生き方の問題が、手法として理解し実践されたに過ぎなかったように、深層意識においてポエジーを理解し詩作することは、部分的な窃取ではなく、全面的な受容の態度、つまり生き方との対決が求められることである。なぜなら、「存在解体」(空化)なくして仏教哲学は成立しないからだ。

 

 見過ぎた。ヴィジオンはどんな空気にも見つかった。

 あり過ぎた。街々のざわめき、夕方に、照らされた陽光で、いかなるときも。

 知り過ぎた。生活の中断。―喧噪と幻影よ!

 新たな情愛と響きのなかへ出発だ!

                   『イリュミナシオン』「出発」より拙訳

  (次回は『イリュミナシオン』について論じることになります。)



コメントを投稿