ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

雑記、「ランボーのこと」 小林稔評論集『来るべき詩学のために(二)』に収録より

2016年01月17日 | ランボー研究

ランボーのこと 


 もはやランボーという歴史上、実在した一詩人が問題なのではない。二千年を超える西洋文化史のなかで、固有名詞ランボーという身体を通過した詩の諸問題を考え、さらにはわが国の現代詩の源流である新体詩以降の流れに私たちが位置する意味を考えてみたいのである。
 青春期に患う一過性の熱病のようにランボー体験を捉える人もいれば、ランボーのみならずヨーロッパの詩から直接的な関係を絶ち、すでに日本の詩はそれ自身として確立していると考える人たちも多くいよう。しかし、あえていま私が普通名詞としてのランボーに(現代詩を考える上で避けられない現象という意味で)言及するのは、日本の現代詩が、新体詩以前の詩歌との、あるいは現代においても書き継がれている短歌や俳句との相違を明確にさせていないからである。ジャンルによることなく、詩を感ずればよしとする書き手もいるが、それは読み手の側の論理であり、詩の存在意義を矮小化してしまうことになる。明らかに、詩という形式でしかできない内容があると信じるのである。
 塚本邦雄を嚆矢とする現代短歌の世界は一つの頂点を極めた、とする私の考えが妥当性をもちえるならば、現代詩の世界はいくつかの峰々が屏風のように取り巻いているにすぎない。言い方を変えれば千差万別で、試行錯誤ばかりが目立つのである。つまり混迷のみを深め詩人相互の連関がないのである。確立には程遠いと言わざるをえない。詩人相互の批評が成立していないことの理由も同じところにある。短歌や俳句、さらに小説との分岐線はどこに引かれるのであろうか。詩においてのみなしえることとは何かを考えたいのである。それが私のランボー問題の原点である。
 反発を恐れずに言えば、ほんとうの詩作は詩人の生き方と分離して考えることはできないということである。詩人が何を考え、どのように時間を捉えるか、つまり自分という一過性の生を歴史に位置づけ、いかに生き、何を書きえか、その足跡を残さずして詩人と呼ぶことはできない。しかし、言葉に残したものだけが詩であるという意見に異を唱えるわけではない。このことは詩人の生を重視することと矛盾しない。この点では、読み手の関心とは必ずしも重複しない。あくまで詩人の行き方の問題として提出したいのである。もっとも、詩より詩人の生き方に関心を寄せ、伝説の詩人像に興味を寄せる読み手がいるが、詩作の真相を歪曲するだけであり、書き手は極力避けなければならない。かつてプルーストは、文学を知るにはその作者を知らなければならないと主張するサントブーヴに反論した。日常生活をする自我と、書こうとする自我は同じではない。書こうとする自我には、たとえば一人の詩人に自覚された詩人像があり、その詩人の生を牽引するものであろう。詩人像とは詩人としての生の自覚からなされる理想像である。ランボーのいわゆる見者の手紙が表明している。書かれた詩は詩人自身の生を切り開く啓示となる。プルーストの場合は、彼の生涯を再発見することに小説の使命を悟ったが、詩人はそれ以上に、現在時の生から詩を生みだす者であるという観点では異なる、と私は考える。その生とは、彼の捉える詩人像に牽引された生である。ここで、「個別的なものの頂点でこそ普遍的なものが花開く」と述べたプルースト自身の言葉を引くのも無駄ではないだろう。小説家のみならず、詩人にも言えることだからである。つまり一詩人の存在理由なくして普遍性に到達する詩を獲得できないと考えるのである。詩人自身の生が一つの実験であるという意味もそこにある。



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